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 暗い---自分が目を閉じているのか、開いているのかもわからない漆黒の闇。ここはどこだろうと、どんなに目を凝らして無駄だった。どこまでも果てしなく続く闇。
(ここは…どこ?)
 自分の手さえ見えない完璧な暗闇。本当に自分がここにいるのかすらもわからない。不安にかられて自分の肩を抱き締めた---が、ティーナの手は空しく宙をかく。
(え……?)
 今度は自分の頬に触れようとするが、手のひらに感じるものは何もない。ティーナの手はどこまでも闇の中を彷徨うだけ。何もない。ここにあるのは暗闇だけ。
(うそ)
 あたしの身体はどこにあるの? あたしはここにいる。なのにどうして……。
 恐る恐る震える両の手を合わせる。だが互いの手は合わさることなく、どこまでもどこまでも対となる手を探し続ける。手握り締める。指先はやわらかな手のひらに触れず、冷たい空気にしか触れることができない。
(やだ、どうして……)
 これは夢だ。そう、夢に決まっている。懸命に自分に言い聞かせるが、本当は納得していない自分がいることを自覚していた。危うく恐慌を起こしかけた時、目の前の闇が動いた気配がした。
『おいで』
 ぞわりと鳥肌が立った。声ならぬ声がティーナに語りかける。それはやさしい男の声に聞こえた気もするが、誘い掛ける女の声のようにも聞こえる。ティーナは本能的に危機を感じ、無我夢中で闇の中を走り出す。
『おいで』
 ティーナは走った。いや飛んでいるのかもしれない。目の前にあるのは闇、闇、闇。一体どこへ逃げればいいと言うのだろう。どんなに走っても息が切れない。足の裏で蹴る地面すらわからない。もしかしたら自分の身体は空気みたいになって、この暗闇の一部になってしまったのだろうか?
『……おいで』
 嫌だ。絶対に。
 走りながら声にならない声で叫ぶ。走りながらティーナは気がついた。足を踏み出す度に胸の上で弾む小さな欠片の感触に。
 とん、とん、とん。
 足を進めるたびに堅い石が胸を叩く。今、ティーナが感じる唯一の感覚だった。そして、どうしてかわからないが、あの声はこの石を狙っているのだと知る。
(だめ、これは……!)
 不意に背後から伸びてきた手から、ティーナは胸元の石を庇うように握り締める。手の中にすっぽりと収まってしまうほど、小さく透き通った石。不思議なことに、さっきは感じなかったはずの感触が手のひらに甦る。
(これはあの子にあげたものだから……)
 熱く堅い石肌を感じた途端、頭の中を覆っていた深い霧が急に開けていく。浮かんでは消えていった面影が急速にティーナの目の前で形を結ぶ。
「あなたは……」呆然とティーナは呟いた。
 そこには幼いひとりの少年がいた。ティーナを見て、驚いたように目を見開く。
 空色の瞳。セレスト・ブルー。今までどうして忘れていたんだろう? 
 晴れ渡った空の色に似た瞳が弾けるように笑った。途端、爆発するかのように金色の光が闇をなぎ払いティーナに襲い掛かる。
「待って!!」
 ティーナは少年へと手を伸ばす。もう少しで互いの手が触れ合おうとした次の瞬間、目の前で光が炸裂した。

            *    *    *    *    *

「あぶないっ!!」
 ティーナは思わず声を上げた。ざんっと茨の茂みが音を立てると共に、くぐもった悲鳴が上がる。庭園の真ん中に枝を広げる大樹、その枝の陰から人の姿を見つけた時はすでに遅かった。ティーナが助けの手を差し出すにはあまりにも急で、人影が茂みに落ちていくのをただ見守る結果になってしまった。
 ティーナは驚きのあまり呆然とその様を見下ろしていたが、ひしゃげた枝をかき分けるように現れた手を見つけ、慌てて急降下すると、ふわりと地面に降り立った。
「ねえっ、大丈夫?!」
 ティーナが駆け寄った黒い土の上には、乳白色をした素朴な花は無惨に散らばり、青々とした緑の枝は尖った刺を残したまま折れ曲がっていた。花の盛りの茨を無惨な姿にした張本人の少年は、服と金茶の髪を枝にからませたまま必死にそこから抜け出そうともがいていた。だがティーナの姿を見つけた途端、驚いたように目を見開く。
「……お前」
 少年はティーナをまじまじと見つめる。大きく見開かれた少年の瞳は空の色に似ていた。
「お前、さっき空を飛んで……」
 しまった。ティーナは自分の失態に気づく。ここはあまりにも広くて静かなものだから誰もいないと思っていたのが間違いだった。
「え…えっと、あたしは……」
 その力を必要以上に使ってはいけないし、むやみに人に見せるものではない。寡黙な父がこれだけはとティーナにくり返し忠告していたことだった。しかも目の前にいる少年の空色の瞳。このセレスト・セレスティアンの統治者の血族だということは一目瞭然だった。
 こんな片田舎とはいえ、ここは王族の住まう離宮なのだ。王族のひとりやふたりに出くわしてもおかしくはない。確かこの離宮の主でるディルナス様は十五歳になられたはずだ。少年はどうみても十歳前後、ティーナと同い年か年下くらいとしか思えない。
 ディルナス様ではないとしたら、この少年は誰だろう? ラズウェルト皇太子殿下がティーナと同い年とは聞いているが、皇太子殿下あろう者がお共もなしでこんなところにいるはずがない。
「あたしは、あの……」
 それよりもどうしよう。人に見られてしまった。
 ティーナにとって少年が何者かということよりも、父ガルオンにこのことが知られてしまう方が大きな問題だった。「大人しくしているから」という約束で、離宮に上がる父の同行を赦してもらったというのに…。
(どうしよう)
 ガルオンは普段は温厚だが約束を破ると本当に厳しかった。しかも王族らしき少年にアルトゥンの血の力を見せてしまったとなると、怒られるだけでは済まないような気がする。
 戸惑うティーナの目の前で、少年は強引に茨から抜け出そうとする。しかしひとりでは難しいと悟ったのだろう。少年はティーナに言った。
「おい娘。ここから出るのを手伝え」
 あどけなさを残す少年の声には、歳とは不相応な威圧的な響きが含まれていた。少年の上からものを言う態度にティーナはムッとなる。
「嫌」
 これ以上ないくらいに、きっぱりと断る。一瞬少年はティーナの言葉が理解できなかったかのように、その蒼い瞳を怪訝そうに曇らせる。
「お前、なにを言って……」
 言葉を失う少年にティーナは言った。
「嫌って言ったの。どうしてそんなに威張った言い方をするの? 助けてあげたいと思っても、そんな風に言われたらいっぺんに嫌になっちゃうわよ」
 少しはティーナの言い分を理解しようとしたのだろうか。それとも理解しがたいと呆れたのか。まるで珍獣を見る目でティーナを凝視していたが、少年は疲れたように目を伏せた。
「……だったらいい。お前の手助けなど必要ない」
 あくまで態度を変えるつもりはないらしい。ティーナは少年の頑なさに少し呆れたが、やはり王族の血を引く人間はそういうものなのだろうかと思ってしまう。ティーナがこの場を立ち去っても、すぐに誰かが気づいてくれるだろう。そうは思いつつも、このまま少年を放っていくのもやはり心苦しい。とはいえ、黙って手助けするものなんとなく癪にさわる。
 どうしよう。引っ掻き傷をいつくも作りながらも、うめき声ひとつ上げようとしない少年をどうしたものかと途方に暮れる。
「……じゃあ、あなたが茨から抜け出すのを手伝ってあげたら、あたしの頼みを聞いてくれるっていうのは…どう?」
 ふと思いついたことをティーナは口にしてみた。
「交換条件ときたか」
 少年の瞳に浮かんだのは軽蔑の色だった。ティーナは自分の発言に後悔したがもう遅い。
「望みは何だ?」
 威圧的な口調で少年は尋ねる。ティーナは逆らえず、恐る恐る言った。
「…あたしのこと、誰にも話さないで……内緒にしてくれる?」
 どきどきとしながらティーナは少年の返事を待った。しかし少年は難しい表情のまま、なかなか口を開いてくれようとしない。
「あの……ごめんなさい。いいのもう、ごめん」
 怪我をしている人にこんな交換条件を出すなんて卑怯だ。ティーナは茨に手を掛けると、少年にまとわりつく棘だらけの枝を退け始める。すると少年はティーナの耳元で唐突に吹き出した。
「そんなことでいいのなら…」
 小さな笑い声を立てながら、ティーナに空色の瞳を向けると、にいっと笑う。
「いいだろう。お前のことは誰にも話さない。内緒にしよう」
 少年が浮かべた表情が弟のテイトが悪戯を思いついた時のそれと似ていて、ティーナもつい、つられて笑ってしまった。


 茨の中からの救出は思ったよりも時間が掛かってしまった。やっと棘の檻から開放された少年は体中いたるところに小さな傷を作り、上等そうな白い服は泥と血と緑の葉の汁でひどい有様だった。二人は長い格闘を終えた後のように、ぐったりと土の上に座り込んでしまった。
「…ひとまず礼を言う」
 少年は疲れたように俯いたまま呟いた。ティーナは「ううん」と軽く首を振ると、少年の顔を覗き込んだ。
「痛いでしょう? 大丈夫?」
「このくらい怪我のうちにはいらない」
 偉そうな物言いと、少年の姿があまりにも落差があり過ぎて滑稽、いや微笑ましくすら思えてしまう。ティーナは弟にするような仕草で少年の乱れた髪を指で梳いた。すると少年は驚いたように顔を上げると、ティーナの手をいきなり叩き落とした。
「……気安く触れるな、無礼者が」
「無礼者って…」
 ティーナは絶句した。あまりに時代錯誤に聞こえる言葉に驚いたということもあるが、いかにも王族らしい物言いに感心してしまう。もし、この少年が王族だとしたら当然の反応なのかもしれない。
(それくらい、仕方ないか)
 ティーナは小さく息をつくと、すっくと立ち上がった。たしか庭園の入り口に手押しで汲み上げる井戸があったはずだ。まずはこの泥を洗い落とさなければと、ティーナは走り出した。ちらりと振り返ると、少年は座り込んだ姿勢のまま微動だにしていない。「ちょっと待ってて」と声を掛けようと思ったが躊躇してしまう。今度は「気安く声を掛けるな」と言われてしまいそうだ。
 庭園の入り口付近までたどり着くと、念のため手近の木陰に隠れて周囲を見渡す。幸い人の姿はない。ティーナはすばやく井戸に駆け寄ると、スカートのポケットからハンカチを取り出した。片手でポンプを押すのは骨が折れたが、どうにかハンカチを濡らす程度の水を汲み上げることができた。
 ぼたぼたと水を垂らしながらティーナは少年の元へ駆け足で戻ると、少年はまださっきと同じ姿勢のままで座り込んでいた。ティーナは息を弾ませたまま、少年の前にしゃがみ込んだ。
「傷の手当てをしたいんだけど、触ってもいい……?」
 恐る恐る声を掛けると、少年は顔も上げずに「勝手にしろ」と面倒くさそうに答えた。
「じゃあ、遠慮なく…」
 野生の獣に触れるような慎重さで、ティーナは少年の金茶色の髪をかき上げると、深い傷を負った右頬にハンカチを押し当てた。ぐっと息を飲んで痛みを堪える少年の息づかいを感じる。「我慢して偉い偉い」なとどうっかり言ってしまったら、逆上されてしまいそうだ。
 ティーナは無言で顔中の泥や血を拭い取ると、もう一度ハンカチを洗い流すために井戸へ走った。今度は「ちょっと待っててね」と言うのを忘れずに。
 何度か井戸との往復を繰り返して、どうにか汚れを落とすことができた。少年は借りてきた猫のように大人しく、最初は遠慮がちにしていたティーナもだんだん慣れてきて、手当てに集中することができた。
 この往復の途中で見つけた薬草の畑から拝借した薬草をポケットから取り出すと、ハンカチに包んでもみくちゃにした。緑色の汁が出てくるくらいまでもみ解す。
「沁みるけど、我慢してね」
 念のため予告をしたものの、それは予想以上に傷に沁みたようだ。少年は小さなうめき声を上げると、ティーナの腕をつかんだ。
「…何だこれは」
「薬草の畑からもらったの。傷に効くんだよ。毒じゃないから大丈夫」
 なだめるように少年の手を解くと、自分の腕にできた大きなミミズ腫れの上に絞り汁を垂らしてみた。痛みで顔をしかめながら「ね?」と少年に無理矢理浮かべた笑顔を向ける。すると、ようやく少年は険しい表情を和らげた。
「お前……薬師みたいだな」
 ぼそりと少年が囁いた。
「うん、あたしの家は薬師の家系なの。だから…」
 言い掛けて「しまった」と思う。あまり余計なことは言わない方がいいかもしれない。突然黙り込んだティーナを察して少年は言った。
「誰にも話したりはしない。構わず話せ」
 でも。と言い返そうとしたが、少年の真っ直ぐな目を見てティーナはどきりとした。それだけで、けして嘘は言わないとわかるのに十分だった。
「う、うん」
 少し顔が赤くなっているかもしれない。頬が熱かった。少年に見られないように顔を背け、傷の手当てを続けながら話を続ける。
「本当は弟がお父様の後を継ぐんだけど、まだ生まれたばかりだから一人前にまるまで時間が掛かるの。だから弟が大きくなるまであたしがお父様のお仕事を継ぐことになっているんだ。だから、今も少しだけど薬師になるための勉強をしているの」
 ふうん、と少年は気のない相槌を打つ。
「ごめんね、面白くなかったね。こんなこと」
「いや…意外に思っただけだ。魔法使いかと思ったから、お前が」
 もしかしたら見られていないかもしれないという望みは断ち切られた。
「……お願いだから、このことだけは絶対に話さないで」
 ティーナが懇願すると、少年は怒ったように声を荒げた。
「誰にも話さないと言っただろう」
 そうだ、この人は絶対に約束は破らないだろう。きっと。
「ごめんなさい……」
 元はと言えば、自分の甘さが原因なのだ。少年は偶然居合わせてしまっただけなのだから。ティーナは情けない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい。あたしが悪いのに……」
 目頭が熱くなった。すると少年の厳しい声が上がる。
「泣くな。お前は僕を信用していないのか?」
 そんなことはない。ティーナは激しく首を振ると、ぐいっと涙を拭った。
「信用…する、ごめんね……ありがとう」
「……よし」
 少年は蒼い目を細めて破顔した。その笑顔がひどく眩しくて、ティーナは思わず顔を伏せた。さっきよりも頬が、いや顔中が火照るように熱く感じていた。心臓の鼓動がいつもより早い。どうしてこんなに自分が動揺しているのか、ティーナ自身よくわからなかった。ただ、少年にこの心臓の音が聞こえたらどうしようと思いながら、手の甲に負った大きな切り傷にハンカチを巻きつける。
「終わったのか?」
 頭の上から降ってきた少年の問いに、ティーナは下を向いたまま頷く。
「うん。でも応急処置だから、後でちゃんと手当てしてもらった方がいいと思う」
「わかった。……どうした、気分でも悪いのか?」
 この赤い顔を見られたくないからですとは、さすがに言えない。だけど、このまま顔を伏せたままでいるのも絶対におかしく思われる。
「あっ、あの。どうしてあんな高い木に登っていたの?」
 何とか誤魔化そうと咄嗟に質問をぶつけた。しかし、疑問に思っていたのも確かだった。少年は枝から足を滑らせたというよりは、自ら進んで枝から踏み出したように見えたからだ。
 …が、いくら待っても返事は返ってこない。どうしたのだろうと思って、そろそろとティーナは顔を上げる。すると、少年は頬を紅潮させて言葉を詰まらせていた。ティーナと目が合った途端、ふいっと目を逸らす。
「…………と、思ったんだ」
「え?」
 何と言ったのか聞こえない。ティーナが疑問符を浮かべていると、少年は半ばヤケクソ気味に言い放った。
「飛べると思ったんだ。お前が……まるで空に回廊があるみたいに歩いて…飛んでいたから。くそ」
 赤い顔のまま罵り声を上げると、少年は金色の髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
「笑いたければ…笑えっ!」
 ティーナは驚いて少年の後姿を見つめていた。急に立場が逆転してしまったようだ。ティーナは戸惑いながら少年の背中に声を掛けた。
「空を飛びたいの?」
 少年は否定も肯定もしない。だけど、それが少年らしく思えた。聞くまでもない。少年は飛びたかったのだ。本当に。
「あたしが飛べるのは…魔法の力というよりも『血』の力なんだって」
「血の力?」
 背を向けたまま少年はティーナの言葉をくり返す。
「うん。あたしの家系は今でこそ薬師だけれど、元々は魔法使いの一族だったんだって。ときどき『血』の力が濃く現れる子供が生まれて、空が飛べたり…魔法みたいなことができるみたい」
「血の力、か」
 ため息のように少年は呟くと、少し躊躇うように尋ねた。
「……どうやって飛ぶんだ?」
 どうやって…。実は考えたことがなかった。ティーナにとって、空を飛ぶことは息をしたり歩いたりするのと同じくらい自然な行為だった。
「実は、あんまり考えたことはないの」
 どうやったら伝えられるだろう。ティーナは言葉を選びながら、ゆっくりと語り始める。
「空を飛ぶのは、歩くみたいな感じなの。たとえば歩いている時に、あの建物のところまで行こうって思うでしょ。飛ぶのもそんな感じ。あそこに行きたいなって思うと行けちゃうの…わかる?」
「いや……わからない」
 少年の声には失意の色が見えた。やっぱり上手く伝えられなかった。ティーナは自分の言葉の拙さに歯噛みする。
「ごめんなさい。あたし、上手く説明できなくて」
「仕方がないだろう。僕だって、どうやったら歩けるかなんて上手く説明しろと言われても困る」
 素っ気ないが、ティーナを気遣ってくれているのだろう。もしかしたら、この少年は威張っているけれど、案外いい人なのかもしれない。
「でも、ホントはね、もう魔法使いであることを捨てた一族だから力は使わないようにって言われているの」
「だから『誰にも言わないで』か」
「うん」
 本当は力のことを人に知られてしまうよりも、力を見られたと父の耳に触れるのが怖いだけだ。古くから伝わる力を知られるのがいけないことなのか。よく理解できていないティーナにとって、父ガルオンに叱られないために言いつけを守っているだけだった。
「魔法使いの血が流れていれば…誰でも空を飛べるものなのか?」
 少年の問いにティーナは首を傾げる。
「よく……わからない。古い言い伝えだから本当かどうかわからないけれど、ご先祖様は竜と友達だったんだって。それで空を飛ぶ術を得たとかって」
「……竜と友達」
 少年は大きく吹き出すと声を上げて笑い出した。最初ティーナは何が起こったか理解できず、ぽかんと少年の背中を眺めていたが、ややあって自分が笑われていると気がついた。
「ちょ、ちょっと。どうして笑うの?」
 ティーナは四つんばいで少年の傍らににじり寄ると、少年が目に涙を滲ませて笑っているのを睨みつける。少年は浮かんだ涙を拭うと「すまない」と侘びの言葉を口にする。
「それにしても、お前みたいな泣き虫が竜を従えた一族の血を引くなんて説得力がないぞ」
「…実はあたしもそう思う」
 自信なさ気にティーナがため息をつくと、少年はからかうように言った。
「そうだな……せいぜい蛙か蚯蚓が関の山だな」
「ええっ、ひどいっ!」
 ティーナがむきになって声を上げると、少年は小刻みに肩を震わせた。笑っているのかもしれない。悪意はないのだろうが、少し悔しい。ティーナは少しでも少年に自慢できそうものはないかと考える。
「あ、あのね。よーく見るとあたしの瞳って蒼いんだよ。竜と一生の友でいる証に空の色をわかち合ったんだって」
 そうは言っても太陽の下で目を凝らしてやっとわかる程度だ。光に透かしてやっと黒い瞳の色が深すぎる蒼で構成していることがわかる。
「本当に?」
 少年は手を伸ばすと、ティーナの小さな顎を指先で上向かせる。息が掛かるほどの至近距離でティーナの瞳をまじまじと見つめると呟いた。
「……本当だ、蒼いな」
 少年は感嘆の声を上げた。
「空の蒼というよりも、まるで深い海の色みたいだ…」
 ティーナは硬直したまま動けない。もちろん少年の目を直視などできるはずがない。
「でもやっぱり…おかしいよね。竜なんて、おとぎ話みたいだし」
 やっと熱が引いた頬が再び熱を帯びていくのがわかる。そんなことに少年は気づくはずもなく、もっとよく見ようとティーナの額に掛かる髪を指先で払い除けた。
「そんなことはない。実際に竜はいるのだし、お前は空を飛ぶことができる」
「あ、あの。手を…少し、苦しい」
 ティーナが苦しげに声を上げると、少年はやっと自分がしていることを自覚したらしい。気恥ずかしそうにティーナの顎から手を離す。
「赦せ」
 心なしか少年の頬がほんのりと赤い。とは言えティーナは茹で上げた海老のように真っ赤になっていたから、少年の様子に気づくはずもない。
(どうしたんだろう、あたし)
 自分のことなのにわけがわからない。ティーナはもやもやとした気分を振り払うように自分の頬をぱんっと叩くと、勢いよく立ち上がった。
「ねえ。空、飛ぼうか?」
 突然のティーナの提案に少年は目を丸くすると、その空色の瞳を輝かせた。
「---本当に?」
 もちろん、とティーナは大きく頷くと少年に手を差し出した。すると、少年はたじろぐようにティーナと、ティーナの手をかわるがわる見つめた。
「手を……つなぐのか?」
「そうよ。そうしないと一緒に飛べないでしょ?」
「…………わかった」
 少年はおずおずとティーナの手を取ると、ゆっくりと握り締めた。

            *    *    *    *    *

 ティーナの額から手を離すと、ミランダはうっすらと微笑んだ。
「可愛いティーナ……あなたはこの頃から、ずっと王子様に恋していたのね」
 言葉とは裏腹に、ミランダの赤い唇には蔑みが色濃く浮かんでいた。ティーナの青ざめた頬を軽く指先で撫でると、いともおかしそうに肩を震わせる。
 ティーナ・アルトゥン。ただの落ちこぼれだと思っていたけれど、そう、あのアルトゥンの血を…金に値する血を引く娘。使えないわけがない。
「あなたがこんなに利用価値のある子だとは……先生知らなかったわ」
 ふわりとしたティーナの黒髪を指で梳きながら、さらに奥へ、奥へと、ティーナの記憶を手繰り寄せる。無意識のうちに抵抗しているのか、ティーナの寝顔に苦しげな表情が刻まれる。
「おいでティーナ。もっと先生に教えてちょうだい。あなたがどんなに役に立つ子だってことを、ね」

            *    *    *    *    *

(お願い……もう、やめて)
 もう何も見たくない。何も聞きたくない。あの空色の瞳をした少年にもう……会いたいけど、会いたくない。最初から会わなければよかった。
 そうすれば、あんな目に合わせることはなかったのに。
(ごめん、ごめんね……)
 泣いている自分。苦しげに歪んだ少年の横顔。
 覆っていた天幕が引き剥がされそうになるのを、ティーナは必死に捕まえていた。これがなくなったら駄目。お願いだから奪わないで---!
 必死に抱き留めるティーナの腕の中で、天幕は崩れるように消えていく。
『……おいで、ティーナ』
 またあの声が聞こえる。
 もうこっちにこないで……!
 ティーナは堅く目を閉じる。もう何も見るまいと。両手で耳を塞ぐ。もう何も聞くまいと。

            *    *    *    *    *

 それは真夜中の出来事だった。戸を力強く叩く音がした後、慌てた様子で大人たちが話しているのが聞こえた。どうやら急患らしい。またジェラルド陛下だろうと、ティーナは寝惚けた頭でぼんやりと考える。
 このセレスト・セレスティアンの現国王であるジェラルド陛下は身体が弱いため、王宮付きの薬師である父が朝と昼と晩と関係なく王宮へ呼び出されることはしょっちゅうだった。陛下には申し訳ないとは思いつつ、またかと思ってティーナは目を閉じる。
 しかし思うようにすぐには寝付けない。おまけに下はまだ騒がしい。何だかいつもと少し様子が違うような気がする。
(なんだろう……?)
 嫌な胸騒ぎがする。こういう時のティーナの勘はよく当たる。学校で飼育しているアヒルの卵が孵る時も、大好きだった祖母が息を引き取る時も、確かこんな感じがした。
 ティーナは考えるよりも先に身体が動いていた。寝台からするりと抜け出すと、スリッパを引っ掛け、寝巻きの上にカーディガンを肩に羽織る。自室の扉を開いた途端、大人たちの声が飛び込んできた。
「……どうしてまたそんなところに?!」
 父ガルオンの悲痛な声に、ティーナは思わず足を止めた。
「それで容態は?」
「怪我自体は致命傷にはいたっていないのですが、何しろ発見が遅れたもので出血の方が……」
 誰かが怪我をしたらしい。王宮からの使者である男の声は憔悴していた。迂闊に出て行ってはいけないような雰囲気に、ティーナは固唾を飲んで大人たちの会話に耳を傾ける。
「殿下は……竜を捕らえようとなさったそうです」
 押し殺した男の声が告げた言葉に硬直した。
 竜。まさか。その瞬間、なぜだか空色の瞳をした少年の面影がよぎった。
(まさか)
 ティーナはふらりとした足取りで部屋から出ると、一階へと下りる階段の手摺から身を乗り出す。慌しく人々が右往左往している玄関ホールには、やはり忙しそうに走り回る母の姿があった。
「お母様、何があったの?」
「ティーナ、まだ起きていたの?」
 慌しく使用人に支度の指示をしながら母モイラは呆れたように声を上げる。ティーナは階段を駆け下りると、モイラにしがみつく。
「ねえ、誰か怪我をしたの?」
 不安そうに身を寄せてくるティーナにモイラは「何でもないわ」とやさしく抱き留める。
「良い子だからベッドに戻って頂戴。今お父様は大急ぎで王宮へ行かなければならないの」
 モイラはティーナの髪を撫でると、部屋に戻るようにと促す。しかし、ティーナは母の手を振り払うと必死な形相で懇願する。
「お願い、教えてお母様。教えてくれたらすぐにベッドに戻るから。お願い!」
 モイラは困ったように繭を曇らせるが、言い出したら聞かないだろうと諦める。ティーナの肩に両手を置くと「あまり大きな声で言えないのだけれど…」と前置きをする。
「皇太子殿下がお怪我をなさったの」
「皇太子殿下って……ラズウェルト殿下?」
 そう、とモイラは頷くと安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。殿下はまだお若いから回復も早いし…それにお父様がついているのだから大丈夫、心配ないわ」
 娘を安心させようとする母の声は、ティーナの耳にははいらなかった。
 もしかして…あの子がラズウェルト殿下?
 蒼い瞳の人間などいくらでもいるはずだ。それに王族の血筋は皆、青玉色の瞳をしているというではないか。離宮で会った少年がラズウェルト殿下とは限らない。しかし、同時にその可能性も十分にあるのだということをティーナは認めたくなかった。
 追いやられるように部屋に戻されたティーナは、ベッドの中でしばらくの間、身動ぎもせずにうずくまっていた。どうやっても眠れるはずがない。
---殿下は……竜を捕らえようとなさったそうです。
 押し殺した男の声が頭の中でこだまする。
(まさか本当に、あの子なの……?)
 ティーナの手を取って、一緒に飛んだ時の少年の輝くような笑顔が焼きついて離れない。
(あたしが……竜の話をしたから?)
 考えすぎだ。王宮で怪我をしたのがあの少年だとは限らないのだから。しかし、どんなに懸命に自分に言い聞かせても心に根付いた不安は消えない。
 そしてティーナは気がついた。不安を消すには---確かめればいい。
 ティーナは毛布を跳ね除けると勢いよく窓を開け放ち、テラスへ飛び出した。テラスの自分の背丈よりも高い手摺に飛びつくと、その上によじ登る。
「……ごめんなさい。お父様、お母様」
 そおっと立ち上がると、ティーナは思い切り手摺を蹴った。

 テラスから空に飛び上がったはずだった。なのに、次の瞬間ティーナの身体は空の上ではなく、堅い石の床の上に降り立っていた。不意打ちを食らったティーナは床に思い切り額を打ちつける。
「いたた……」
 額を押さえながら立ち上がると、大きな背中に鼻をぶつけそうになる。ティーナは飛び上がらんばかりに驚いたが、危うく声を上げるのだけはどうにか堪える。
「できる限りの手は尽くしました」
 重々しい男の声は聞き覚えがあった。
(お父様?!)
 ティーナはその場で凍りついた。お父様がいるということは…ここは。
 王宮。
 思わず息を飲んだ。
「今夜、峠を越えれば持ちこたえるとは思いますが…………後はラズウェルト様の体力次第です」
 するとガルオンの向かい側から悲痛なすすり泣きが聞こえる。誰だろうとティーナは恐る恐るガルオンから離れる。癒しの香が焚かれて、特有の甘く苦さを感じる清涼な香りに包まれていた。
 天蓋つきの大きな寝台の向こう側には壮年を過ぎた細身の男が、寝台にすがりつき泣き崩れる女の肩をなだめるように抱いている姿があった。
(確かあれは…)
 何度か写し絵で見たことがある。白髪混じりの金髪の男はセレスト・セレスティアン現国王ジェラルド陛下。金にも似た豊かな栗色の髪はグィネビア王妃殿下。寝台の枕元に灯された蝋燭の下に浮かび上がったジェラルド陛下の瞳は、少年の瞳よりももっと深い蒼だった。
 グィネビア王妃殿下は涙に濡れた顔を上げると、寝台にそっと手を伸ばした。
「お願いだから目を開けて……ラズリ」
 灰褐色の瞳からは再び大粒の涙が溢れ落ちる。
 寝台に横たわる人物を目にして、ティーナは悲鳴を上げそうになる。顔色はあまりに青白く、赤い血の滲んだ包帯で包まれていた。すっかり変わり果てた姿をしているが、まさしく離宮の庭園で出会った少年その人だった。
(やっぱりこの子が……ラズウェルト殿下)
 かくかくと膝が笑い始めた。口を覆う手も震えている。
(どうして……どうしてこんなことに…………)
 力の入らない足では支えきれず、とうとうティーナはその場にへたり込んでしまった。
「……さあ、あとはガルオンに任せるんだ」
 ジェラルド陛下に促されるように王妃殿下は小さく頷くと顔を上げた---王妃殿下の目が一瞬、ティーナを捕らえたような気がした。
 さすがに見つかったと観念してティーナは目を閉じる。
「ガルオン。この子を……ラズウェルトを頼みましたよ」
 低く落ち着いた声がしたかと思うと、こつこつという足音が遠ざかっていった。ティーナが恐る恐る瞼を開くと、王妃殿下の後ろ姿が大きな扉の向こうに消えていくところだった。
(……どうして?)
 ティーナの頭の中に、ひとつの予想が思い浮かんだ。まさかとは思う。でも、ここにいる自分に誰ひとり気づかないなんてあるはずがない。
 ティーナは自分の足を叱咤してどうにか立ち上がると、思い切って父ガルオンの背中に触れた。だが、指はガルオンの厚い胸をすり抜けてしまう。
(お父様)
 確かに声に出して呼んだ。なのに父の耳には届いていないのか、ティーナのことを見向きもしない。
(あたし……どうしちゃったんだろう?)
 自分の身体がまるで空気のように透き通っているとでもいうのか? 
 ティーナはふらふらと寝台に近づくと、苦しげに投げ出された少年の手に触れた。
(冷たい…)
 不思議なことに、少年の手はすり抜けることはなかった。ティーナはその手を壊れ物のようにそっと両の手で包み込むと、自分の額に押し当てた。
「死なないで……お願い」
 瞼をぎゅっと閉じると、熱い涙がこぼれ落ちた。
「そんなに空を飛びたいなら、あたしの力を上げるから……もう無茶なことはしないで」
 ---あたしの力、全部全部あげるから。お願い、死なないで。目を開けて。
 たった一度しか会ったことがないというのに、どうしてこんなに馬鹿みたいに必死になっているのだろう? 二度と会えないところへ少年が飛び立とうとするのが、どうしてこんなに苦しいのだろう。わからない。わからないが……唯一わかることは、もう一度空色の瞳を見せて欲しいだけ。ただそれだけが願いだった。
「もう一度、一緒に空を飛ぼうよ……ね?」
 ティーナが囁いたその時、手のひらに焼けた石を押し付けられたような痛みが走る。
「………っ!」
 不思議なことに痛みは一瞬のうちに引いた。今のは何だったのだろう。ティーナはそっと手を開くと、ころりとシーツの上に何かが転がった。
「これは……」
 摘み上げるとそれは研磨される前の水晶によく似ていた。だけど水晶とは違う。内に炎を秘めたように、ゆらゆらと様々な色を放っていた。握り締めると、懐かしい温もりが手のひらを伝わってくる。この石はティーナの力の結晶だった。
 身体がやけに重い。すでに指先すら動かすのもやっとなくらいだ。だけどティーナは自ら生み出した結晶を、渾身の力を振り絞って少年の手に握らせる。
「もう一度……空を、とぼう……ね」
 ティーナが意識を手放すのと、石が光を放ったのはほぼ同時だった。
 遠のく意識の中で、ティーナは空を飛んでいる夢を見た。目の前に広がる空は、少年の澄んだ瞳のような色をしていた。
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