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ゆるゆると漂っていた夢の淵から、ふっと身体を浮上させるかのように、何の前触れもなく唐突に目を覚ましたラズリは自身の手の中に何か固いものが握らされていることに気づいた。
寝台に横たわったまま、ゆっくりと顔面近くまで手を上げ、落とさないよう慎重に慎重を重ねて、そっと手のひらを開いてみる。
自分の掌の中にすっぽりとおさまったそれは、ほとんど研磨されていない、自然に削り取られたような石で、その無色透明さは透かした向こう側に自分の手の肌色がうっすらと見えるほどだった。
これは…?
自分が何故そんなものを後生大事に握っていたのか、ラズリにはちっとも見当つかなかった。
それでもその石を握っていると何故だか自分の内側にふつふつとした、得体は杳として知れないが、妙に心地良い温かな波動を感じることができるのだった。
きっと、多分。薬師か魔法使いの誰かが自分に持たせていたまじない道具の一つなのかもしれないな…。
実際のところ、それが本当にその通りなのかラズリには到底判別つかなかったが、それでも石から受ける計り知れないエネルギーの大きさに、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
――やっぱり、ダメだったのか。
自分がこうして宮殿内の寝台の上に寝かされていること、体のあちこちに痛みを覚え、目につく部位に包帯や湿布があてがわれているという事実。それを見てラズリは、自身の思い描いていた希みが達成されなかったこと、計画が失敗に終わったことをひしひしと感じ取っていた。
『古い言い伝えだから本当かどうかわからないけれど、ご先祖様は竜と友達だったんだって。それで空を飛ぶ術を得たとかって…』
――自分にちゃんと竜が捕まえられていたら。そうしたら、あの子が言った通りにその力をわけてもらえたのかもしれないのに…。
ラズリはたまらず、ぎゅっと目をつむった。
まぶたの裏に映るのは一人の女の子の顔。
離宮のあるファナトゥの領地で会った女の子。
まるでそこにもずっと道が続いているように、軽々と空中歩行を楽しんでいた女の子。
やわらかにうねる長い黒髪に藍をうんと濃くした瞳。その目をじっと見つめていると、だんだん彼女の深い海にその身が吸い込まれそうな感覚になったっけ…。
いつか空が飛べるだろうか。
あの子のように空を飛ぶことが…?
まぶたを強くつぶっていたせいか、まだ熱冷ましか何かの薬効が完全に身体から抜けていかなかったためか、急激に襲われるどうにも抗いがたい眠気にとうとう負け、ラズリはそのまま意識を遠のかせていくのだった。
ふいに目覚めて、枕元の時計を見るとだいぶ夕食の時間が過ぎていたことにアガシは気付いた。油断したせいか、うっかりうたた寝をしてしまったらしい。
…うわ、やっべぇ。まった、あの優等生からお小言ちょうだいかよ。こーりゃまいったなあ。
そんなことを思いながら、椅子の背にかけていた制服の上着を慌ててひっつかみ、急ぎ本館一階の大食堂を目指して部屋を飛び出して行った。
生徒たちそれぞれが選択する履修課目により、思い思いの形式で摂って良しとされている昼食時と異なり、朝食時はそれぞれの寮内の食堂にて、夕食は全員揃って大広間の大食堂にてクラスごとに席が決められ皆が一斉に、行儀よくとらねばならないのが学院のしきたりであった。
寮から本館まで休みなく走りに走って、アガシはやっと目的の場所までたどり着く。そろそろと出入り口のドアを開けて食堂に入ると、既に皆、各々の席に着いて食事を進ませている最中だった。
アガシは自身の長身をこんな時だけうらめしく思いながら、目立たないようにうんと腰を落としてそそくさと室内を進んでいくのだった。
自分の席を目指しながら最短距離で通路を過ぎていこうとしたその時、アガシは長テーブルの席に座っていたカレンとセレの姿が目に留まった。
二人が食事を摂りながらにこやかに談笑し合っているその隣り、普段通りであれば見知った顔がもうひとつそこにあるはず。
だのに、何故だか今夜はぽつんとひとつだけ、空席が出来ていることにアガシはハッとするのだった。
「なあ、お嬢はんがた。ティーナは? どないしたん?」
アガシはたまらず、進路を変更してカレンとセレの席のそばまでそっとやってくると、彼女たちが交わす会話をそこで中断させてしまうのを承知でそうたずねてみる。
二人はアガシがいきなり自分たちの背後に現れたことにはじめは驚いた様子を示したが、すぐにいつもの慣れた態度でティーナが保健室で休んでいることを彼に告げるのだった。
「…は? 保健室やて? なしてまたそないなところにおるんや、わいの愛しのマイハニーは」
「えっと、それがね、なんか足をひねったみたいなんですって」
「そう。食事が始まる前にラズリが先生に報告していたのをさっき聞いたから、多分間違いないと思うわ」
「なんでも、階段を踏み外して落ちちゃったとか? で、たまたまその場に居合わせたラズリが保健室に連れていってミランダ先生に手当てをしてもらったそうよ」
ラズリが、ティーナを…?
セレとカレンが交互にかいつまんで話した事後報告に、アガシは思わず食堂の中をぐるりと眺め渡してラズリの姿を探すと、さほどかからず彼の姿を大勢の生徒の中から見つけることができた。
ラズリはちょうど、ちぎったパンを頬張り、さらにフォークで一口大に切り分けた鴨肉を、皿にかけられていたオレンジソースをたっぷりつけて刺してはせっせと口に運んでいる最中だった。
さして普段と変わらない様子、いつも通りに落ち着き然としたその態度。そんな彼のことを傍目から眺めているだけで、何故だろうか、アガシはいきおい胸くそ悪い、妙に腹ただしい気分にかられて仕方なくなってしまった。
はーん、ラズリが…ねえ。
なーんやねんなあ、それってばよぉ。さっきティーナのことをあんな風に抜かしてやがっていたくせに、なあ?
これといってさしたる理由はなかったが、どうにもむかむかした気分がぬぐえなくなってしまったアガシ。そこで、よし、と決意を固めると、彼女たちにこの場から席を外すことをこそりと告げた。
「んじゃ、わいはちょっくら行ってくらぁ」
「行くって…? どこに」
「ティーナの様子見に保健室や。先生に聞かれたらうまく言っといてくれや、頼むで」
それだけを早口で言い残すと、アガシはまた先ほどのようにやや中腰になった格好でそそくさとその場を去って行った。
そんな彼に続こうというのか、セレはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。そして、自分も保健室に向かおうと一歩足を出した途端、隣りにいたカレンは彼女の手をやおらつかみ「いいから」と引き止め、再度着席を促した。
「でも、カレン…」
「アガシにまかせておきなさいよ。きっと大丈夫でしょ。彼、あれでいてけっこう面倒見がいいもの」
「それは…。そうかもしれないけど、カレンはティーナが心配じゃないの?」
カレンの手を振りほどけず、渋々と席に着いたセレが不満げな声をもらすと、カレンはセレから手を離しながら唇に微笑をたたえて「だってお邪魔しちゃ悪いじゃない?」と返す。
「…そーゆー問題?」
やっと彼女のセリフの意図するところを察したらしく、セレはやれやれと吐息をつくと、カレンはふふふと悪戯っぽそうな視線を返事の代わりによこした。
「いいんじゃないの? たまにはアガシに花を持たせてあげなくちゃ、ね」
「カレンったら…」
半ばあきれ気味にセレがカレンを見ると、彼女はすました表情のまま、スプーンですくったスープを口に運んでいるところだった。
それにしても、どういう風の吹き回しで、そんなにも平然としていられるわけ?
セレがさらに彼女を問い詰めようとした時ふと、「もしや?」とひとつだけ思い当たる節があった。そこでセレは恐る恐る、話を切り出してみる。
「ね、カレン。あなたもしかして…この間のアガシへのお詫びのつもり?」
セレのストレートな物言いにカレンはさっと反応したらしく、スープ皿の縁にスプーンをかちりと当てて音を鳴らしてしまった。
だが、それもほんの一瞬のこと。すぐさま何ごともなかったといった風情で、スープの中に入っていたかぶだのにんじんだのの野菜をスプーンですくっては口の中に運び続けるのだった。
「やっぱり…そういうことか」
カレンの態度から判断して一人納得してうなずくセレ。
それに対しカレンは、ちょっとだけにらむような目つきで「うるさいわね」と言い返した。
「…ま、そういうところがカレンらしいっていえばカレンらしいんだけどもね。結局あの時のことって、なんだかうやむやになっちゃったじゃない? アガシったら全然気にしていないっていうか、態度が前とちっとも変わらなかったし」
「も、もうっ。いいわよセレ。そんなことはどうでもいいから、あなたもさっさと食べちゃいなさいな。ねえ、さっきから全然減ってないんじゃない? おかずもパンも。そんなにいっぱい残したらお給仕当番の子に叱られるわよ」
話の流れを変えようとでもするのか、急にそんなことを言い出してきたカレンに、セレは「はいはい」と軽く受け流しながら、どうにも噴き出したいのをこらえ気味にフォークを手に取った。
「後で顛末を聞かせてもらいましょうね。ティーナが部屋に戻ったら」
「…じっくりと?」
「もちろん。たっぷりとね」
「さらに膝つきあわせて、とか?」
「ふふふ、そうね。消灯時間過ぎてから三人の内の誰かのベッドの中にみんなでもぐりこんでお布団かぶりながら、とかだったらさらに盛り上がるかもね」
あらあら。なんだか自分よりも二人の成り行きを面白がっているのはセレの方じゃないの?
少しだけあきれ気味なためいきをつきながらも、カレンはセレとその後も他愛ない会話を重ながら、そのまま時間まで夕食を摂り続けるのだった。
こつこつとノックをしたものの、部屋の中からの入室許可の返事を待つのすらもどかしく、アガシはがちゃりとノブを回して保健室のドアを勢いよく開け放った。
「失礼します。ティーナ・アルトゥンがこちらに…」
言いかけて、アガシは思わずぎょっとして声を飲み込む。
出入り口から少し離れた場所にしつらえられた寝台の上で仰向けの姿勢で横たわるティーナ。
そんな彼女のそばに立ち、片手を寝台の上に置いた格好で、その顔をそっとのぞきこんでいるミランダの姿にアガシは目が釘付けになったのだ。
窓の外はすっかり夜の帳が落ちきっていたにもかかわらず、天井から吊り下げられた照明器具には一切明かりを灯していない。唯一の光源は、いくつか並んだ寝台のすぐそばにある小棹の上に置かれた細い蝋燭の頼りない火のみ。その、今しも消え入りそうな弱々しいほのかな光によって照らしだされるのはミランダの横顔。そこに浮かぶ陰影があまりにも極端なほどコントラストを際立たせ、まるでこの世のものならぬ、何か他の、人間ではないもっと別の生物を想起させるようで、どうにもぞっとする思いを禁じえなかったのだ。
「…あらぁ、アガシじゃない。あなたどうしたのぉ?」
しかし、そんな彼の抱いた印象に反し、ミランダはアガシの方をくるりと振り向くと、実に拍子抜けするほど明るい口調で呼びかけてきた。
「もうとっくに夕飯の時間は過ぎてるでしょ。さっきラズリが点呼当番だからって行っちゃったものね…。まさか同室のあなたがそれを知らないわけ、ないわよねぇえ?」
「ええ、はい…。でも、ティーナがケガをしたって聞いたんで、それで。あの、彼女の様子は? もう大丈夫なんでしょうか」
「まああ、あなたったらいつのまにティーナの騎士くんになっちゃったのかしらあ。先生初耳よぉ。おどろいちゃったわぁ」
大げさなくらいにに目を見張り、フフフと意味深な含み笑いをもらすミランダ。
しかし、アガシはそんな彼女の物言いにほとほと嫌気がさしたのか、憮然とした表情で彼女に相対した。
それでも彼女はそんなアガシの心情を知ってか知らずしてか、平然とした態度を崩さず、さらに軽口を叩いてくるのだった。
「…ふふふ、そうねお姫さまはこの通り、千年の眠りからまだ目覚めてないけどぉ。ど? ためしにやってみるぅ? あなたお得意でしょ、お目覚めのキッスくらい」
「…先生。この期に及んでそういう冗談はキツイっすよ?」
一人の生徒が怪我をして運び込まれたというのに、いったいどういうつもりでそこまで茶化すのか。
半ばあきれ顔を示すアガシであったが、そんな二人のやりとりが契機となったらしいく、ずっと深く寝入っていたティーナが「うう…ん」と声を出しながらゆっくりとまぶたをしばたいていった。
「あら? ティーナったらもうお目覚めなのお?」
ミランダが声をかけると、ティーナは眠気を帯びてまだぼんやりする頭を軽く振り、のそのそと身体を動かして起き上がった。
「やだ…。あたし、いつの間に寝ちゃって…?」
目をこすりながら辺りをうかがうと、すっかり夜の様相を示していたことに半ば驚きつつ、ティーナは寝台から静かに足を下ろした。
「どうする? ここで一晩休んでいってもかまわないのよ」
ミランダは立ち上がろうとするティーナの身体を支えようとでもするのか、手をのばしてきた。
しかしティーナにはミランダのその動きが逆に自分を寝台へと押し戻そうとするかのようにも見え、とっさにそれをかわすようにしてついっと寝台から立ち上がった。
「あ…大丈夫です。その…。あたし、部屋に戻ります」
脱がされていた靴に足を入れ、とんとんと床をつま先で叩いてきちんとはく。寝乱れていた服装や髪型を直して手早く整え終わると、ティーナ少しびっこを引くような歩き方でぎこちなくアガシの立つ出入り口付近まで進んでいった。
「その方がゆっくり休めるならその方がいいわね。アガシ、あなた彼女を女子寮前まで送り届けてあげてちょうだい」
「…わかりました」
あんたから言われなくても、そうするつもりだったし。
アガシはミランダから自分が言うよりも前に先んじて命じられたことに半ばむっとしつつも、特に彼女と波風を立てたいわけでもなかったので、今はティーナのことを気遣うのが先決とばかりに、彼女の腕にさっと手を回した。それから軽く「失礼しました」を頭を下げ、ティーナと共にそそくさと保健室を出て行くのだった。
扉が閉まり、完全に彼らの姿が見えなくなると、ミランダは一人、誰に聞かせることもなくくすりと笑みを浮かべながらぽつんとつぶやいた。
「…アガシが送り狼にならなきゃいいけど、ってティーナに言っておけばよかったかしら」
寝台に横たわったまま、ゆっくりと顔面近くまで手を上げ、落とさないよう慎重に慎重を重ねて、そっと手のひらを開いてみる。
自分の掌の中にすっぽりとおさまったそれは、ほとんど研磨されていない、自然に削り取られたような石で、その無色透明さは透かした向こう側に自分の手の肌色がうっすらと見えるほどだった。
これは…?
自分が何故そんなものを後生大事に握っていたのか、ラズリにはちっとも見当つかなかった。
それでもその石を握っていると何故だか自分の内側にふつふつとした、得体は杳として知れないが、妙に心地良い温かな波動を感じることができるのだった。
きっと、多分。薬師か魔法使いの誰かが自分に持たせていたまじない道具の一つなのかもしれないな…。
実際のところ、それが本当にその通りなのかラズリには到底判別つかなかったが、それでも石から受ける計り知れないエネルギーの大きさに、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
――やっぱり、ダメだったのか。
自分がこうして宮殿内の寝台の上に寝かされていること、体のあちこちに痛みを覚え、目につく部位に包帯や湿布があてがわれているという事実。それを見てラズリは、自身の思い描いていた希みが達成されなかったこと、計画が失敗に終わったことをひしひしと感じ取っていた。
『古い言い伝えだから本当かどうかわからないけれど、ご先祖様は竜と友達だったんだって。それで空を飛ぶ術を得たとかって…』
――自分にちゃんと竜が捕まえられていたら。そうしたら、あの子が言った通りにその力をわけてもらえたのかもしれないのに…。
ラズリはたまらず、ぎゅっと目をつむった。
まぶたの裏に映るのは一人の女の子の顔。
離宮のあるファナトゥの領地で会った女の子。
まるでそこにもずっと道が続いているように、軽々と空中歩行を楽しんでいた女の子。
やわらかにうねる長い黒髪に藍をうんと濃くした瞳。その目をじっと見つめていると、だんだん彼女の深い海にその身が吸い込まれそうな感覚になったっけ…。
いつか空が飛べるだろうか。
あの子のように空を飛ぶことが…?
まぶたを強くつぶっていたせいか、まだ熱冷ましか何かの薬効が完全に身体から抜けていかなかったためか、急激に襲われるどうにも抗いがたい眠気にとうとう負け、ラズリはそのまま意識を遠のかせていくのだった。
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ふいに目覚めて、枕元の時計を見るとだいぶ夕食の時間が過ぎていたことにアガシは気付いた。油断したせいか、うっかりうたた寝をしてしまったらしい。
…うわ、やっべぇ。まった、あの優等生からお小言ちょうだいかよ。こーりゃまいったなあ。
そんなことを思いながら、椅子の背にかけていた制服の上着を慌ててひっつかみ、急ぎ本館一階の大食堂を目指して部屋を飛び出して行った。
生徒たちそれぞれが選択する履修課目により、思い思いの形式で摂って良しとされている昼食時と異なり、朝食時はそれぞれの寮内の食堂にて、夕食は全員揃って大広間の大食堂にてクラスごとに席が決められ皆が一斉に、行儀よくとらねばならないのが学院のしきたりであった。
寮から本館まで休みなく走りに走って、アガシはやっと目的の場所までたどり着く。そろそろと出入り口のドアを開けて食堂に入ると、既に皆、各々の席に着いて食事を進ませている最中だった。
アガシは自身の長身をこんな時だけうらめしく思いながら、目立たないようにうんと腰を落としてそそくさと室内を進んでいくのだった。
自分の席を目指しながら最短距離で通路を過ぎていこうとしたその時、アガシは長テーブルの席に座っていたカレンとセレの姿が目に留まった。
二人が食事を摂りながらにこやかに談笑し合っているその隣り、普段通りであれば見知った顔がもうひとつそこにあるはず。
だのに、何故だか今夜はぽつんとひとつだけ、空席が出来ていることにアガシはハッとするのだった。
「なあ、お嬢はんがた。ティーナは? どないしたん?」
アガシはたまらず、進路を変更してカレンとセレの席のそばまでそっとやってくると、彼女たちが交わす会話をそこで中断させてしまうのを承知でそうたずねてみる。
二人はアガシがいきなり自分たちの背後に現れたことにはじめは驚いた様子を示したが、すぐにいつもの慣れた態度でティーナが保健室で休んでいることを彼に告げるのだった。
「…は? 保健室やて? なしてまたそないなところにおるんや、わいの愛しのマイハニーは」
「えっと、それがね、なんか足をひねったみたいなんですって」
「そう。食事が始まる前にラズリが先生に報告していたのをさっき聞いたから、多分間違いないと思うわ」
「なんでも、階段を踏み外して落ちちゃったとか? で、たまたまその場に居合わせたラズリが保健室に連れていってミランダ先生に手当てをしてもらったそうよ」
ラズリが、ティーナを…?
セレとカレンが交互にかいつまんで話した事後報告に、アガシは思わず食堂の中をぐるりと眺め渡してラズリの姿を探すと、さほどかからず彼の姿を大勢の生徒の中から見つけることができた。
ラズリはちょうど、ちぎったパンを頬張り、さらにフォークで一口大に切り分けた鴨肉を、皿にかけられていたオレンジソースをたっぷりつけて刺してはせっせと口に運んでいる最中だった。
さして普段と変わらない様子、いつも通りに落ち着き然としたその態度。そんな彼のことを傍目から眺めているだけで、何故だろうか、アガシはいきおい胸くそ悪い、妙に腹ただしい気分にかられて仕方なくなってしまった。
はーん、ラズリが…ねえ。
なーんやねんなあ、それってばよぉ。さっきティーナのことをあんな風に抜かしてやがっていたくせに、なあ?
これといってさしたる理由はなかったが、どうにもむかむかした気分がぬぐえなくなってしまったアガシ。そこで、よし、と決意を固めると、彼女たちにこの場から席を外すことをこそりと告げた。
「んじゃ、わいはちょっくら行ってくらぁ」
「行くって…? どこに」
「ティーナの様子見に保健室や。先生に聞かれたらうまく言っといてくれや、頼むで」
それだけを早口で言い残すと、アガシはまた先ほどのようにやや中腰になった格好でそそくさとその場を去って行った。
そんな彼に続こうというのか、セレはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。そして、自分も保健室に向かおうと一歩足を出した途端、隣りにいたカレンは彼女の手をやおらつかみ「いいから」と引き止め、再度着席を促した。
「でも、カレン…」
「アガシにまかせておきなさいよ。きっと大丈夫でしょ。彼、あれでいてけっこう面倒見がいいもの」
「それは…。そうかもしれないけど、カレンはティーナが心配じゃないの?」
カレンの手を振りほどけず、渋々と席に着いたセレが不満げな声をもらすと、カレンはセレから手を離しながら唇に微笑をたたえて「だってお邪魔しちゃ悪いじゃない?」と返す。
「…そーゆー問題?」
やっと彼女のセリフの意図するところを察したらしく、セレはやれやれと吐息をつくと、カレンはふふふと悪戯っぽそうな視線を返事の代わりによこした。
「いいんじゃないの? たまにはアガシに花を持たせてあげなくちゃ、ね」
「カレンったら…」
半ばあきれ気味にセレがカレンを見ると、彼女はすました表情のまま、スプーンですくったスープを口に運んでいるところだった。
それにしても、どういう風の吹き回しで、そんなにも平然としていられるわけ?
セレがさらに彼女を問い詰めようとした時ふと、「もしや?」とひとつだけ思い当たる節があった。そこでセレは恐る恐る、話を切り出してみる。
「ね、カレン。あなたもしかして…この間のアガシへのお詫びのつもり?」
セレのストレートな物言いにカレンはさっと反応したらしく、スープ皿の縁にスプーンをかちりと当てて音を鳴らしてしまった。
だが、それもほんの一瞬のこと。すぐさま何ごともなかったといった風情で、スープの中に入っていたかぶだのにんじんだのの野菜をスプーンですくっては口の中に運び続けるのだった。
「やっぱり…そういうことか」
カレンの態度から判断して一人納得してうなずくセレ。
それに対しカレンは、ちょっとだけにらむような目つきで「うるさいわね」と言い返した。
「…ま、そういうところがカレンらしいっていえばカレンらしいんだけどもね。結局あの時のことって、なんだかうやむやになっちゃったじゃない? アガシったら全然気にしていないっていうか、態度が前とちっとも変わらなかったし」
「も、もうっ。いいわよセレ。そんなことはどうでもいいから、あなたもさっさと食べちゃいなさいな。ねえ、さっきから全然減ってないんじゃない? おかずもパンも。そんなにいっぱい残したらお給仕当番の子に叱られるわよ」
話の流れを変えようとでもするのか、急にそんなことを言い出してきたカレンに、セレは「はいはい」と軽く受け流しながら、どうにも噴き出したいのをこらえ気味にフォークを手に取った。
「後で顛末を聞かせてもらいましょうね。ティーナが部屋に戻ったら」
「…じっくりと?」
「もちろん。たっぷりとね」
「さらに膝つきあわせて、とか?」
「ふふふ、そうね。消灯時間過ぎてから三人の内の誰かのベッドの中にみんなでもぐりこんでお布団かぶりながら、とかだったらさらに盛り上がるかもね」
あらあら。なんだか自分よりも二人の成り行きを面白がっているのはセレの方じゃないの?
少しだけあきれ気味なためいきをつきながらも、カレンはセレとその後も他愛ない会話を重ながら、そのまま時間まで夕食を摂り続けるのだった。
** ** **
こつこつとノックをしたものの、部屋の中からの入室許可の返事を待つのすらもどかしく、アガシはがちゃりとノブを回して保健室のドアを勢いよく開け放った。
「失礼します。ティーナ・アルトゥンがこちらに…」
言いかけて、アガシは思わずぎょっとして声を飲み込む。
出入り口から少し離れた場所にしつらえられた寝台の上で仰向けの姿勢で横たわるティーナ。
そんな彼女のそばに立ち、片手を寝台の上に置いた格好で、その顔をそっとのぞきこんでいるミランダの姿にアガシは目が釘付けになったのだ。
窓の外はすっかり夜の帳が落ちきっていたにもかかわらず、天井から吊り下げられた照明器具には一切明かりを灯していない。唯一の光源は、いくつか並んだ寝台のすぐそばにある小棹の上に置かれた細い蝋燭の頼りない火のみ。その、今しも消え入りそうな弱々しいほのかな光によって照らしだされるのはミランダの横顔。そこに浮かぶ陰影があまりにも極端なほどコントラストを際立たせ、まるでこの世のものならぬ、何か他の、人間ではないもっと別の生物を想起させるようで、どうにもぞっとする思いを禁じえなかったのだ。
「…あらぁ、アガシじゃない。あなたどうしたのぉ?」
しかし、そんな彼の抱いた印象に反し、ミランダはアガシの方をくるりと振り向くと、実に拍子抜けするほど明るい口調で呼びかけてきた。
「もうとっくに夕飯の時間は過ぎてるでしょ。さっきラズリが点呼当番だからって行っちゃったものね…。まさか同室のあなたがそれを知らないわけ、ないわよねぇえ?」
「ええ、はい…。でも、ティーナがケガをしたって聞いたんで、それで。あの、彼女の様子は? もう大丈夫なんでしょうか」
「まああ、あなたったらいつのまにティーナの騎士くんになっちゃったのかしらあ。先生初耳よぉ。おどろいちゃったわぁ」
大げさなくらいにに目を見張り、フフフと意味深な含み笑いをもらすミランダ。
しかし、アガシはそんな彼女の物言いにほとほと嫌気がさしたのか、憮然とした表情で彼女に相対した。
それでも彼女はそんなアガシの心情を知ってか知らずしてか、平然とした態度を崩さず、さらに軽口を叩いてくるのだった。
「…ふふふ、そうねお姫さまはこの通り、千年の眠りからまだ目覚めてないけどぉ。ど? ためしにやってみるぅ? あなたお得意でしょ、お目覚めのキッスくらい」
「…先生。この期に及んでそういう冗談はキツイっすよ?」
一人の生徒が怪我をして運び込まれたというのに、いったいどういうつもりでそこまで茶化すのか。
半ばあきれ顔を示すアガシであったが、そんな二人のやりとりが契機となったらしいく、ずっと深く寝入っていたティーナが「うう…ん」と声を出しながらゆっくりとまぶたをしばたいていった。
「あら? ティーナったらもうお目覚めなのお?」
ミランダが声をかけると、ティーナは眠気を帯びてまだぼんやりする頭を軽く振り、のそのそと身体を動かして起き上がった。
「やだ…。あたし、いつの間に寝ちゃって…?」
目をこすりながら辺りをうかがうと、すっかり夜の様相を示していたことに半ば驚きつつ、ティーナは寝台から静かに足を下ろした。
「どうする? ここで一晩休んでいってもかまわないのよ」
ミランダは立ち上がろうとするティーナの身体を支えようとでもするのか、手をのばしてきた。
しかしティーナにはミランダのその動きが逆に自分を寝台へと押し戻そうとするかのようにも見え、とっさにそれをかわすようにしてついっと寝台から立ち上がった。
「あ…大丈夫です。その…。あたし、部屋に戻ります」
脱がされていた靴に足を入れ、とんとんと床をつま先で叩いてきちんとはく。寝乱れていた服装や髪型を直して手早く整え終わると、ティーナ少しびっこを引くような歩き方でぎこちなくアガシの立つ出入り口付近まで進んでいった。
「その方がゆっくり休めるならその方がいいわね。アガシ、あなた彼女を女子寮前まで送り届けてあげてちょうだい」
「…わかりました」
あんたから言われなくても、そうするつもりだったし。
アガシはミランダから自分が言うよりも前に先んじて命じられたことに半ばむっとしつつも、特に彼女と波風を立てたいわけでもなかったので、今はティーナのことを気遣うのが先決とばかりに、彼女の腕にさっと手を回した。それから軽く「失礼しました」を頭を下げ、ティーナと共にそそくさと保健室を出て行くのだった。
扉が閉まり、完全に彼らの姿が見えなくなると、ミランダは一人、誰に聞かせることもなくくすりと笑みを浮かべながらぽつんとつぶやいた。
「…アガシが送り狼にならなきゃいいけど、ってティーナに言っておけばよかったかしら」
** ** **
保健室から廊下、廊下から出入り口のドアを開けて、校舎からも出たアガシとティーナは、女子寮へと続く野道をほとんど会話も交わさず並んで黙々と歩いていた。
頭上の空には満月から数日経った頃の欠けた月が青白く浮かび、さまざまな虫の音が方々から聞こえていた。
風が吹き、草がなびき、林立する木々の枝がゆっくりとしなって、さわさわと葉を揺らした。そこには確かに静かな夜の風景が広がり、二人はまるでその中に溶け込んだ影のようだった。
外の道に出てしばらくは、ややいくぶん速度を落とし気味ではあってもそれなりの歩幅を取り、コンスタントな歩みが続いていた。しかし、次第に距離が進むにつれ、ティーナは足取りをよろよろとおぼつかなくさせ、アガシよりも数歩分もの遅れを見せはじめた。
やはり怪我のためか、それとも先ほどまで泥のようにこんこんと眠っていた身体がまだ完全に目覚めきっていないのか。ティーナは自分が思うようには、普段通りに歩くのがままならなくなってきたのだった。
するとそんな彼女を気遣うためか、アガシはふいに立ち止まり、後からついてくる彼女の方に自分から近づいていくと、その体を支えるべく、ぐっと腕をのばしてその腰と肩に手をのばしてきた。
またしても声がけなど一切せず、いきなりそんな行動に出てくるものだからティーナの方が驚いてしまう。すぐに「一人で歩けるから、大丈夫だから」と彼の助けを拒もうとするのだが、そんな彼女の意に反し、アガシは有無を言わせないといった風情で力いっぱいティーナを自分の方に抱き寄せるのだった。
「アホ抜かすな。この際、恥ずかしがっとる場合やないやろ。ええか? そないにつべこべ言うたかて、あんさんはりっぱなケガ人やで。それをわいが黙って指くわえて見ておれるかいな」
普段のアガシのように冗談めかしたおふざけ半分で彼女にちょっかいを出してくるのとは異なり、うってかわって真剣そのものといった口調にティーナもとうとう折れ、彼に身をゆだねることにした。
また本音を言えば、アガシからの申し出はティーナにとっても実にありがたかったのだ。ミランダから適切な処置を受けたとはいえ、やはり杖か何かがほしいと思うくらい、何の支えもなく、でこぼした土の道を、月が出ているとはいえ暗がりの下で歩くのはずいぶん心もとなかったので。
「…なあ、ティーナ」
ティーナがアガシに寄りかかるようにして歩き出してすぐのこと、意を決したようにアガシは口を開いた。
「何ぞあったんか…? そないな怪我しよるようなことが、何か」
「…え? う、ううん」
ふいにアガシにそうたずねられ、とっさにティーナは首を振った。
「あのね、ちょっとね、ドジっちゃっただけだから。いつものことだし、別にそんな…。何も…何もないけど?」
繰り返し否定しながらも、ティーナはアガシに問われたことにより自身の記憶が揺り起こされてしまったらしく、何やら急に思い出したことがあったようだ。けして何もないと断言しながら、自然につんと目頭を熱くさせ、あっという間にぽろぽろと涙ををこぼしだした。
「…あんなあ、ティーナ」
一目でわかるほどいたく彼女の心が揺れ動いた様に、アガシは半ばやりきれないといった風情でためいきをひとつしぼり出す。
「そりゃ何もありませんって態度やないで。自分でもわかっとるやろ? ほれ、ええから。この際やから、その心のもやもやを全部わいに吐き出してスッキリしちまったらどうや。その方が絶対に気持ちええって、なあ。楽になれやティーナ。…な?」
アガシがティーナをせっつくと、それがまた彼女の感情を高ぶらせるきっかけとなったらしい。ティーナは先ほどよりもっと、熱い雫でまぶたが潤むのを禁じえなかった。
泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ…。
泣いたら、アガシが心配する。自分のことのように案じて、すごくやさしく声をかけてくれるから。どうもありがとうねって言おう。ほらもう、大丈夫だよって、うんと笑って答えなくちゃ。
そうよ泣いちゃだめ。泣いちゃだめなんだから、泣いちゃ…。
…だって、そうでしょう? どんなに泣いたって、わーわー声の限りに叫んでみたとて、事実は事実。何も変わらない。罪は罪。それ以下にもそれ以上にもなりはしないのだ。ただ、事が公になって自分が罰せられなかっただけ。犯した罪の重さは何一つとして変わらない。手に足に、大きな枷がはめられ、その身は心ごと、獄中へとつながれるだけにすぎないんだもの。永遠に…そう、永久に。
――あれから。
幼いティーナはラズウェルト殿下の部屋で意識が遠のいた後、ふっと目を覚ますと、自分が寝床の中にいて、ひどくうなされていることを知った。
頭がぼおっとして、顔がかっかと火が吹きだすほど熱い。喉の渇きが尋常じゃないので、水を求めて起き上がろうとすると、やさしくその肩を押されて再び寝床に押し戻された。
思うように自由の利かない身体をなんとかじりじりと動かして辺りを見渡すと、そばには母がおり、父がおり、二人はティーナに「ひどい熱を出しているのだから、静かに寝ていなさい」と声をひそめて諭すのだった。
あれは夢だったのか。いや、夢ではなかったのか。
熱のせいか普段のように思考がひとつにまとまらない彼女に、父は薬湯を煎じてきたからこれを飲むようにと言い渡した。
促されるままにティーナがそれを口にした途端、ひどく舌がしびれ、続いて強烈な眠気が襲ってきた。それに対し、抵抗力のない子供の自分がそのまま意識を保てるわけもなく、再び夢の世界へ深く沈んでいく――。
それからしばらくして、ティーナが再び目を覚ますと今度はかなり思考がスッキリとし、体から熱がすっと引いていたことが実感としてわかった。
後で父に聞いてみると自分は三日三晩、こんこんと眠り続けていたという。
熱が下がって回復し、次第に元気を取り戻すようになって、もう大丈夫と母からもお墨つきをもらい、寝床から起き上がられるようになった時、ふと彼女はどうにも釈然とできないことが心の片隅に残っているような気がしていたたまれなかった。
何か、大事なことを忘れている。けれど、それがいったい何だったのか、もう既に覚えていないし、わからない。
けれど、どんなに根を詰めて考えても考えても、思い出せないことはけして思い出せないのだ。
逆立ちしても、本を開いても、閃きを導き出せるものは何ひとつとしてそこから見出せなかったのだから。
そして時は進む。水平線から太陽が顔を出し、天頂までぐんぐんと昇ると、しだいに地平線へと沈みゆく。日々はそれをくりかえし、とてもゆるやかだが確実に時間は過ぎていくのだ。
そんな風にしてティーナが元の生活に戻り、日常に身を置くようになると、家庭生活や友人たちとのつきあいといった雑事にもまれ、それに従い、いつしかそんなわけのわからないことに対し真剣に考える気持ちは薄れていった。
勉強や家事やその他もろもろに自分が関わり、その渦中にいると、新しく覚えることはたくさんあったし、過ぎてきた過去を振り返ってひとつひとつの思い出を数えるほど、余分な時間を持てる暇などないのだ。
ティーナの前には、ただ茫洋と広がる、果てしない可能性を秘めた未来しか、常になかったのだから。
――あの時、多分お父さまは熱冷ましにマヌカやハナミョウガとともに、アム・ネジーアの草を使ったのだろう。
ティーナは一人、こみあげる嗚咽とともに、後から後から流れ続ける涙を何度もぬぐいながら、ふっとそんなことを思い出していた。
アム・ネジーアは強力な熱冷ましの薬効がある分、副作用として一種の記憶障害を生ずるという弊害がある。
特にティーナはまだ十にも満たない子供だったせいもあり、その薬の効果は絶大だったに違いない。
その上、ラズウェルト殿下とあんな風にとても近い距離で接したことは、子供だった時分にはあまりにも衝撃的すぎる出来事だったせいもあろう。
故に、その前後の一切合切を自分の記憶から抹殺させてしまったのは、薬のせいばかりでもなく、成り行き上いたしかたなかったのかもしれないのだ。とはいえ、それではあまりにも無責任すぎやしないか、自分は…。そんな気持ちも、なくはないけれど。
だけど、ラズリは――。あの時のように、この間も一人で竜を召還したのだ。
そのせいで学院側からお咎めを受け、自宅謹慎の処分を受けてしまった。でも、そうまでしても、どうしても成し遂げたかったことが、あったから。
……空を、飛ぶこと。
彼の願いの発端はあたしのせいなのだ。
あたしがあの時、後先考えずに誰も見ていないだろうと思い込み、不用意にもうっかり空を飛んでしまった、そのために。
彼はずっと、あの時からずっと空を飛ぼうとしているのだろう、きっと。
身分を隠して、この王立魔法学院に入学してまでも。
空、空、空…!
あの空を自由に飛ぶ、そのたった一つの、望みのために。
ああ、ああ…! ラズリ、ごめんなさい、ラズリ…。悪いのは、本当にあたしの方だった。ラズリ、ラズリ…ラズウェルトさま、あたしはなんてお詫びをしたら…。どうしてこんな大それたことを、あたしはしでかしてしまったのだろうか。
「ごめんなさい…アガシ。ごめんなさい…。お願いだから…これ以上はもう、何も聞かないで…」
ティーナはぼろぼろ涙をこぼしながらしきりに首を振った。
「だからどうしてそんなに何もかもを自身で背負うとするんや。わいになんで話してくれへんのか? 重い荷物も二人で分けおうたらそれだけでも軽くなるんやで? …なあ、ティーナ」
「ごめんなさい、ごめんなさい…あたし。アガシ…」
どれだけ熱心にアガシが乞おうとも、事が事だけにティーナは真実を口に出せなかった。
アガシを信頼していないわけではない。むしろカレンとの一連の件では迷惑をかけたり世話になった分、彼には多大なる感謝の念を抱いているのはまぎれもない事実だ。
だからこそ、彼を巻き込みたくなかった。たとえ名前を伏せて話したとて、特殊な事情すぎていつかそれとなく自然にわかってしまうことは否めない。
さらにそれがティーナ自身のことだけではなく、ラズウェルトが身分を隠してこの学院に在籍しているという、その秘密まで漏らしてしまう可能性があるのだ。
その結果、いつどのような形で公に暴露され、何らかの事件へと発展してしまうか――。
あまりにも重く、大それた事であるが故に、ティーナには予想がつかなかった。だからこそ、恐いのだ。力もなくか弱い、ちっぽけな自分には何もできないと、はなからわかっているから。
もちろんアガシが誰彼かまわず人の秘密を言いふらす人間ではないことなど百も承知の上だった。だからこそ、ティーナは彼にまで自身の罪の一端を背負わせたくないと、この際徹底して守秘する姿勢を貫きとおそうとするのだった。
たとえ、それが自分の生命を危険にさらすことに、なってまでも。
「…わーった」
頑なな態度で口をつぐんだままのティーナとは逆に、折れたのはアガシの方だった。
「ほんま強情やねんな、わいのお姫さんは」
ほんの少しだけ笑って、そしてそっと自分の方へ抱き寄せる。
ティーナ肩と背中に腕を回し、彼女の頭を自分の胸に押し付けるようにして、壊さぬようにと力加減をしながらも、強く強くその身体を抱きしめる。
「あの、アガ…」
「ええて、もう。何もしゃべりとうないならこのまま黙っちょれ。泣いてもええけど、一人はあかん。必ずわいの腕の中で泣きよし。なんも言わんでええから…一人では絶対泣くな、な?」
――アガシ。
夜空にひとつだけ光る、小さな明星(あかるぼし)。ほんの小さな弱い光でも、暗い夜道を照らしだすひとすじの淡い頼り。
怪我を負い、過去の出来事を思い出し、身体も心も打ちひしがれた思いに苛まれたティーナには、アガシのやさしさが今は何よりも支えとなって強く身にしみた。
ありがとうアガシ。ありがとう…。あなたがこうして今そばにいてくれて本当に、嬉しい。
ティーナは彼の自分に対する心配りや気遣いが、そして何よりもそのあふれんばかりの思いやりが、こうして彼の腕を通してぬくもりとして伝わることにいたく感激し、心から感謝の念を送りたい衝動にかられたのだった。
「…みたい」
「あん? なんだって」
ぼそりとつぶやいたティーナの言葉が小さくて聞き取れなかったらしく、アガシは聞き返した。
「アガシって、なんだかお父さんみたいね、って」
「ったく。そらひでぇなあ。男の純情台無しやな」
鼻白む気分でアガシは腕を解きながら軽く笑い飛ばした。
ティーナもそれにつられ、思わず声を立てて笑った。
泣きはらして目を赤くさせ、涙の痕が顔についたままだったが、それでも表情は先ほどよりうんと明るかったのだ。
「ま、それだけナマ言う元気がありゃ大丈夫やな」
いつの間にやら二人は女子寮の近くまで来ていた。もう、すぐにでもこの道を進めば古めかしい大きな建物の玄関前にたどり着く、ほんのそれぐらいの距離だったのだ。
「ほんまはティーナの部屋の前まで送り届けてやりたいところやけど、女子寮は男子禁制やからな。名残惜しいけどここでお別れや」
「うん…。ありがとう。アガシも気を付けて帰ってね」
ぐすんと鼻を鳴らしながらもティーナはにこりと笑って彼に手を振った。
するとアガシも笑い返しながら、「じゃ、よく眠れるようにおまじないしといてやるよ」と言いだすと、ティーナの鼻先辺りに人差し指を立て、何やらぼそぼそと低い声音でつぶやいた。
「…なにこれ? 魔法?」
「そやな。軽いやつをな、ちょっとだけわいのアレンジも加えたけど。とりあえずこれで朝までなーんも考えずにぐっすりおねんねできるで。…それともうひとつ」
にっと笑みを浮かべると、アガシは自身の顔を近づけ、ティーナの唇にそっと自身の唇を重ね合わせるのだった。
「これで仕上げや」
あ…、え? ええっ…!?
「あ、アガシ…?」
「…おやすみ。よい夢を」
あまりにも突然すぎた出来事ゆえ、ティーナは一瞬、自分が彼に何をされたのか判断できなかった。
そしてハッと気づいた時には、彼が手を振りながら「ほなら、また明日な」と、元来た道を辿りだしてはじめたところだった。
「………」
ティーナはアガシの後姿が小さくなって自身の視界から見えなくなるまでその場に突っ立っていた。
頭がぼおっとしてまるで自分が夢の世界の中をふわふわと浮いているような気がして仕方なく、心ここにあらずの状態だったが、彼が自分の唇に触れたあの一瞬のぬくもりだけが唯一の現実のような気がして、その感覚だけがいつまでも残っていたのだった。
ディルナスは自身の名が呼ばれたことに気づき、背後を振り返った。
するとそこには母であるセシリア付の侍女であるルシアが非常に弱り顔で、中庭の中央付近にいる自分がそこまで戻ってくるのをじっと待っていたのだった。
何事かと思い、ディルナスは手に持っていた剪定用の鋏などをその場に置いたまま、作業用の手袋を外しつつ彼女の元までやってきた。
すると、ルシアは深々と頭を下げて、ひどく言いづらそうではあったが、ディルナスに母・セシリアの元に来るようにと伝言をことづかってきたことを告げるのだった。
「母上が…僕を? それはずいぶん急な話だね。今日の予定に面会の時間は確か組み込まれていないはずだと思ったけれど…?」
ディルナスは侍女の緊張をほぐそうとでもするのか、やさしいまなざしを浮かべ、笑みをこぼしながらそう返した。
しかしそれがかえって逆効果をもたらしたらしく、彼女はますますもって身を縮こめながら、さらに深々と頭を垂れて「申し訳ございません」と繰り返すのだった。
「あ、あの。ディルナスさまがただいまのお時間を、中庭にて日課でもございます薔薇のお手入れに割いていらっしゃることは、私どもも重々承知の上でございますが…その」
言いかけて口ごもる侍女に、ディルナスはふうと吐息をつくと、両手に持っていた汚れのついた手袋を自身のズボンのポケットの中につっこむ。
それから、彼女の腕の辺りをぽんぽんと叩きながら、その申し出をたった今引き受けたと言わんばかりに力強くうなずくのだった。
「わかってるさ、母上のことだもの。大丈夫、すぐに着替えて行くから。…ああ、ビヨロンは? もちろん持っていった方がいいよね。今はどこ? サロンのハープシコードの前?」
「はい、はい…! あ、ありがとうございますディルナスさま。そ、そうです、セシリアさまはいつものお席でお待ちかねでございます。ジェラルドさま…い、いえ、ディルナスさまとのアンサンブルをいたくご所望されておりまして、はい」
小気味よく返答をよこすディルナスに、ルシアはぱあっと表情を明るくさせてこくこくとうなずく。
王都からこんな辺鄙な片田舎でもあるファナトゥの領主、デヴォンシャー公の元に輿入れしてきた約二十年前にセシリアと共にやってきた古参の侍女たちと異なり、ルシアは先ごろ屋敷に勤めはじめたばかり。勝手もろくにわからないまま、セシリア付の侍女となったおかげで、まだまだ何かと気苦労が絶えないようだった。もちろん、それが彼女の仕事と割り切って傍目で見ようとも、いたく気の毒に思われることが多々あるのだった。
ディルナスは彼女を先にセシリアのいる部屋へ帰させ、自分は自室に向かって足早に戻っていった。
しばらくしてディルナスは泥や汚れがついてもかまわない野良着にも似た作業着から、こまかい絹糸刺繍の施されたきらびやかなブラウスやら、膝丈のパンツやらに身を包み、手にビヨロンの入ったケースを持って颯爽とサロンに現れた。
手足の汚れをよく落とし、髪もさっと梳きなおしたので、先ほどの様相とは見違えるよう。日当たりの良いサロンの室内を彼が歩くたびに、金色のさらさらとした毛束の流れがすっすっと肩の上で踊り、それらが陽の光に当たると実にきらきらと美しく反射をくりかえすのだった。
「…姫、このたびは参上が遅くなりましたこと、深くお詫びいたします。どうぞお許しのほどを」
ディルナスは室内の中央から少し外れた位置に置いてある白塗りのハープシコードの前に立ちどまり、胸に手を当て、うやうやしく頭を下げた。
するとすかさず、彼の前でちょこんと座っていた彼女から「ずっとお待ちしておりましたわ」とためいき交じりの声がもれる。
「んもぉ。ジェラルドお兄様ったら、もうお忘れになられましたの? 今日はわたくしとアンサンブルをしてくださるお約束でしたのに。わたくし、この間からとても楽しみにしてましたのよ」
整った目鼻立ちに、すっきりとしたあごを持つ彼女は、ぱっちりしたまつげをしばたいて、群青の瞳をくりくりと動かしながら、少女のようなあどけなさでころころと笑い声を立てた。未婚の女性のように、髪をあまり高い位置で巻き上げずにほどよくたらし、小さな輝石がついたピンをたくさん留めて飾りたて、ピンクの薔薇のモティーフを散らしたスカートをふんわりと広げさせながら。
「さ、もうはじめましょ。わたくしのたった一人の兄君さまは、国民の皆にとってもたった一人の王陛下であらせられるお方でもある上に、日頃の政務に忙殺されていらっしゃいますものね。こうしている時間でさえもったいないでしょうから」
「本当にいつもすまないねセシル。…さあ、今日は何を弾こうか?」
ディルナスは動じることなくケースから楽器を取り出すと、弦のゆるみやたわみをよくよく気をつけるようにして調節しながら、姿勢を正してビヨロンを持った。
「そうね、お兄さま。こんなワルツはいかが…?」
鍵盤の上で美しく指をすべらせると、途端にそこから流れ出す優美な曲調の伴奏メロディに、ディルナスはにこりと笑みを浮かべると、楽弓をなめらかに動かして主旋律を奏ではじめた。
「…うふふ、やっぱりお兄さまね。わたくしの好きな曲をよくご存知でいらっしゃるだなんて、とっても嬉しいわ」
セシリアが嬉しそうに微笑む。曲はいつしか転調し、少し彼女の指がつっかえそうになったが、すんでのところで持ち直し、また元のようにすべやかに演奏が続いていった。
「そうなの。ここからがむつかしいのよね」
そう言って笑いながら軽く舌を出しておどけるような仕草を見せるセシリア。だが、次の楽章に入って間もなく、彼女は鍵盤を弾くのをぴたりとやめ、突然ハアハアと肩で荒い息をしはじめた。
「セシル…?」
彼女の様子がおかしいことに気づいたディルナスは弓を引くのをやめ、ビヨロンを近くの小棹の上に置くとセシリアの顔をのぞきこんだ。
とたん、ディルナスはぎょっとした。美しく整えられた彼女の相貌はみるみる内に変わり、顔面はひきつりすでに蒼白、瞳孔は大きく開ききり、中央の黒目がまるで点のようになって、この世のものとは思えぬすさまじい形相に豹変していたのだった。
「…あ、ああ。アッアッ、アアーッ!」
「セシル…!」
「いや、いやあっ! 来ないで、来ないでちょうだい悪魔…! おまえなんか、冥府でもどこぞへでもお行き! わたくしに近寄らないで、魔族めが!」
くわっと歯をむき出しにさせ、ディルナスに向かってめいいっぱい威圧感を示そうとする。ディルナスはそんな彼女を落ち着かせるべく、刺激を与えないようせいいっぱいの笑顔を作るが、そんなことなど露ほどの効果もなかった。
「セシル、セシリア! どうしたセシリアっ。私だ、ジェラルドだ。よくご覧、私は魔族なんかではない。おまえの兄だよ」
「汚らわしい! セレスト・セレスティアン王国の王族の一員であるこのわたくしに、そのような成りをして触れようなどと失礼千万極まりない不届き者めがっ。おまえは悪魔よ、お兄さまと同じ顔に似せただけの化け物にすぎぬわ…!」
セシリアはディルナスに向かって大きく腕をかき、何やら呪術めいた文句をぶつぶつつぶやいたが、彼にそれが通用しないことが判明すると、ばんっと鍵盤を力任せに両手でぶったたいた。
「いやーーーーーっ!」
絶叫に近い金きり声を上げながら、セシリアはハープシコードを壊さんばかりの勢いでめちゃめちゃに鍵盤を叩きつけ、そのまま横滑りになった格好でうち崩れていった。
「…きゃっ。セシリアさま…!」
「ディルナスさま、いかがなされましたか!」
騒ぎを聞きつけて二人の侍女が部屋にかけこんできた。
一人は先ほどのルシア、そしてもう一人はルシアよりもかなり年配の相を見せるマージョリー。彼女はセシリアが幼き頃過ごした王都のセルリアン宮殿時代からずっと長く仕えている古参の侍女で、セシリアのことにかけては誰よりも詳しく、かつ深く理解している内の一人だった。
ルシアはまっすぐハープシコードの下でうずくまり、真っ青になって小刻みに身体を震わせているセシリアの元に近寄っていった。 そして、ひどく怯えきっている彼女の肩をしっかりと自分の方へ抱き寄せては「もう大丈夫ですよ。何も怖くありませんから」と何度も繰り返す。
まるで、悪夢を見たおかげで夜中にひどくうなされて泣きながら目覚める子供を、やさしくなだめて寝かしつけようとでもするかのよう。ルシアは一心にセシリアの気を落ち着かせることだけに努めるのだった。
「…何事があったのですかディルナスさま」
マージョリーはディルナスの腕を引いて、そっと二人から離れた位置に移動させると小声でそうたずねるが、彼はただ伏目がちに「わからない」とだけつぶやき首を横に振った。
「…また突然だったんだ、今回も」
「そうですか…」
「マージ。母上は、ここのところだいぶ落ち着いていらしたんじゃなかったのかい?」
「そうですね。…昔、デヴォンシャー公の元へ嫁して来られたばかりの頃に比べたら、ずいぶんおだやかになられましたかもしれません。王室付き薬師のアルトゥンさまから処方されたお薬がだいぶお身体に合っていらっしゃるせいもありますし。それはディルナスさまもずっとご存知でおられましたことでしょうが…」
「ああ…。僕が物心つくかつかない前から、母上はこの世の人じゃなかったからね。僕のことなんかちっとも見てくださらなかったし、僕が母上のそばに寄っても、いつもぼんやりと、夢見がちな少女のまなざしで、窓の外ばかりを眺めていらした…」
ディルナスのまぶたの裏に、自身が幼少の頃から眺めていた母セシリアの面影がつと浮かんだ。
「ははうえ…」と呼びかけながら、その膝に寄っていっても彼女は彼の方をちらとでも見ようとしなかった。
あまつさえ、時には悪鬼同然の形相となってその手を乱暴に払い落とし、突然立ち上がると先ほどのように「散れっ…! 我が元から離れよ魔族めが…!」とわけのわからないことをわめきながら、目をくわっと見開いて指を複雑に組み合わせてはまじないの構文を唱えはじめることがしばしばあったのだ。
…母がかつて、王族の中でも魔法を操る優れた手だれとして尊ばれていた存在だったとか。現在、その力を失っていることを知ったのはだいぶ近年になってから、ディルナスが十五歳くらいの時分であったが。
「ねえ、マージ。そんなに僕は、伯父上…ジェラルド陛下に似ているのかな」
「で、ディルナスさま…?」
ふいに向き直って静かに問いかけるディルナスに対し、マージョリーは一瞬ぎくりと身体をこわばらせたが、すぐに戻って姿勢を正したが、それでもやや、不自然に彼から顔をそらしているのだった。
「さ、さあ…。私はあまり、そうは思っておりませんが。それに、セシリアさまもお病気でいらっしゃることですから、けしてそのようなことでお間違いをされているわけではないかと…」
「そうだよね。僕はもらい子で母上とは何の血のつながりがないはずだもの。でも…本当に母上は僕を国王陛下と混同なさっておられる。しかもそれはここのところ急に頻繁になってきたよ。今日みたいに合奏の相手として呼ばれたり、チェスやカードの遊びに誘われたり…。子供の時はちっとも見向きもされなかったのに、なんだか不思議というか、とてもおかしなものだね」
弱く、かすかに微笑むと、ディルナスはふっと視線をセシリアの方に向けた。
するとそこには、ひどく泣きじゃくりながら、ルシアに身体を支えられるようにしながらよろよろと立ち上がる彼女の姿があった。ルシアがよくよくなだめたのが効を奏したのか、やっと寝室で休むことを承知したらしい。
「あたち、もうネンネしゅる。…ねえ、ねえ。あたちのくまちゃんは? くまちゃん、どこぉ? くまちゃんといっちょに、あたちネンネしゅるんだもぉん」
親指をしゃぶり、気に入りのぬいぐるみがどこに行ったのかときょろきょろと辺りを見渡し続けるセシリア――。
そんな幼女のような素振りを見せる彼女からディルナスはそっと視線を外し、「マージ」と呼びかけた。
「…それじゃ僕は部屋に戻るよ。母上を…よろしく頼みます」
軽く一礼し、ディルナスはそのまま静かに部屋を出て行くのだった。
ディルナスは自室に戻ると、どっと疲れが出たのか窓のそばに据えられていた長椅子に身体を深く沈めさせた。
セシリアの相手をした後はいつも似たようなものだった。ひどい疲労困憊感と脱力感でいっぱいになり、本を読むことも庭の手入れをすることも、何ひとつとしてする気が起きなかったのだ。
「母上…。僕にもっと力があればよかったの…?」
そっと誰に聞かせることもなくつぶやくと、窓の外のテラスにさっと物影が現れた。
「そこにいるのは“耳口”? “目鼻”?」
声をひそめて窓に向かって呼びかけると、それぞれが低くくぐもった調子でそれぞれ返事をよこす。
「はいディルナス様」
「我ら両方ともおそばに控えております」
しかし、彼らは自身の存在を示しても、影は影のまま、主人の前にけしてその姿を完全に現すことはなかった。
テラスに続くガラス戸の外側にて、ディルナスの視界になるべく入らぬよう、できるだけ身をひそめて膝をつき、顔もろくろく上げぬときている。
まるで自身を物の影か何かと同化させようとでもいうのか、人間とおぼしき動作をほとんど彼に示すことはなかったのだ。
「このたび現場にて“手足”がまず先んじて動いた模様です」
「つきましては、ディルナスさまのお耳に疾くその旨をお伝えしたく、ここに参上つかまつりました次第であります」
「そうか。二人ともお勤め本当にご苦労だったね。ならば折り返し伝えてくれないか“手足”に。…これからも首尾よくやるようにと、ね」
「――御意」
そう言うが早いか、二つの人影はあっという間にその場から消え去り、それこそ姿形も見えなくなった。
彼らが行った後で、ディルナスは虚空を眺めながらさらに深いためいきをもらした。
――そう。しょせん、ただの悪あがきに違いないと、自分でもちゃんと思ってはいるさ。心のどこかでは、ね。ちゃんとそう、認識している。
ただそう思いながらも、それでもただ、手をこまねいているだけの日々をこのまま安穏と過ごすのは、年々耐えられなくなってきていると切に感じることも、また事実に他ならなくて……。
でも、何が正しくて何が正しくないかなんて、僕にはもうわからないんだ。全て物事は紙一重。くるりと返して、両面を張り合わせたら、もうどちらがどらかだったのか、そんな判断すらつかなくなってしまったのと、たぶん一緒なんだろう、世は何事も。
そして、すべては動き出してしまったんだ。“耳口”と“目鼻”と“手足”が、僕の体の一部から分かれたように。僕はただ“頭”となって、ひたすら物事を先に進ませることだけに集中して考えなければならない務めを果たさなければならないのだから…。
ディルナスは静かにまぶたを伏せると、誰に聞かせることもなく一人そっとつぶやくのだった。
「それはきっと…。ただの自分の弱さ故、なのかもしれない、な」
昼の時間も過ぎ、そろそろ午後の教科が各教室で行われはじめた頃のことだった。
開け放した部屋から淹れ立てのコーヒーの香りが漂っていた。
学院本館東側二階と三階は教官室が立ち並び、教科担当それぞれに一室ずつあてがわれている。学院で教鞭を取る先生たちによって講義を持たない時間や準備その他でそこは使用されているのだが、その中の一室、二階のやや奥まったところが当の部屋、魔法薬学教官室だった。ドアの横の表札には使用者の名前と在・不在が一目でわかるようになっており、それによると「ディーン・ジローラモ」という記述と、「在」の方に表示窓が開いていたのだった。
部屋の両壁には並んだ年代を感じさせる本棚がずらりと並び、そのどれもにもきちんと入りきらず、向きもばらばらに整理せず押し込められた本であふれかえりそうだった。
また一方、部屋の片隅に置いてある書き物用机の上にも書類や参考書の類が山のように積み重なり、それらの隙間のほんの少しスペースで読んだり書いたりをしているようで、もっぱら器具や道具の要りような実験などは部屋の中央にでんと置かれたりっぱな長テーブルの上でされているのだった。
そのテーブルを前にして部屋の主たる彼は、ふんふんと鼻歌まじりにろ紙を敷いた漏斗をビーカーにセットし、その上から三角フラスコに入ったお湯を注ぎ込んでいる最中だ。
机の上には鉄綿付金網を敷いた鉄製三脚とアルコールランプ。どうやらこれで彼はお湯を沸かしたらしい。
「んー。やっぱりドリップで淹れたコーヒーは香りが違うねえ。インスタントじゃこうはいかまいよ」
一人満足げにうなずき、コーヒーの香ばしい香りをふんだんに楽しんでから、ビーカーの縁に口をつけたところ――。
開けっ放しだったドアをとんとんと叩かれたので、その拍子に熱々のコーヒーをつっと口に含み、思い切りよく舌を火傷させてしまうのだった。
「…あ、あのぉ。“プロフェッサー”? だ、大丈夫ですかあ?」
「ごめんなさいディーン先生、あたしたちが急に部屋に入って来ちゃったから」
アチチアチチと大げさに慌てふためく彼を前に、セレとカレンは自分たちのせいで大変なことをしでかしたかと焦ったが、慌てて水を口に含んだ彼は「いやいや心配ない。もう大丈夫だ」と言葉にできない分、大げさに手振り身振りで示した。
その様子を見て、二人は互いに顔を見合わせて安堵した表情を示すと、「じゃ、あのぉ」とおずおずと切り出しながら、彼に自分たちが部屋を訪れた用向きを済ませたい意向をにおわせる。
彼は数日前からクラス掲示板に、試験答案を返すから該当者は空いた時間に教官室まで取りに来るよう、呼び出し掲示を出していたのだった。
「ちょっと待っていてくれ」と二人を手で制すと、自分の机の上に積み重なっていた本をばささとひっくりかえして、本と本との間につっこまれていた書類の入った茶封筒を取り出した。
それから綴じてあった口を開き、中の紙のたばをでめくりながら「カレン・クライス」、「セレ・カートン」と彼女たちの名前が記された答案を引き出し二人それぞれに返していった。
「…あれ? そういえばティーナ・アルトゥンは?」
もう一枚その下にあった答案を引き出そうとして、彼ははたとその手を止めた。
概ね彼女たちと一緒に連れ立ってやって来る面子の内の一人が、この場に欠いていたことに気づき「おや」と思ったのだった。
「ああ、ティーナね。彼女、階段から落ちて足をくじいたんですって。歩けることは歩けるらしいけど、今日は大事を取って部屋でおやすみしてるわ」
セレと顔を見合わせたカレンが代表してそう告げると、ディーンは「ふうん…。そりゃ残念だ」とさも大げさに肩をすくめるのだった。
「今日は珍しいお菓子が手に入ったのだよ。特にティーナは今回の試験、とてもがんばったみたいだから、ちょうどこれがごほうびになるかなと思っていたのだがね」
お菓子…!
ディーンの言葉にカレンもセレも鋭く反応した。
「…はは、顔色が変わったね。正直だな、君たちも」
「だって“プロフェッサー”の部屋には…ねえ?」
「そうそう。ここに来たらおいしいものにありつけることで有名ですもん」
「そうかそうか。なるほどねえ、そんなウワサが君たちの間にまかり通っているとはね」
まだ白髪も生えず額にしわもない年の頃、四十代という彼であったが、六十・七十代といった高齢者ぞろいの学院の教授陣の中でもまだ生徒たちに近い分なじみやすい上に、おいしい物・甘い物好きという性分からか、教官室を訪れた生徒たちに学院内の購買部ではまずめったに手に入らない、どこから仕入れてくるのか、珍しくてちょっと変わったとっておきの食べ物や飲み物をふるまうことがあり、それを目当てに用もないのに部屋を訪れる輩も多かったのだ。
「…まったく、彼女にはお気の毒さまだけど」
ディーンはついっと立ち上がり、実験器具棚の両開き戸を開け、中に入れてあった四角い茶色の小ぶりな箱を取り出した。
それを持った彼が、さあどうぞお嬢さまたち、と二人の前に置いたとたん、少女ならでのは明るい歓声が室内に響き渡る。
「わあ! すっごーい。シャムロックのマロングラッセじゃないですかあ!」
「これファナトゥ地方の銘菓よねえ。先生、どうしたのぉ? 旅行か何かのお土産ですかあ?」
「…ま、ちょっとしたコネがあってね。君たちこれから時間は? 空いているんなら、ちょうどおいしいコーヒーも入ったことだし、飲んでいったらどうだね。そら、その椅子に座ってゆっくりしていくといいよ」
「はあい。ありがとうございまーす」
「お言葉に甘えまして…。いっただきまーす」
半分ほどフラスコに入っていたコーヒーを予備のビーカーに入れてそれぞれの前に出されると、二人はお行儀よく仕切りの中に入れられていた菓子をひとつずつつまみ、笑顔でぱくついた。
開いた窓の向こうでは、青く広がる空の下、楡の巨木が風に吹かれてさやさやと枝の葉を揺らす音が聞こえてきた。もっとずっと遠くの方では、小鳥がチュピチュピとさえずる声が、風に乗って流れてきていた。
「…子供たちの世界もいろいろと大変だねえ」
にこにことマロングラッセをほおばりながらコーヒーの入ったビーカーを手にしているカレンとセレを前にして、ディーンはふっとそんなことをつぶやくと、にっこりと笑って自分のビーカーからコーヒーをすするのだった。
頭上の空には満月から数日経った頃の欠けた月が青白く浮かび、さまざまな虫の音が方々から聞こえていた。
風が吹き、草がなびき、林立する木々の枝がゆっくりとしなって、さわさわと葉を揺らした。そこには確かに静かな夜の風景が広がり、二人はまるでその中に溶け込んだ影のようだった。
外の道に出てしばらくは、ややいくぶん速度を落とし気味ではあってもそれなりの歩幅を取り、コンスタントな歩みが続いていた。しかし、次第に距離が進むにつれ、ティーナは足取りをよろよろとおぼつかなくさせ、アガシよりも数歩分もの遅れを見せはじめた。
やはり怪我のためか、それとも先ほどまで泥のようにこんこんと眠っていた身体がまだ完全に目覚めきっていないのか。ティーナは自分が思うようには、普段通りに歩くのがままならなくなってきたのだった。
するとそんな彼女を気遣うためか、アガシはふいに立ち止まり、後からついてくる彼女の方に自分から近づいていくと、その体を支えるべく、ぐっと腕をのばしてその腰と肩に手をのばしてきた。
またしても声がけなど一切せず、いきなりそんな行動に出てくるものだからティーナの方が驚いてしまう。すぐに「一人で歩けるから、大丈夫だから」と彼の助けを拒もうとするのだが、そんな彼女の意に反し、アガシは有無を言わせないといった風情で力いっぱいティーナを自分の方に抱き寄せるのだった。
「アホ抜かすな。この際、恥ずかしがっとる場合やないやろ。ええか? そないにつべこべ言うたかて、あんさんはりっぱなケガ人やで。それをわいが黙って指くわえて見ておれるかいな」
普段のアガシのように冗談めかしたおふざけ半分で彼女にちょっかいを出してくるのとは異なり、うってかわって真剣そのものといった口調にティーナもとうとう折れ、彼に身をゆだねることにした。
また本音を言えば、アガシからの申し出はティーナにとっても実にありがたかったのだ。ミランダから適切な処置を受けたとはいえ、やはり杖か何かがほしいと思うくらい、何の支えもなく、でこぼした土の道を、月が出ているとはいえ暗がりの下で歩くのはずいぶん心もとなかったので。
「…なあ、ティーナ」
ティーナがアガシに寄りかかるようにして歩き出してすぐのこと、意を決したようにアガシは口を開いた。
「何ぞあったんか…? そないな怪我しよるようなことが、何か」
「…え? う、ううん」
ふいにアガシにそうたずねられ、とっさにティーナは首を振った。
「あのね、ちょっとね、ドジっちゃっただけだから。いつものことだし、別にそんな…。何も…何もないけど?」
繰り返し否定しながらも、ティーナはアガシに問われたことにより自身の記憶が揺り起こされてしまったらしく、何やら急に思い出したことがあったようだ。けして何もないと断言しながら、自然につんと目頭を熱くさせ、あっという間にぽろぽろと涙ををこぼしだした。
「…あんなあ、ティーナ」
一目でわかるほどいたく彼女の心が揺れ動いた様に、アガシは半ばやりきれないといった風情でためいきをひとつしぼり出す。
「そりゃ何もありませんって態度やないで。自分でもわかっとるやろ? ほれ、ええから。この際やから、その心のもやもやを全部わいに吐き出してスッキリしちまったらどうや。その方が絶対に気持ちええって、なあ。楽になれやティーナ。…な?」
アガシがティーナをせっつくと、それがまた彼女の感情を高ぶらせるきっかけとなったらしい。ティーナは先ほどよりもっと、熱い雫でまぶたが潤むのを禁じえなかった。
泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ…。
泣いたら、アガシが心配する。自分のことのように案じて、すごくやさしく声をかけてくれるから。どうもありがとうねって言おう。ほらもう、大丈夫だよって、うんと笑って答えなくちゃ。
そうよ泣いちゃだめ。泣いちゃだめなんだから、泣いちゃ…。
…だって、そうでしょう? どんなに泣いたって、わーわー声の限りに叫んでみたとて、事実は事実。何も変わらない。罪は罪。それ以下にもそれ以上にもなりはしないのだ。ただ、事が公になって自分が罰せられなかっただけ。犯した罪の重さは何一つとして変わらない。手に足に、大きな枷がはめられ、その身は心ごと、獄中へとつながれるだけにすぎないんだもの。永遠に…そう、永久に。
――あれから。
幼いティーナはラズウェルト殿下の部屋で意識が遠のいた後、ふっと目を覚ますと、自分が寝床の中にいて、ひどくうなされていることを知った。
頭がぼおっとして、顔がかっかと火が吹きだすほど熱い。喉の渇きが尋常じゃないので、水を求めて起き上がろうとすると、やさしくその肩を押されて再び寝床に押し戻された。
思うように自由の利かない身体をなんとかじりじりと動かして辺りを見渡すと、そばには母がおり、父がおり、二人はティーナに「ひどい熱を出しているのだから、静かに寝ていなさい」と声をひそめて諭すのだった。
あれは夢だったのか。いや、夢ではなかったのか。
熱のせいか普段のように思考がひとつにまとまらない彼女に、父は薬湯を煎じてきたからこれを飲むようにと言い渡した。
促されるままにティーナがそれを口にした途端、ひどく舌がしびれ、続いて強烈な眠気が襲ってきた。それに対し、抵抗力のない子供の自分がそのまま意識を保てるわけもなく、再び夢の世界へ深く沈んでいく――。
それからしばらくして、ティーナが再び目を覚ますと今度はかなり思考がスッキリとし、体から熱がすっと引いていたことが実感としてわかった。
後で父に聞いてみると自分は三日三晩、こんこんと眠り続けていたという。
熱が下がって回復し、次第に元気を取り戻すようになって、もう大丈夫と母からもお墨つきをもらい、寝床から起き上がられるようになった時、ふと彼女はどうにも釈然とできないことが心の片隅に残っているような気がしていたたまれなかった。
何か、大事なことを忘れている。けれど、それがいったい何だったのか、もう既に覚えていないし、わからない。
けれど、どんなに根を詰めて考えても考えても、思い出せないことはけして思い出せないのだ。
逆立ちしても、本を開いても、閃きを導き出せるものは何ひとつとしてそこから見出せなかったのだから。
そして時は進む。水平線から太陽が顔を出し、天頂までぐんぐんと昇ると、しだいに地平線へと沈みゆく。日々はそれをくりかえし、とてもゆるやかだが確実に時間は過ぎていくのだ。
そんな風にしてティーナが元の生活に戻り、日常に身を置くようになると、家庭生活や友人たちとのつきあいといった雑事にもまれ、それに従い、いつしかそんなわけのわからないことに対し真剣に考える気持ちは薄れていった。
勉強や家事やその他もろもろに自分が関わり、その渦中にいると、新しく覚えることはたくさんあったし、過ぎてきた過去を振り返ってひとつひとつの思い出を数えるほど、余分な時間を持てる暇などないのだ。
ティーナの前には、ただ茫洋と広がる、果てしない可能性を秘めた未来しか、常になかったのだから。
――あの時、多分お父さまは熱冷ましにマヌカやハナミョウガとともに、アム・ネジーアの草を使ったのだろう。
ティーナは一人、こみあげる嗚咽とともに、後から後から流れ続ける涙を何度もぬぐいながら、ふっとそんなことを思い出していた。
アム・ネジーアは強力な熱冷ましの薬効がある分、副作用として一種の記憶障害を生ずるという弊害がある。
特にティーナはまだ十にも満たない子供だったせいもあり、その薬の効果は絶大だったに違いない。
その上、ラズウェルト殿下とあんな風にとても近い距離で接したことは、子供だった時分にはあまりにも衝撃的すぎる出来事だったせいもあろう。
故に、その前後の一切合切を自分の記憶から抹殺させてしまったのは、薬のせいばかりでもなく、成り行き上いたしかたなかったのかもしれないのだ。とはいえ、それではあまりにも無責任すぎやしないか、自分は…。そんな気持ちも、なくはないけれど。
だけど、ラズリは――。あの時のように、この間も一人で竜を召還したのだ。
そのせいで学院側からお咎めを受け、自宅謹慎の処分を受けてしまった。でも、そうまでしても、どうしても成し遂げたかったことが、あったから。
……空を、飛ぶこと。
彼の願いの発端はあたしのせいなのだ。
あたしがあの時、後先考えずに誰も見ていないだろうと思い込み、不用意にもうっかり空を飛んでしまった、そのために。
彼はずっと、あの時からずっと空を飛ぼうとしているのだろう、きっと。
身分を隠して、この王立魔法学院に入学してまでも。
空、空、空…!
あの空を自由に飛ぶ、そのたった一つの、望みのために。
ああ、ああ…! ラズリ、ごめんなさい、ラズリ…。悪いのは、本当にあたしの方だった。ラズリ、ラズリ…ラズウェルトさま、あたしはなんてお詫びをしたら…。どうしてこんな大それたことを、あたしはしでかしてしまったのだろうか。
「ごめんなさい…アガシ。ごめんなさい…。お願いだから…これ以上はもう、何も聞かないで…」
ティーナはぼろぼろ涙をこぼしながらしきりに首を振った。
「だからどうしてそんなに何もかもを自身で背負うとするんや。わいになんで話してくれへんのか? 重い荷物も二人で分けおうたらそれだけでも軽くなるんやで? …なあ、ティーナ」
「ごめんなさい、ごめんなさい…あたし。アガシ…」
どれだけ熱心にアガシが乞おうとも、事が事だけにティーナは真実を口に出せなかった。
アガシを信頼していないわけではない。むしろカレンとの一連の件では迷惑をかけたり世話になった分、彼には多大なる感謝の念を抱いているのはまぎれもない事実だ。
だからこそ、彼を巻き込みたくなかった。たとえ名前を伏せて話したとて、特殊な事情すぎていつかそれとなく自然にわかってしまうことは否めない。
さらにそれがティーナ自身のことだけではなく、ラズウェルトが身分を隠してこの学院に在籍しているという、その秘密まで漏らしてしまう可能性があるのだ。
その結果、いつどのような形で公に暴露され、何らかの事件へと発展してしまうか――。
あまりにも重く、大それた事であるが故に、ティーナには予想がつかなかった。だからこそ、恐いのだ。力もなくか弱い、ちっぽけな自分には何もできないと、はなからわかっているから。
もちろんアガシが誰彼かまわず人の秘密を言いふらす人間ではないことなど百も承知の上だった。だからこそ、ティーナは彼にまで自身の罪の一端を背負わせたくないと、この際徹底して守秘する姿勢を貫きとおそうとするのだった。
たとえ、それが自分の生命を危険にさらすことに、なってまでも。
「…わーった」
頑なな態度で口をつぐんだままのティーナとは逆に、折れたのはアガシの方だった。
「ほんま強情やねんな、わいのお姫さんは」
ほんの少しだけ笑って、そしてそっと自分の方へ抱き寄せる。
ティーナ肩と背中に腕を回し、彼女の頭を自分の胸に押し付けるようにして、壊さぬようにと力加減をしながらも、強く強くその身体を抱きしめる。
「あの、アガ…」
「ええて、もう。何もしゃべりとうないならこのまま黙っちょれ。泣いてもええけど、一人はあかん。必ずわいの腕の中で泣きよし。なんも言わんでええから…一人では絶対泣くな、な?」
――アガシ。
夜空にひとつだけ光る、小さな明星(あかるぼし)。ほんの小さな弱い光でも、暗い夜道を照らしだすひとすじの淡い頼り。
怪我を負い、過去の出来事を思い出し、身体も心も打ちひしがれた思いに苛まれたティーナには、アガシのやさしさが今は何よりも支えとなって強く身にしみた。
ありがとうアガシ。ありがとう…。あなたがこうして今そばにいてくれて本当に、嬉しい。
ティーナは彼の自分に対する心配りや気遣いが、そして何よりもそのあふれんばかりの思いやりが、こうして彼の腕を通してぬくもりとして伝わることにいたく感激し、心から感謝の念を送りたい衝動にかられたのだった。
「…みたい」
「あん? なんだって」
ぼそりとつぶやいたティーナの言葉が小さくて聞き取れなかったらしく、アガシは聞き返した。
「アガシって、なんだかお父さんみたいね、って」
「ったく。そらひでぇなあ。男の純情台無しやな」
鼻白む気分でアガシは腕を解きながら軽く笑い飛ばした。
ティーナもそれにつられ、思わず声を立てて笑った。
泣きはらして目を赤くさせ、涙の痕が顔についたままだったが、それでも表情は先ほどよりうんと明るかったのだ。
「ま、それだけナマ言う元気がありゃ大丈夫やな」
いつの間にやら二人は女子寮の近くまで来ていた。もう、すぐにでもこの道を進めば古めかしい大きな建物の玄関前にたどり着く、ほんのそれぐらいの距離だったのだ。
「ほんまはティーナの部屋の前まで送り届けてやりたいところやけど、女子寮は男子禁制やからな。名残惜しいけどここでお別れや」
「うん…。ありがとう。アガシも気を付けて帰ってね」
ぐすんと鼻を鳴らしながらもティーナはにこりと笑って彼に手を振った。
するとアガシも笑い返しながら、「じゃ、よく眠れるようにおまじないしといてやるよ」と言いだすと、ティーナの鼻先辺りに人差し指を立て、何やらぼそぼそと低い声音でつぶやいた。
「…なにこれ? 魔法?」
「そやな。軽いやつをな、ちょっとだけわいのアレンジも加えたけど。とりあえずこれで朝までなーんも考えずにぐっすりおねんねできるで。…それともうひとつ」
にっと笑みを浮かべると、アガシは自身の顔を近づけ、ティーナの唇にそっと自身の唇を重ね合わせるのだった。
「これで仕上げや」
あ…、え? ええっ…!?
「あ、アガシ…?」
「…おやすみ。よい夢を」
あまりにも突然すぎた出来事ゆえ、ティーナは一瞬、自分が彼に何をされたのか判断できなかった。
そしてハッと気づいた時には、彼が手を振りながら「ほなら、また明日な」と、元来た道を辿りだしてはじめたところだった。
「………」
ティーナはアガシの後姿が小さくなって自身の視界から見えなくなるまでその場に突っ立っていた。
頭がぼおっとしてまるで自分が夢の世界の中をふわふわと浮いているような気がして仕方なく、心ここにあらずの状態だったが、彼が自分の唇に触れたあの一瞬のぬくもりだけが唯一の現実のような気がして、その感覚だけがいつまでも残っていたのだった。
** ** **
ディルナスは自身の名が呼ばれたことに気づき、背後を振り返った。
するとそこには母であるセシリア付の侍女であるルシアが非常に弱り顔で、中庭の中央付近にいる自分がそこまで戻ってくるのをじっと待っていたのだった。
何事かと思い、ディルナスは手に持っていた剪定用の鋏などをその場に置いたまま、作業用の手袋を外しつつ彼女の元までやってきた。
すると、ルシアは深々と頭を下げて、ひどく言いづらそうではあったが、ディルナスに母・セシリアの元に来るようにと伝言をことづかってきたことを告げるのだった。
「母上が…僕を? それはずいぶん急な話だね。今日の予定に面会の時間は確か組み込まれていないはずだと思ったけれど…?」
ディルナスは侍女の緊張をほぐそうとでもするのか、やさしいまなざしを浮かべ、笑みをこぼしながらそう返した。
しかしそれがかえって逆効果をもたらしたらしく、彼女はますますもって身を縮こめながら、さらに深々と頭を垂れて「申し訳ございません」と繰り返すのだった。
「あ、あの。ディルナスさまがただいまのお時間を、中庭にて日課でもございます薔薇のお手入れに割いていらっしゃることは、私どもも重々承知の上でございますが…その」
言いかけて口ごもる侍女に、ディルナスはふうと吐息をつくと、両手に持っていた汚れのついた手袋を自身のズボンのポケットの中につっこむ。
それから、彼女の腕の辺りをぽんぽんと叩きながら、その申し出をたった今引き受けたと言わんばかりに力強くうなずくのだった。
「わかってるさ、母上のことだもの。大丈夫、すぐに着替えて行くから。…ああ、ビヨロンは? もちろん持っていった方がいいよね。今はどこ? サロンのハープシコードの前?」
「はい、はい…! あ、ありがとうございますディルナスさま。そ、そうです、セシリアさまはいつものお席でお待ちかねでございます。ジェラルドさま…い、いえ、ディルナスさまとのアンサンブルをいたくご所望されておりまして、はい」
小気味よく返答をよこすディルナスに、ルシアはぱあっと表情を明るくさせてこくこくとうなずく。
王都からこんな辺鄙な片田舎でもあるファナトゥの領主、デヴォンシャー公の元に輿入れしてきた約二十年前にセシリアと共にやってきた古参の侍女たちと異なり、ルシアは先ごろ屋敷に勤めはじめたばかり。勝手もろくにわからないまま、セシリア付の侍女となったおかげで、まだまだ何かと気苦労が絶えないようだった。もちろん、それが彼女の仕事と割り切って傍目で見ようとも、いたく気の毒に思われることが多々あるのだった。
ディルナスは彼女を先にセシリアのいる部屋へ帰させ、自分は自室に向かって足早に戻っていった。
しばらくしてディルナスは泥や汚れがついてもかまわない野良着にも似た作業着から、こまかい絹糸刺繍の施されたきらびやかなブラウスやら、膝丈のパンツやらに身を包み、手にビヨロンの入ったケースを持って颯爽とサロンに現れた。
手足の汚れをよく落とし、髪もさっと梳きなおしたので、先ほどの様相とは見違えるよう。日当たりの良いサロンの室内を彼が歩くたびに、金色のさらさらとした毛束の流れがすっすっと肩の上で踊り、それらが陽の光に当たると実にきらきらと美しく反射をくりかえすのだった。
「…姫、このたびは参上が遅くなりましたこと、深くお詫びいたします。どうぞお許しのほどを」
ディルナスは室内の中央から少し外れた位置に置いてある白塗りのハープシコードの前に立ちどまり、胸に手を当て、うやうやしく頭を下げた。
するとすかさず、彼の前でちょこんと座っていた彼女から「ずっとお待ちしておりましたわ」とためいき交じりの声がもれる。
「んもぉ。ジェラルドお兄様ったら、もうお忘れになられましたの? 今日はわたくしとアンサンブルをしてくださるお約束でしたのに。わたくし、この間からとても楽しみにしてましたのよ」
整った目鼻立ちに、すっきりとしたあごを持つ彼女は、ぱっちりしたまつげをしばたいて、群青の瞳をくりくりと動かしながら、少女のようなあどけなさでころころと笑い声を立てた。未婚の女性のように、髪をあまり高い位置で巻き上げずにほどよくたらし、小さな輝石がついたピンをたくさん留めて飾りたて、ピンクの薔薇のモティーフを散らしたスカートをふんわりと広げさせながら。
「さ、もうはじめましょ。わたくしのたった一人の兄君さまは、国民の皆にとってもたった一人の王陛下であらせられるお方でもある上に、日頃の政務に忙殺されていらっしゃいますものね。こうしている時間でさえもったいないでしょうから」
「本当にいつもすまないねセシル。…さあ、今日は何を弾こうか?」
ディルナスは動じることなくケースから楽器を取り出すと、弦のゆるみやたわみをよくよく気をつけるようにして調節しながら、姿勢を正してビヨロンを持った。
「そうね、お兄さま。こんなワルツはいかが…?」
鍵盤の上で美しく指をすべらせると、途端にそこから流れ出す優美な曲調の伴奏メロディに、ディルナスはにこりと笑みを浮かべると、楽弓をなめらかに動かして主旋律を奏ではじめた。
「…うふふ、やっぱりお兄さまね。わたくしの好きな曲をよくご存知でいらっしゃるだなんて、とっても嬉しいわ」
セシリアが嬉しそうに微笑む。曲はいつしか転調し、少し彼女の指がつっかえそうになったが、すんでのところで持ち直し、また元のようにすべやかに演奏が続いていった。
「そうなの。ここからがむつかしいのよね」
そう言って笑いながら軽く舌を出しておどけるような仕草を見せるセシリア。だが、次の楽章に入って間もなく、彼女は鍵盤を弾くのをぴたりとやめ、突然ハアハアと肩で荒い息をしはじめた。
「セシル…?」
彼女の様子がおかしいことに気づいたディルナスは弓を引くのをやめ、ビヨロンを近くの小棹の上に置くとセシリアの顔をのぞきこんだ。
とたん、ディルナスはぎょっとした。美しく整えられた彼女の相貌はみるみる内に変わり、顔面はひきつりすでに蒼白、瞳孔は大きく開ききり、中央の黒目がまるで点のようになって、この世のものとは思えぬすさまじい形相に豹変していたのだった。
「…あ、ああ。アッアッ、アアーッ!」
「セシル…!」
「いや、いやあっ! 来ないで、来ないでちょうだい悪魔…! おまえなんか、冥府でもどこぞへでもお行き! わたくしに近寄らないで、魔族めが!」
くわっと歯をむき出しにさせ、ディルナスに向かってめいいっぱい威圧感を示そうとする。ディルナスはそんな彼女を落ち着かせるべく、刺激を与えないようせいいっぱいの笑顔を作るが、そんなことなど露ほどの効果もなかった。
「セシル、セシリア! どうしたセシリアっ。私だ、ジェラルドだ。よくご覧、私は魔族なんかではない。おまえの兄だよ」
「汚らわしい! セレスト・セレスティアン王国の王族の一員であるこのわたくしに、そのような成りをして触れようなどと失礼千万極まりない不届き者めがっ。おまえは悪魔よ、お兄さまと同じ顔に似せただけの化け物にすぎぬわ…!」
セシリアはディルナスに向かって大きく腕をかき、何やら呪術めいた文句をぶつぶつつぶやいたが、彼にそれが通用しないことが判明すると、ばんっと鍵盤を力任せに両手でぶったたいた。
「いやーーーーーっ!」
絶叫に近い金きり声を上げながら、セシリアはハープシコードを壊さんばかりの勢いでめちゃめちゃに鍵盤を叩きつけ、そのまま横滑りになった格好でうち崩れていった。
「…きゃっ。セシリアさま…!」
「ディルナスさま、いかがなされましたか!」
騒ぎを聞きつけて二人の侍女が部屋にかけこんできた。
一人は先ほどのルシア、そしてもう一人はルシアよりもかなり年配の相を見せるマージョリー。彼女はセシリアが幼き頃過ごした王都のセルリアン宮殿時代からずっと長く仕えている古参の侍女で、セシリアのことにかけては誰よりも詳しく、かつ深く理解している内の一人だった。
ルシアはまっすぐハープシコードの下でうずくまり、真っ青になって小刻みに身体を震わせているセシリアの元に近寄っていった。 そして、ひどく怯えきっている彼女の肩をしっかりと自分の方へ抱き寄せては「もう大丈夫ですよ。何も怖くありませんから」と何度も繰り返す。
まるで、悪夢を見たおかげで夜中にひどくうなされて泣きながら目覚める子供を、やさしくなだめて寝かしつけようとでもするかのよう。ルシアは一心にセシリアの気を落ち着かせることだけに努めるのだった。
「…何事があったのですかディルナスさま」
マージョリーはディルナスの腕を引いて、そっと二人から離れた位置に移動させると小声でそうたずねるが、彼はただ伏目がちに「わからない」とだけつぶやき首を横に振った。
「…また突然だったんだ、今回も」
「そうですか…」
「マージ。母上は、ここのところだいぶ落ち着いていらしたんじゃなかったのかい?」
「そうですね。…昔、デヴォンシャー公の元へ嫁して来られたばかりの頃に比べたら、ずいぶんおだやかになられましたかもしれません。王室付き薬師のアルトゥンさまから処方されたお薬がだいぶお身体に合っていらっしゃるせいもありますし。それはディルナスさまもずっとご存知でおられましたことでしょうが…」
「ああ…。僕が物心つくかつかない前から、母上はこの世の人じゃなかったからね。僕のことなんかちっとも見てくださらなかったし、僕が母上のそばに寄っても、いつもぼんやりと、夢見がちな少女のまなざしで、窓の外ばかりを眺めていらした…」
ディルナスのまぶたの裏に、自身が幼少の頃から眺めていた母セシリアの面影がつと浮かんだ。
「ははうえ…」と呼びかけながら、その膝に寄っていっても彼女は彼の方をちらとでも見ようとしなかった。
あまつさえ、時には悪鬼同然の形相となってその手を乱暴に払い落とし、突然立ち上がると先ほどのように「散れっ…! 我が元から離れよ魔族めが…!」とわけのわからないことをわめきながら、目をくわっと見開いて指を複雑に組み合わせてはまじないの構文を唱えはじめることがしばしばあったのだ。
…母がかつて、王族の中でも魔法を操る優れた手だれとして尊ばれていた存在だったとか。現在、その力を失っていることを知ったのはだいぶ近年になってから、ディルナスが十五歳くらいの時分であったが。
「ねえ、マージ。そんなに僕は、伯父上…ジェラルド陛下に似ているのかな」
「で、ディルナスさま…?」
ふいに向き直って静かに問いかけるディルナスに対し、マージョリーは一瞬ぎくりと身体をこわばらせたが、すぐに戻って姿勢を正したが、それでもやや、不自然に彼から顔をそらしているのだった。
「さ、さあ…。私はあまり、そうは思っておりませんが。それに、セシリアさまもお病気でいらっしゃることですから、けしてそのようなことでお間違いをされているわけではないかと…」
「そうだよね。僕はもらい子で母上とは何の血のつながりがないはずだもの。でも…本当に母上は僕を国王陛下と混同なさっておられる。しかもそれはここのところ急に頻繁になってきたよ。今日みたいに合奏の相手として呼ばれたり、チェスやカードの遊びに誘われたり…。子供の時はちっとも見向きもされなかったのに、なんだか不思議というか、とてもおかしなものだね」
弱く、かすかに微笑むと、ディルナスはふっと視線をセシリアの方に向けた。
するとそこには、ひどく泣きじゃくりながら、ルシアに身体を支えられるようにしながらよろよろと立ち上がる彼女の姿があった。ルシアがよくよくなだめたのが効を奏したのか、やっと寝室で休むことを承知したらしい。
「あたち、もうネンネしゅる。…ねえ、ねえ。あたちのくまちゃんは? くまちゃん、どこぉ? くまちゃんといっちょに、あたちネンネしゅるんだもぉん」
親指をしゃぶり、気に入りのぬいぐるみがどこに行ったのかときょろきょろと辺りを見渡し続けるセシリア――。
そんな幼女のような素振りを見せる彼女からディルナスはそっと視線を外し、「マージ」と呼びかけた。
「…それじゃ僕は部屋に戻るよ。母上を…よろしく頼みます」
軽く一礼し、ディルナスはそのまま静かに部屋を出て行くのだった。
** ** **
ディルナスは自室に戻ると、どっと疲れが出たのか窓のそばに据えられていた長椅子に身体を深く沈めさせた。
セシリアの相手をした後はいつも似たようなものだった。ひどい疲労困憊感と脱力感でいっぱいになり、本を読むことも庭の手入れをすることも、何ひとつとしてする気が起きなかったのだ。
「母上…。僕にもっと力があればよかったの…?」
そっと誰に聞かせることもなくつぶやくと、窓の外のテラスにさっと物影が現れた。
「そこにいるのは“耳口”? “目鼻”?」
声をひそめて窓に向かって呼びかけると、それぞれが低くくぐもった調子でそれぞれ返事をよこす。
「はいディルナス様」
「我ら両方ともおそばに控えております」
しかし、彼らは自身の存在を示しても、影は影のまま、主人の前にけしてその姿を完全に現すことはなかった。
テラスに続くガラス戸の外側にて、ディルナスの視界になるべく入らぬよう、できるだけ身をひそめて膝をつき、顔もろくろく上げぬときている。
まるで自身を物の影か何かと同化させようとでもいうのか、人間とおぼしき動作をほとんど彼に示すことはなかったのだ。
「このたび現場にて“手足”がまず先んじて動いた模様です」
「つきましては、ディルナスさまのお耳に疾くその旨をお伝えしたく、ここに参上つかまつりました次第であります」
「そうか。二人ともお勤め本当にご苦労だったね。ならば折り返し伝えてくれないか“手足”に。…これからも首尾よくやるようにと、ね」
「――御意」
そう言うが早いか、二つの人影はあっという間にその場から消え去り、それこそ姿形も見えなくなった。
彼らが行った後で、ディルナスは虚空を眺めながらさらに深いためいきをもらした。
――そう。しょせん、ただの悪あがきに違いないと、自分でもちゃんと思ってはいるさ。心のどこかでは、ね。ちゃんとそう、認識している。
ただそう思いながらも、それでもただ、手をこまねいているだけの日々をこのまま安穏と過ごすのは、年々耐えられなくなってきていると切に感じることも、また事実に他ならなくて……。
でも、何が正しくて何が正しくないかなんて、僕にはもうわからないんだ。全て物事は紙一重。くるりと返して、両面を張り合わせたら、もうどちらがどらかだったのか、そんな判断すらつかなくなってしまったのと、たぶん一緒なんだろう、世は何事も。
そして、すべては動き出してしまったんだ。“耳口”と“目鼻”と“手足”が、僕の体の一部から分かれたように。僕はただ“頭”となって、ひたすら物事を先に進ませることだけに集中して考えなければならない務めを果たさなければならないのだから…。
ディルナスは静かにまぶたを伏せると、誰に聞かせることもなく一人そっとつぶやくのだった。
「それはきっと…。ただの自分の弱さ故、なのかもしれない、な」
** ** **
昼の時間も過ぎ、そろそろ午後の教科が各教室で行われはじめた頃のことだった。
開け放した部屋から淹れ立てのコーヒーの香りが漂っていた。
学院本館東側二階と三階は教官室が立ち並び、教科担当それぞれに一室ずつあてがわれている。学院で教鞭を取る先生たちによって講義を持たない時間や準備その他でそこは使用されているのだが、その中の一室、二階のやや奥まったところが当の部屋、魔法薬学教官室だった。ドアの横の表札には使用者の名前と在・不在が一目でわかるようになっており、それによると「ディーン・ジローラモ」という記述と、「在」の方に表示窓が開いていたのだった。
部屋の両壁には並んだ年代を感じさせる本棚がずらりと並び、そのどれもにもきちんと入りきらず、向きもばらばらに整理せず押し込められた本であふれかえりそうだった。
また一方、部屋の片隅に置いてある書き物用机の上にも書類や参考書の類が山のように積み重なり、それらの隙間のほんの少しスペースで読んだり書いたりをしているようで、もっぱら器具や道具の要りような実験などは部屋の中央にでんと置かれたりっぱな長テーブルの上でされているのだった。
そのテーブルを前にして部屋の主たる彼は、ふんふんと鼻歌まじりにろ紙を敷いた漏斗をビーカーにセットし、その上から三角フラスコに入ったお湯を注ぎ込んでいる最中だ。
机の上には鉄綿付金網を敷いた鉄製三脚とアルコールランプ。どうやらこれで彼はお湯を沸かしたらしい。
「んー。やっぱりドリップで淹れたコーヒーは香りが違うねえ。インスタントじゃこうはいかまいよ」
一人満足げにうなずき、コーヒーの香ばしい香りをふんだんに楽しんでから、ビーカーの縁に口をつけたところ――。
開けっ放しだったドアをとんとんと叩かれたので、その拍子に熱々のコーヒーをつっと口に含み、思い切りよく舌を火傷させてしまうのだった。
「…あ、あのぉ。“プロフェッサー”? だ、大丈夫ですかあ?」
「ごめんなさいディーン先生、あたしたちが急に部屋に入って来ちゃったから」
アチチアチチと大げさに慌てふためく彼を前に、セレとカレンは自分たちのせいで大変なことをしでかしたかと焦ったが、慌てて水を口に含んだ彼は「いやいや心配ない。もう大丈夫だ」と言葉にできない分、大げさに手振り身振りで示した。
その様子を見て、二人は互いに顔を見合わせて安堵した表情を示すと、「じゃ、あのぉ」とおずおずと切り出しながら、彼に自分たちが部屋を訪れた用向きを済ませたい意向をにおわせる。
彼は数日前からクラス掲示板に、試験答案を返すから該当者は空いた時間に教官室まで取りに来るよう、呼び出し掲示を出していたのだった。
「ちょっと待っていてくれ」と二人を手で制すと、自分の机の上に積み重なっていた本をばささとひっくりかえして、本と本との間につっこまれていた書類の入った茶封筒を取り出した。
それから綴じてあった口を開き、中の紙のたばをでめくりながら「カレン・クライス」、「セレ・カートン」と彼女たちの名前が記された答案を引き出し二人それぞれに返していった。
「…あれ? そういえばティーナ・アルトゥンは?」
もう一枚その下にあった答案を引き出そうとして、彼ははたとその手を止めた。
概ね彼女たちと一緒に連れ立ってやって来る面子の内の一人が、この場に欠いていたことに気づき「おや」と思ったのだった。
「ああ、ティーナね。彼女、階段から落ちて足をくじいたんですって。歩けることは歩けるらしいけど、今日は大事を取って部屋でおやすみしてるわ」
セレと顔を見合わせたカレンが代表してそう告げると、ディーンは「ふうん…。そりゃ残念だ」とさも大げさに肩をすくめるのだった。
「今日は珍しいお菓子が手に入ったのだよ。特にティーナは今回の試験、とてもがんばったみたいだから、ちょうどこれがごほうびになるかなと思っていたのだがね」
お菓子…!
ディーンの言葉にカレンもセレも鋭く反応した。
「…はは、顔色が変わったね。正直だな、君たちも」
「だって“プロフェッサー”の部屋には…ねえ?」
「そうそう。ここに来たらおいしいものにありつけることで有名ですもん」
「そうかそうか。なるほどねえ、そんなウワサが君たちの間にまかり通っているとはね」
まだ白髪も生えず額にしわもない年の頃、四十代という彼であったが、六十・七十代といった高齢者ぞろいの学院の教授陣の中でもまだ生徒たちに近い分なじみやすい上に、おいしい物・甘い物好きという性分からか、教官室を訪れた生徒たちに学院内の購買部ではまずめったに手に入らない、どこから仕入れてくるのか、珍しくてちょっと変わったとっておきの食べ物や飲み物をふるまうことがあり、それを目当てに用もないのに部屋を訪れる輩も多かったのだ。
「…まったく、彼女にはお気の毒さまだけど」
ディーンはついっと立ち上がり、実験器具棚の両開き戸を開け、中に入れてあった四角い茶色の小ぶりな箱を取り出した。
それを持った彼が、さあどうぞお嬢さまたち、と二人の前に置いたとたん、少女ならでのは明るい歓声が室内に響き渡る。
「わあ! すっごーい。シャムロックのマロングラッセじゃないですかあ!」
「これファナトゥ地方の銘菓よねえ。先生、どうしたのぉ? 旅行か何かのお土産ですかあ?」
「…ま、ちょっとしたコネがあってね。君たちこれから時間は? 空いているんなら、ちょうどおいしいコーヒーも入ったことだし、飲んでいったらどうだね。そら、その椅子に座ってゆっくりしていくといいよ」
「はあい。ありがとうございまーす」
「お言葉に甘えまして…。いっただきまーす」
半分ほどフラスコに入っていたコーヒーを予備のビーカーに入れてそれぞれの前に出されると、二人はお行儀よく仕切りの中に入れられていた菓子をひとつずつつまみ、笑顔でぱくついた。
開いた窓の向こうでは、青く広がる空の下、楡の巨木が風に吹かれてさやさやと枝の葉を揺らす音が聞こえてきた。もっとずっと遠くの方では、小鳥がチュピチュピとさえずる声が、風に乗って流れてきていた。
「…子供たちの世界もいろいろと大変だねえ」
にこにことマロングラッセをほおばりながらコーヒーの入ったビーカーを手にしているカレンとセレを前にして、ディーンはふっとそんなことをつぶやくと、にっこりと笑って自分のビーカーからコーヒーをすするのだった。
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うわああああああああん(´д⊂)
おかげさまでアップできました。
いさなさんに「できたよ!」メール打とうとしたら、先に「オツカレサマでした!」メールが届いていたのを知って(いちおざっと掲載文を見て表記などをチェックしていたので;)タイトルの如く泣きました…;
………
………
(感慨にひたってます)
それじゃ会社行ってきまーす♪(ちっ。つまらん;)
いさなさんに「できたよ!」メール打とうとしたら、先に「オツカレサマでした!」メールが届いていたのを知って(いちおざっと掲載文を見て表記などをチェックしていたので;)タイトルの如く泣きました…;
………
………
(感慨にひたってます)
それじゃ会社行ってきまーす♪(ちっ。つまらん;)
もうっ、アガシってば♪
もう読んでいる時、顔がにまにまにまにましちゃって大変でした。
アガシ、とうとうやってくれましたね(笑)
もうアガシってばカッコ良過ぎます♪ アガシ最高~!! アガシ贔屓のワタクシには、もううひゃうひゃな回でした(^^)
ディルナスとセシリア、そして耳口、目鼻とアヤシゲな輩も登場し、ダークな予感がしてきましたね。
そして最後の「ディーン先生」何か裏がありそうな予感です。で、ずばりあるのでしょうか? やまのさん??
最後のシーンは「あ、こういう先生いたな~」ってちょっぴり懐かしくなってしまいました。学校でこっそり食べるお菓子って、格別な味がするのですよね。不思議なことに。
いつもやまのさんに、マジカルなことや学園生活の雰囲気を出していただいているので、私も魔法学院っぽい雰囲気が出せるようにしたいと思います。
次回の展開ですが、ようやくアガシやラズリがわらわらと頭の中で動き出してきてくれました。
今日はあらすじくらいは出来上がらせたいと思います。
やまのさん、本当にお疲れ様でした!
今日はゆっくりと休んでくださいね。
アガシ、とうとうやってくれましたね(笑)
もうアガシってばカッコ良過ぎます♪ アガシ最高~!! アガシ贔屓のワタクシには、もううひゃうひゃな回でした(^^)
ディルナスとセシリア、そして耳口、目鼻とアヤシゲな輩も登場し、ダークな予感がしてきましたね。
そして最後の「ディーン先生」何か裏がありそうな予感です。で、ずばりあるのでしょうか? やまのさん??
最後のシーンは「あ、こういう先生いたな~」ってちょっぴり懐かしくなってしまいました。学校でこっそり食べるお菓子って、格別な味がするのですよね。不思議なことに。
いつもやまのさんに、マジカルなことや学園生活の雰囲気を出していただいているので、私も魔法学院っぽい雰囲気が出せるようにしたいと思います。
次回の展開ですが、ようやくアガシやラズリがわらわらと頭の中で動き出してきてくれました。
今日はあらすじくらいは出来上がらせたいと思います。
やまのさん、本当にお疲れ様でした!
今日はゆっくりと休んでくださいね。
感想さんくす!(*^^)v
いさなさん早速の感想コメント、本当にありがちゅ~vv
そうなんですよ、アガシが…!
あれはかなりの大誤算というか、まさか本気ちゅー(笑)するとは私にも思わなかったんで、めちゃめちゃ大暴走しちゃったんですよ~;
予定ではデコちゅーか、ほっぺチューぐらいだろうなあ、と思っていたのですが、それしきではインパクトがあんまないかな? とか考えていたら、なんかいきなりキター!(笑)って感じです。
多分、そのちょっと前にティーナにマジ抱きつきしてんのに、彼女から篤い友情ハグ程度に思われ、さらに「お父さん」扱いされたのが気にいらなかったと見え(笑)
「これならどや?」と本気を出してしまったのだろーと書き手のおかーさんは解釈しましたが(爆)
“プロフェッサー”(あ、これはあだ名です; 説明入れられなかったけど、生徒たちから一目置かれているちょっとマッド系な先生なんで(^^ゞ …とはいえ、甘いもの好きおいしい物好きーvvな人なので生徒たちからなめられっぱなしみたいですが…)ディーン先生をいきなりここで出してきたのはもちろん、その後に活躍をさせたいからなんですが、彼の正体はいかに…!?
乞うご期待♪ ということで、この場ではお茶を濁してしまいますが、いさなさんには後でこっそりメールしますねん(*^^)v
今日は一日、裏話こぼれ話にあれ書こう、これも書こうと一人でうふうふと妄想かきたてておりました♪
また詳しい記事書きますね~!(もういいの…世界の中心で“萌”を叫んでる人だから…ぢぶん(^^ゞ)
そうなんですよ、アガシが…!
あれはかなりの大誤算というか、まさか本気ちゅー(笑)するとは私にも思わなかったんで、めちゃめちゃ大暴走しちゃったんですよ~;
予定ではデコちゅーか、ほっぺチューぐらいだろうなあ、と思っていたのですが、それしきではインパクトがあんまないかな? とか考えていたら、なんかいきなりキター!(笑)って感じです。
多分、そのちょっと前にティーナにマジ抱きつきしてんのに、彼女から篤い友情ハグ程度に思われ、さらに「お父さん」扱いされたのが気にいらなかったと見え(笑)
「これならどや?」と本気を出してしまったのだろーと書き手のおかーさんは解釈しましたが(爆)
“プロフェッサー”(あ、これはあだ名です; 説明入れられなかったけど、生徒たちから一目置かれているちょっとマッド系な先生なんで(^^ゞ …とはいえ、甘いもの好きおいしい物好きーvvな人なので生徒たちからなめられっぱなしみたいですが…)ディーン先生をいきなりここで出してきたのはもちろん、その後に活躍をさせたいからなんですが、彼の正体はいかに…!?
乞うご期待♪ ということで、この場ではお茶を濁してしまいますが、いさなさんには後でこっそりメールしますねん(*^^)v
今日は一日、裏話こぼれ話にあれ書こう、これも書こうと一人でうふうふと妄想かきたてておりました♪
また詳しい記事書きますね~!(もういいの…世界の中心で“萌”を叫んでる人だから…ぢぶん(^^ゞ)