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つかめそうでつかめない、その感覚はまるで池に落ちたボールか何かを拾おうとするかのよう。
 水面をのぞきこむとそこにちゃんと見えているのに、実際は水の屈折で視界はゆがみっぱなしなのだ。
 そのせいで、どんなに狙いを定めてから水中に手を差し入れても、位置がそれてついつかみそこねてしまうのがせいぜい関の山。実際は水の中に手を入れたまま、手探りでボールを探し続けることになってしまう。 
 もう少し…本当に、もう少しだのに。
 ティーナの記憶に残る、うすぼんやりしたその人の面影が、ゆらいでは消えて遠ざかる。
 あとほんのいくつか、ちょっとしたきっかけがありさえすれば、すぐにでもはっきりしたその容姿がまぶたの裏で像を結ぶというのに…。
 そうは思いつつも、ティーナにはやはり、どうしてもラズリが誰かに似ていることをついぞ思い出すことはできなかったのだ。
 ――いっけない、あたしったら。
 ふと、ティーナは我に返り、自分がこの裏庭までやって来た本来の目的が何かを思い出した。
 昼休みの時間はごく限られている。いつまでも自身の気がかりなことに呆けている暇はない。
 何しろ校内は旧校舎・新校舎・別館・専門教科棟などに分かれ、生徒たちの寄宿舎でもある寮まで含めたらやたらと広く、ティーナが当てもなく、誰の助けも借りずに、たった一人でアガシの姿をそれらの中から探し出すことはえらく骨が折れる作業なのだ。
 しかしそれでいて、また手が空いた時に改めて、という気分にもティーナはなれそうになかった。
 時が経てば立つほど、こうしたちょっとした気持ちの行き違いから生ずる問題というのは、面倒を後回しにした分、以後も尾を引きずって何らかのしこりが残ることにもなりかねない。
 何しろついこの間の自分とカレンの一件が何よりいい見本ではないか。
 自分のもともとのぐずな性格や、カレンの持つ激しい気性のせいもあるが、仲直りするきっかけをつかみ損ねてしばらく気まずい思いを抱えていた。
 それを多少、強引といえなくもなかったが、アガシのおかげでカレンとの仲が修復されたのだ。今度は自分がアガシとカレンのために一役買いたいと思うのは、彼女にとっても本意であり、半ばごく自然な成り行きであった。
 だから、だから早くしなくちゃ。今のうちになんとかしなくちゃ…。
 そんな焦りが働いたからか、ティーナは自身の思いのままに「そうよ、アガシを探さなくちゃならなかったんだわ」と、言葉にしてつぶやいてしまった。
 すると、それに応えるかのように「わいならここにおるで」と彼女の頭上から聞き覚えのある声がにわかに降ってきた。
 その声に導かれるままにティーナが頭上を振り仰ぐと、天に向かってまっすぐ伸びるハンの木の、すらりと伸びた枝の上に、よくよく見知った彼がくつろぐようにして座っている姿が彼女の視界に勢いよく飛び込んでくるのだった。
 「アガシ…! ど、どうして」
 「嬉しいねえ。ティーナがわいのことそんな血眼になって探してくれはるなんて。わいもつくづく男冥利に尽きるわ。…よっと」
 あんぐりと口を開けて驚くばかりのティーナをよそに、アガシは自然に身を起こすとえいやっと弾みをつけ、彼女の前に飛び降り、とんっと膝をついて着地する。
 え、それじゃ、じゃあ…。もしかして、アガシはラズリとタリアのことだけじゃなく、あたしとラズリのことまで知って…?
 先ほどの出来事を終始、彼に見られていたかと思うと、またまたかーっと耳の付け根まで一気に赤くなるティーナだった。
 しかしアガシはそんな彼女の心情を知ってか知らずしてか、普段通りの何でもない様相で「…で? 何か用か?」とたずねてくるので、ティーナもなるたけ平常心を装い、素知らぬフリで彼に合わせることにした。
 何しろ先ほどラズリから「感情を表に出しすぎる」と指摘されたばかりでもあったのティーナであった。
 自分でもそんな欠点ともいえる性質を直そう、直したい、直さなくてはと常日頃から考えていたこともあったので、とにかくまずはそれを実行に移すべく努力をしてみることにしたのだ。
 そんなわけでティーナは、かっかと熱くなるばかりの胸の内を押さえながらも「そ、それなんだけど」身を乗り出すようにしてアガシと向き合った。
 「あの、ねアガシ。…ね? お願いだからカレンと仲直りして」
 「カレンと?」
 少しだけ眉根を寄せて聞き返す。それに呼応するかのようにティーナもぎくっとして一瞬だけ、身構えた。
 やっぱり…アガシはカレンのことが――。
 ティーナは彼が口には出さないまでも、まだ先ほどのカレンの暴言を許せず、彼女に対して心底、怒りをぬぐえないでいるとその様子から判断したのだった。
 しかしそれは単にティーナの先走りすぎ、ほんの杞憂にすぎなかったらしい。アガシはやおら表情を崩すと、くつくつと喉の奥を震わせて愉快そうに笑みをこぼしはじめた。
 「あ、アガシ…?」
 「いやいや、何もないでホンマ。そう気にせんとき」
 一定のリズムでスナップをきかせながらぱたぱたと手を振り、ティーナの不振がる気持ちを一掃させるアガシ。
 それから、少しだけおどけるフリをして小さく小首をかしげると「そやな」と後を続けた。
 「…ティーナにそこまで言われたら、さすがのわいもかたなしや。別に仲直りくらい、してもええねんけど…。せやけどタダで、っつーのもちぃとばっかしわしにとっては分が悪いし、シャクに触るしのぉ。…ま、ティーナからもらうもんもろたら、考えんこともないで?」
 「あ、あたしが…アガシに? いったい何をあげたらいいの?」
 何を言い出されたのかと思い、きょとんとするティーナにアガシはにいっと笑いかけ「そら決まっとるがな」と即座に返してよこす。
 そして悪戯小僧のように目を輝かせながら、彼女の唇を人差し指でちょいとつつき「…これや」と声をひそめてささやくのだった。
 「ああああああああ、アガシ…! なななななな、何…!」
 反射的にアガシのそばから離れ、盛大に後ずさりするティーナ。彼の唐突な行動には慣れていたつもりだが、あまりにも大胆すぎるアプローチの仕方にはいつにもまして度肝を抜かされずにはおられなかった。
 「お。いいねえ、その反応。めっちゃ新鮮やわあ」
 ひゅう。口笛をひとつ吹き鳴らし、アガシはにかにかと笑いながらティーナの慌てぶりを人事のように楽しんだ後、さらにダメ押しとばかりに彼女にウィンクをひとつよこす。
 「なーんもぶったまげることなんざないやろ。まずご褒美っつったら、麗しの女神さまからの熱い抱擁(ハグ)と接吻(キッス)っつーのが相場やで? そないなもんはな、神話創生の昔っから決まっとろうが」
 「なななななな、何でそうなるの…! ダメダメダメダメ、それだけは絶対ダメー!」
 ゆでだこのように顔を赤らめながら、拳を固く握り締めて大声を張り上げるティーナ。
 アガシに対して力いっぱい、全身でもって徹底的に拒もうとする、そんな彼女の態度がよほどおかしかったのか、彼は身をよじるほどけたけたと笑い転げて大いにウケまくった。
 そしてあまりにも興奮して激しく笑った反動なのか、次第に呼吸をヒーヒーとさせていき、しまいにはうっすらと眦に涙まで浮かべる始末だったのだ。
 「アガシったらっ。ちょっと、もぉ…いいかげんに人をからかうのやめてよ…!」
 もういや、なんでこんなにこの人ってば…!
 ティーナの彼に対するあからさまな拒絶反応が引き金とはいえ、さすがに目の前でずっと人を笑い者の種にされ続けていてはちっとも面白くない。
 ただひたすらむっつりと、横一文字に口を結んだまま憮然とアガシの前に立つティーナ。
 そんな彼女の存在に気付いたアガシは、徐々に笑い声を小さくさせていきつつ、と急にそれまでの態度を改め、「はいはい、自分が悪うございやんした」と両手を挙げて降参のポーズを示した。
 「わあっとる。さっきはわいもせいぜい男らしゅう態度やなかったな。心配せんでええ。ちゃんとカレンとはいつも通りや。仲良ぉするで」
 「…そう。それなら、それでいいんだけども」
 アガシにつられるようにぽつりとそう返してから、何かを思い出しかのように、ティーナはさらに先のセリフに付け足す。
 「あ、あのね。大丈夫よ、カレンも自分が言い過ぎて悪かったってちゃんとわかってるから。だから私からも…ごめんなさい」
 深々と頭を下げてティーナはアガシに謝罪の意を示した。
 するとアガシは「およ?」と最初いぶかしげな表情を作るものの、ふっと唇の端をほころばせてすぐに「まあまあ」と彼女の肩を叩いてそのうつむいていた顔を上げさせた。
 「そこが君のええところなんやな」
 促されるままアガシと向かい合うと、おずおずした目つきで彼の顔色をうかがうティーナ。
 そんな彼女に、アガシはさらに眦を下げ、実にやさしいまなざしを送りながら、そっと首を振って彼女の気持ちを取り成してやるのだった。
 「あんなあ、ティーナ。いくら仲良ぉて親しいっちゅう友達のためとはいえ、あえて損な役回りだのに、進んで仲裁を買って出るたあ、えらい骨のある奴やで。下手にあれこれ動き回ったせいで、もしかすっと、逆にどっちの仲も最悪になりかねない状況かもしらんのにな。そんだけのリスクをあえて承知で引き受ける覚悟があるヤツぁ、そうおらんと思わへんか?」
 小首をかしげてアガシは彼女に同意を求めるが、ティーナは何のことやらわからず、ただほけっと彼の顔を眺めるばかりだった。
 アガシはそんな彼女にかまわず、さらにとんとんと先を続ける。
 「誰だってなあ、自分が嫌な思いをしたり、相手のために奔走した挙句に、いらぬとばっちりをくらって、かえって気まずい思いを味わうなんてとうてい好かんやろ。まして、うちの学校の教育方針は完全に個人主義や。他人に手を貸して手助けすることさえも、それぞれが成長する過程において一切ジャマなもんと切り捨てて、あえて禁止しとるところやで。自分の評価がそれによって下がるかもしれへんのに、見返りも何も求めず、あえて他者に手をさしのべるやさしさを、うんと持っとるんやな。…ティーナ、君は」
 ――え? あ、あれ? それって、ちょっと。い、今あたしのことを言っていたの? アガシは。
 そ、そんな風にいわれると…。
 ティーナはアガシにずいぶんな自分のことを過大評価をされすぎた感があると思うと、恥ずかしさでいっぱいになり、急にいてもたってもいられなくなってしまった。
 あの場の勢いではどうしても自分が一肌脱いででも行動せざるをえなかったこともあるため、全くアガシの言う通り、自ら進んで仲裁の役目を買って出たわけではない故、本当はあまり威張れたものではないのだが…。
 「だって…だって。アガシには…カレンのことでいろいろとお世話になったもの。だから、あたし…」
 「はは、相変わらず義理固いんやな、ティーナは」
 「そ、そんなこと…! あたし、あたし…。ちゃんと心からそう思ってるよ? それに、いやなの。こんなことで、誰かが誰かといがみあったり、仲違いするのは」
 あの時のような、砂をかむような思いは、もうけして味わいたくはないから…。
 ティーナはふと、カレンの怒りを買った図書館での例の件を思い出して、きゅっと唇を引き結んだ。
 そんなティーナの気持ちを知ってか知らずしてか、アガシはふうと表情を崩しながら、少しおどけるような軽口をたたく。
 「ま、それだけやのうて、この際やからもっとわいをうぬぼれさせてくれることをあんさんには言うてもらいたいもんだがな」
 にかっと白い歯を見せて笑うアガシ。だがすぐ、いつになく真剣なまなざしでティーナに向かい、きりりと姿勢を正す。
 「たった一言でええ。それだけでええんや。アンタがその一言をわいのためにだけ捧げてくれはったら、そらもう天にものぼる気持ちで何だってしたる。あの空の星をほしい言うたら、命かけても取ってきたるで。…ティーナ、君のためなら、な」
 アガシは静かに指先をのばすと、ティーナのゆるりとうねる巻き毛に指をかけ、そっと一朔をつまみ取り、自分の口元に当ててやさしく接吻けた。
 普段から何かとあいさつがわりよろしく、肩をたたいてきたり、頭をかいぐりしたり、頬をつねってきたりと盛んに触れ合いを求めてきた彼だったが、今のは何故だか妙に間接的すぎる故に何だか変な気分で、ティーナは胸のどきどきをさらにいっそう激しくさせるのだった。
 「そのハンカチ、な」
 言われてティーナは視線を落とす。いつの間にか自分の胸元でしっかりとそれを握りしめていたのだった。
 「ちゃんと自分でラズリに返すんやで。それだけはいくらティーナの頼みでもいややで。さすがにそこまではわいも面倒みきれへんからな」
 「あ、あ…。う、うん」
 「まあ、わかってても自分の恋敵に塩送るような真似事はしとうないんでな」
 それだけを言うと、アガシは「ほな、わいは先に行っとるで」とティーナをその場に残して去っていった。
 ティーナは目まぐるしく過ぎていった怒涛の洪水のような出来事に、ただひたすらついていけない気分を味わいながら、ラズリから手渡されたハンカチをぎゅっと握りしめるのだった。


** * ** * **



 「週末のテストの結果! もう張り出されてる。今週のトップは誰だと思う?」
 週明け直後の第一日目。全ての授業がつつがなく終了し、ティーナとカレン、それにセレが揃って教室を出ようと席を立つやいなや、ドアがばたんと開け放たれて生徒の一人が飛び込んできた。
 「どうせラズリだろ? 見なくてもわかるさ」
 「しっかし、くやしがるだろうなあ、レガのヤツ。何せどの科目もダントツだろうしさ」
 教室に残った生徒たち同士がわいわいと話しながらそろってぞろぞろと物見遊山の気分で順意表を見に行くそばで、カレンとセレは顔を見合わせて互いにうなづきあうと「自分たちも早く行こう」と言わんばかりにその場をたっと駆け出しかけた。
 だがティーナはそんな二人を見送る側に一人だけなろうというのか、彼女らの後に続いてはいるものの、歩く速度は普段とあまり変わりない。いや、むしろわざと遅れて行こうというのか、のろのろとした牛歩の歩みに近かったのだ。
 「ほらぁ、ティーナったら…! どうしたのよ?」
 カレンがしびれを切らしたらしく、肩越しに振り向いて急かす。
 「ティーナもうんと試験勉強がんばったんでしょ? ね、だもの見に行こうよ」
 続いてセレも促すが、ティーナはそれにも即応じる仕草は見せず、どうにもぐずぐずとした態度をとり続けるばかりだった。
 「いいわよ、二人で先に行ってて。あたしは…別に。どうせまたどんじりに近いんだろうし」
 確かに、皆が口々にしているラズリの首位奪還の現場をこの目でちゃんと確かめたい、という気持ちはティーナにもあった。
 でもそれは同時に、優秀な成績を修めたラズリとの対比で、自分の劣等生ぶりを改めて再認識させられるということが、順位表の下に立つまでもなく、こうしているだけであらかじめわかってしまうのがやるせない事実だった。
 全校生徒の名前が点数付でどどんと張り出される試験順位表は誰にとっても恐怖の対象だったが、例え寝る間も惜しんで試験対策に没頭しても、しょせん自分の成績などたかが知れていた。毎度の如く、どうせみじめな結果に終わるだけなのだから、とりわけティーナにとってそれは見たくない代物だったのだ。
 「そうしょげたことぼやかなくてもいいじゃない。…ほらあ」
 セレはティーナの元に寄ると、どうにも浮かない顔で、気が進まないとでも言いたげな態度を示したままの彼女の腕を強引にひっぱった。
 それにつられるようにして、ティーナは彼女たちと一緒に連れ立って教室を出ると、廊下にずらずらと張り出された試験順位表の下に立った。
 「ちょっと! 信じられる? ラズリの点数! カルヴィン先生の魔法力学応用でどうやったら満点なんて取れるの!」
 「あの先生、やたらこすい問題作ってひっかけるので有名じゃない。今週やった所じゃない、ずっと前に習った例題を突然もってきたりしてさあ」
 「それで出来なかったら、“諸君、ここはとっくに習っていたところですよ? なのにおかしいですね間違うとは”なーんてイヤミたっぷりに答案を返してよこすしねえ…」
 集まった生徒たちの口さがないおしゃべりをかきわけながら、三人は壁に貼られた順位表の中から、まずは何といってもラズリの名前を探し出した。
 何科目もあるというのに、どれにも彼の名前が、しかもほぼ満点かそれに近い点数がその下に書き込まれているのだから、それは誰にとっても驚きを通り越して脅威でもあった。
 「うっわ、ホントだわ。見た見た見た? ティーナ! セレ! ラズリがラズリが、今週はやってくれたわよお…! さすがあたしのラズリね!」
 ここぞとばかりにはしゃぎまくるカレンにティーナは気圧された気分になったが、それでも彼女と同様、ラズリに「おめでとう」と寿ぎを送りたい気持ちは何ら変わりはなかった。
 「やっほ。おぜうさんたち、あいかーらず元気やな」
 「アガシ…!」
 声がかけられたと同時に、ティーナの肩にずしりと腕が、重みとなってのしかかってきた。肩越しに振り返ると、そこには見知った顔があった。
 「ラズリ、今週は首席の座を奪還したようよ。すごいわね、さすがラズリだわ」
 興奮冷めやらぬ様子でカレンがそう告げると、アガシは面白くなさそうにけっと喉の奥を鳴らした。
 「はん、あいつはほっといたってかまへん。どうせ首位独走態勢やろ。そんじゃどーれ、おぜうさん方の名前でも探すかあ。…ん? 何や、カレンもセレもすぐ見つかってしもうてつまらんのぉ」
 二人の名前は真ん中からやや上位に近いところに大体並んでいた。カレンもセレも大抵、平均からちょっと上辺りをいつもうろついており、ほぼ安定した成績を常に修めている優秀な生徒だったのだ。
 「さあて、次はティーナやな。どこいらにおるんや、わいの大事な姫さんは」
 「いやあ、やめて! だめぇアガシ!」
 ティーナの願いむなしく、アガシは額に手をかざし、遠くを眺めるような仕草で横歩きで移動しながら、張り出された成績表の順位を追っていった。
 「おーっと、五十番台百番台通過。まだまだ見つからんなあ。ティーナ、ティーナ…。おー、みっけたでティーナ・アルトゥン。ここにおったかあ」
 アガシが大声を上げてやっと探し当てたティーナの名前を指差す。彼女はほぼどんじりに近いところに、同点多数者として並んだ数名の中に入っていたのだった。
 「…だから、見ないでって…言ったのに」
 大げさな彼の物言いが目立ったせいなのか、周囲にいた数名の生徒たちからすかさず冷笑めいたひそひそ声がもれる。ティーナは注目を浴びたことに今しも消え入りたい気持ちでいっぱいになった。
 すると、そんな彼女の横でカレンが何か言いたいことがあるのか、アガシの腕をちょいちょいとつついた。
 「まあまあ。ちょっとアガシ。あっち見てみてよ」
 「へ? どこや…。お、おー!」
 「…ね? すごいでしょ」
 カレンが示したのは魔法薬学の科目だった。首位にはやはりラズリの名前が堂々と記載されていたが、その七、八名前後、アガシよりちょっと下くらいにティーナの名前が燦然と輝いていたのだった。
 「ティーナはね、入学以来ほぼ十位圏内をキープしたまま。一回も下がったことがないのよ」
 「はー。そりゃすげぇ…」
 しじみと感嘆のためいきをアガシはしぼりだし、ティーナにちらりと視線を送る。
 それに気付いたものの、ティーナは彼に何と返答してよいのやらわからなかった。目をそらしてうつむいたきり、しきりに指で唇をもてあそびながらもじもじした態度を繰り返した。
 こんなあからさまに他人から自分がほめられることなど、ちっとも慣れておらず、どうにもいたたまれない気持ちでいっぱいだったのだ。
 「なーんや、ティーナ…! めでたいんやから、もっと喜びゃええのに、ほら…!」
 そんな彼女の背中をアガシは予告なしで思い切りよくばしっと叩きつけた。あまりにも急なことで、驚いたティーナの口から「きゃっ」と小さな悲鳴がもれる。
 「…ったあ。ちょっとお。アガシったら何するのよ」
 「何ややのうて…! ティーナ、こりゃ一種の才能やで。もっと自信持ったらええやないか。やっぱり能ある鷹は爪隠すっちゅうのはホンマやな。なのになしてそんな小そうなっとる。ほらしゃんと背中伸ばして胸張っとき…!」
 アガシはティーナの肩をぐっとつかんでむりやり背中をそらさせ、背筋をぴんと伸ばした。すると自然に腰が引かれ、胸は前に突き出た格好となる。
 そんな彼女の弓なりに反られた体つきを眺めながら、アガシは愉快げにニヤリとした笑みを唇に浮かべた。
 「…お、小柄な割には意外と大きいんやなティーナ。実にわい好みのええ乳しとるでぇ」
 「アガシ…!」
 思わず胸に両手を当てて、彼に視姦されないよう防御の体勢を取るティーナ。
 まったくもう、油断も隙もありゃしないんだからっ。
 憤慨やるかたなし、といった風情でアガシをうんとにらみつけるそばで、セレは二人のやり取りにはさほど取り合わず、のほほんと先ほどの話題を続ける。
 「特に今回はティーナ、本当にすごいじゃない。今までの試験の中でも最高点取ってるでしょ? めちゃめちゃ難しい問題出てたのにねえ」
 「そ、そんなこと、ないもん。たまたま家でずっと育てている草のこととかがいっぱい出題されただけだから、それでみんなわかったようなもので」
 「…は? 家で? ティーナの家にはおっきな温室でもあるんか? 問題に出ていたやつみんな、熱帯のでしか育たない植物だぜ。温度管理もそうやけど、えらく栽培方法が特殊やゆうて、一般家庭で育てるのはめっちゃむつかしいはずやろ」
 驚いて目を丸くするアガシに向かって「あら、知らなかったの?」とでも言いたげな視線をカレンは送った。
 「アルトゥン家といえば代々王室付きの薬師の家系よ。ほら、覚えてない? ついこの間もご病気がちの国王陛下が大きな発作を起こした際に、名だたる魔法医やら薬師やらで医療チームが組まれて全力で治療に当たられて無事、ご回復されたじゃない。その時の取りまとめ役も務めたらしいわよ、ティーナのお父さまがね。新聞にも大きく取り上げられていたし」
 「もう、もう…! カレンったら」
 まるで彼女のことなら何でもござれ、とでも言いたげにぺらぺらと家庭の事情から、好みのものまで朗々と続けるカレンに、これ以上は勘弁してほしいというのか、ティーナは話を中断させた。
 「そんな何でもかんでもアガシに話さなくてもいいでしょ…! カレンったらおしゃべりなんだからっ」
 「ああら、いいじゃない。別に隠すことでもないでしょ、みんな本当のことだもの。それにアガシだって聞いてみたいんじゃないかしら。…ねえ?」
 「そやな。ティーナのことなら何だってわいは知りたいでぇ。中でも特にっ、胸・腰・尻のスリーサイズは重要ポインツやな、うむ」
 「じゃ、それプラス、今日のティーナの下着の色も教えたげようか?」
 「やーめーてー! 何なのよセレまで!」
 絶叫に近い悲鳴を上げて、ティーナは背後からぎゅむっとセレの口を慌ててふさぎ、自分の秘密の漏洩を阻止した。
 一方カレンはそんな彼女たちをよそに「そうよね…。薬草っていう手があったじゃない…」などとぶつぶつつぶやきながら、何やら一人で納得してはうんうんとうなずきを繰り返していた。
 「…えっと。か、カレン…?」
 そんな彼女のただならぬ雰囲気に、どうも嫌な予感が走るティーナだった。
 試験のヤマかけはいつもたいてい外れるのに、こういう時に限ってズバリ的中してしまうのは、何かの法則の結果なのだろうか。
 案の定、カレンは声をかけらてすぐに、くるりとティーナの方を振り向くと、お宝の山を発見した時のようにその瞳をきらきらと輝かせながら、たったいま浮かんだばかりの自身のひらめきを叫ぶのだった。
 「ティーナ、ホレ薬よ!」
 「はあ?」
 「そうよ、そうだわ。いやねえ、もう。ホント、何であたしったらこのことに今まで気がつかなかったのかしら! それがあればこっちのものじゃないの、うっふっふっふっふっ」
 ――まったく、カレンったらいったい何を言い出すのかと思えば…。
 ティーナはあっけにとられ、あきれたと言わんばかりの視線をカレンに送った。
 「ティーナだったらなんとかできるでしょう? ねえ、ちょっと作ってみてよ、お願いだから」
 期待に満ちたまなざしでカレンは自身の両手を合わせてティーナに頼み込んで頭を下げた。
 「わあ、楽しそう、それ。何だかすっごくおもしろそうね」
 「そやな、完成したらぜひわいの分も頼んでもええか?」
 次々とセレやアガシまでカレンに便乗してくる始末。ティーナはあっちからもこっちからもやいのやいのと言われると、さすがに困ってしまって、やれやれという気分でふうと吐息をついた。
 「…そ、そりゃあ。材料さえ揃えられれば、そんなにむつかしい調合じゃなかったと思う。…けど」
 恋なすびともいわれるマンドラゴラの根を雌雄一対。
 ゴオウ、睾丸乾燥末、人参、山薬、ノコギリヤシ…。
 ティーナの脳裏には次々に、薬の材料となる生薬だのの名前がよぎっていった。
 手順は大体、どんな薬の調合でもみな同じ。材料を全て細かく刻んで、乳鉢でひとつひとつ丁寧に乳棒ですりつぶしながら、さらに粉末になるまでそれらをゆっくり混ぜ込んでいく。
 それでほぼ完成ではあるが、さらに通常よりも薬の効果を長引かせたいなら、この場合は自身のまつげを三本抜いて入れ、月の光に一晩当ててから、朝一番に見た葉っぱについている露を一滴入れると、とっても最適。
 そんなことが確か、父親の本棚にあった古い魔法薬のテキストに書いてあったはず。まだ一度もこれを実際に作ったことはないけれど、手順通りに事を進めれば、まず間違うことはないだろう。その本に書かれた別の薬ならティーナは何度か腕だめしにと作ってみたことがあるのだが、ほぼどれも成功していたものだばかりだったので。
 ――だけど。
 「でも…。あたしはそういうの、なんだかいやだな」
 やるせない口調でぽつりと口に出すと、三人の視線が一気に彼女に集中した。
 「だって…。薬に頼ってその人の気持ちを自分に向けさせようとするのよ? たとえ効き目があって、好きな人から好きだって言われたとしても、それはただ薬の力で偽っているだけで、けっして本心からじゃないもの。それに、薬が切れたらたちまち元に戻ってしまうし。それって嘘をついてだましたみたいで…あたしはすごくいやだわ。心から大好きな人なのに、自分のエゴが先走ったばっかりに、嫌な目に遭わせちゃうなんてひどいよ、ひどすぎる…」
 ゆっくりと三人の顔を交互に眺め渡しながら、念を押すように言い含めるティーナ。
 そんな彼女にカレンもセレも思い直したようにうんうんとうなづくと、「わかったわ。もう言わない」と彼女の気持ちを尊重する方向に意見を修正させていくのだった。
 「ティーナのいいところ、また一個みっけ」
 にっと笑ってアガシはティーナの頬をつついた。またしても唐突すぎたために、びくりとティーナは反応を示し、「んもぉ、また?」と彼をじと目で軽くにらみつけた。
 だがアガシはそんな彼女の文句なぞ一切受付けず、そのまま勢いにのって後ろからがしっと彼女の肩に抱きついて、羽交い絞めにするとだーっと早口でまくしたてはじめた。
 「いや、今日はホンマ、恐ろしいくらいにわいはツイとる…! なんかもぉ、今すぐアンタをこの場で一気に押し倒してやりたいくらいや」
 さらにアガシは興奮しすぎたあまりに箍が外れたらしく、そのまま「んーっ」と彼女の頬に自分の唇を寄せていこうとする。
 「いやーっ! ちょっと待ってアガシ! それはダメだったらーーーーッ!!」
 さすがに公衆の面前でそれはちょっと、というよりも確実にティーナは自身の貞操の危機を感じたらしく、思い切り身体をねじって必死の抵抗を試み、やっとのことで彼の腕の束縛から逃げきるのだった。
 「なーんや。ティーナもいけずやなあ。わいのこのあっつい想いのこもったベーゼを受け取ってくれへんのかいな」
 「い、いいいいい、いいわよアガシ。ごめんなさい、遠慮しとくわっ。き、気持ちは嬉しいけど、どうかそれだけはぜったいやめてってばっ。お願いだから勘弁して…!」
 ちぇっと軽く指を鳴らしてしごく残念がるアガシのそばで、ティーナは一人ぜえはあと息を荒げながらぶんぶんと首を振り立てて、きっぱりと断りを入れた。
 そんな二人のかけあいをカレンやセレをはじめ、周囲にいた生徒たちはにやにやしながら、果たしてこれからどこまで楽しませてくれるのかと、その行く末を温かく見守るように眺めていたが、
 「おい、アガシいいかげんにしろよ」
 突如現れた一人の生徒からの横やりによって、その場の雰囲気ははガラリと変わったのだった。
 「…ったく。バカをやるのもたいがいにしないか。ここが校内だってこと、まさか忘れてるんじゃないだろうな」
 「おー。これはこれは、王立魔法学院史上きってのカリスマ大天才さまじゃあーりませんか。おーいえー。やったな、ラズリ。おめでとさん。今週の試験は全科目首席奪還やで」
 アガシがニヤリと笑みを浮かべながら、わざとらしくうやうやしげに腕を前に折りつつ腰を落として頭を下げるが、ラズリはそれを鼻白んだ顔をして「よく言うよ」と冷ややかに返した。
 「おべんちゃらはけっこうさ、アガシ。それよりもあんまり騒ぎを起こしてくれるなよ。君だけならともかく、同室のおれまでとんだとばっちりをくらって迷惑なぞかけられたら、それこそたまったものじゃないからな」
 「はんっ。こぉんの、ど阿保ぉ。わいがそんなヘマするかってんだ。しっしっ。あっち行きよし。せっかくかわええ、わいのおひいさんと束の間の逢瀬を楽しんどるんやから水さすなっちゅーの」
 「お、逢瀬なんかぜんっぜん楽しんでないです…!」
 珍しくティーナの方が勢いこんでアガシのセリフを否定する。
 だが、声を張り上げたそばから、その声の大きさに自身でも驚いてしまい、思わず口を両手でふさぎ、慌ててラズリからばっと視線をそらした。
 「…まあ、どっちでもいいさ。おまえに言われなくても部屋に帰るよ。それにアガシ、君もだぞ。女の子といちゃつくのはいいけど、夕食の点呼までには部屋に戻っていろよ。今日はおれが当番なんだからな」
 「うっせ。おまえに言われんでもわーっとるわい」
 んべっと舌を出して追い払う仕草を見せると、ラズリはまいったなという顔でふっと肩をすくめた。
 「えっと…ティーナ?」
 アガシの背後でいたたまれない表情をその顔に浮かべていた彼女の名前をラズリが呼ぶ。
 とたん、ティーナは稀に見る激しい動揺に襲われたが、なるべく素知らぬフリを決め込んで口をきゅっと引き結んでいた。
 そんなティーナの胸の内の事情などまったくおかまいなしに、ラズリは「いいかい?」とアガシを指差しながら先を続ける。
 「この男は歴代稀に見る女タラシだからね。本気になったら君の方が泣く羽目になるよ。それだけは先に忠告しといてあげよう。同室の自分が言うんだから、まず間違いないさ」
 「あ、なんやそれ…! ラズリ、そないな余計なことなぞ吹き込まんでええわい! わいら親友やないかっ。人の恋路を邪魔せんときっ」
 「おーおー。なーにが親友だよ、こういう時ばっかり人をそういうくくり方しやがっておまえは」
 ぱこん。ラズリは持っていたルーズリーフのファイルでアガシの頭を軽く叩いて、笑い飛ばしながらその場を後にした。
 …ああ、また。やっぱり、渡し、そびれちゃったかぁ。
 ティーナは彼が廊下を曲がり、完全に視界から見えなくなるまで故意に目をそらしていたが、それでもラズリが現れてからずっと、制服のスカートの右ポケットの中に入れていたもののことがしきりに頭によぎり、彼に声をかけなくてはとずっと気をもんでいたのだった。
 ラズリが貸してくれた、ハンカチ。
 彼から自分によこしてきたあの洗いざらしの綿のハンカチを、ティーナはちゃんと心をこめて手洗いで洗濯していた。
 お日様の下でよく干した後、きっちりしわをのばしてアイロンをかけ、ちょうどよく入る大きさの紙袋に入れてずっとポケットの中にしまいこんでいたのだった。
 “あの、これどうもありがとう、ラズリ”
 そうお礼を言いながら、ちゃんと彼の顔を見て自分で手渡すんだと、何度も何度も頭の中でくりかえした。そしてしまいには、みんなが寝静まった後にベッドの上で一人予行練習までしていたこともあったのだ。
 だが、いざ校内でラズリの姿を見かけるたび、何故か声をかける勇気が奮えず、さっきのように全てタイミングを逃してばかり。
 早く返そう返そうと思いつつも、未だそれは成就せず、とうとう週をまたいでしまい、練習していたセリフの末尾に“遅くなって本当にごめんなさい”という一言を付け足さなくてはならない始末だったのだ。
 「…こら、ティーナ」
 ティーナが自分の不甲斐なさを責めるようにためいきをつくそばで、ぽんっとアガシがその頭を軽くこづいた。
 「よりによってラズリの前でよくもわいの気持ちを完全否定してくれたな。…ん?」
 「え、ええっと。そ、そういうつもりじゃあなかったんだけど…。だって、そんな」
 「まあ、ええで。そないなことはじめっから百も承知やからな、自分。しっかし、さすがにあれはあれでこたえたで。わいの心はおもきしブロークンハートや」
 いつものおふざけが入り混じった口調ではあったが、どことなしに声の調子に張りや勢いが欠けてたのは気のせいだろうか。
 「…でもな。わいはあきらめへんで。ティーナも、もちろんラズリのことも、な」
 ――は? 
 ラズリも、ってどういう…?
 彼が何を言わんとしているのか見当もつかず、ティーナはアガシに問いかけの意味をこめて首をかしげて見せるが、アガシにしては珍しくそれにはきちんととりあわなかった。 
 ただ相変わらず、何か腹に一物あるかのような、例の悪戯小僧の瞳で、ただにかにかとした笑みを唇の端に浮かべているだけだったのだ。

「なーんや。ここにおったんかラズリ。てっきりあれから図書館でも行っとると思うとったがな」 
 アガシが寮の自室に戻ると、ラズリが自分の机に向かって熱心にテキストやノートを広げ自学自習している様が彼の目に映った。
 「感心やな。おまえはささやかな勝利にも酔わないのか」
 半ば皮肉たっぷりにアガシがラズリの机の横に立つと、ラズリは彼の方を振り向きもせず「あんなところにいたら、うるさくてかなわないよ」と鉛筆をひたすら走らせながらぼやいた。
 「いつもならそうでもないんだろうけど、さっきちょうど試験の順位が張り出されたばかりだからね。何かと目立ってしまうだろ、どこにいたって。まあ、何でもいいから放っておいてほしいね。時間がないんだ、とにかく」
 自分に残された執行猶予期間。それは、そう長くはない。
 成人に達するとされている年齢の十八まであと少し。ほんの二年しかないのに、果たしてこのたったひとつの願いは本当に成就されるのだろうか…?
 そう思うと、ラズリはもう気が気でもなくて、そんな不安をまぎらわすためにも、ひたすら勉強に打ち込むしかやっていられなかった。
 「…なるほどな。それで“非生産性”か」
 アガシが冷ややかにぼそりとつぶやくと、そこでようやくラズリは机から顔を上げて彼の方を向いた。
 「…あれ。もしかして見ていたのか? 君も。…ったく、ティーナといい、本当にいい趣味じゃないねまったく」
 「べーつに。出歯亀がシュミなわけないやろ。聞きたくなくとも聞こえてきはったんや。あの時、わいは裏庭のハンの木の上におったさかいな」
 「へ…え。君に木登りの習性があったとはねえ。それはまた意外だな。砂漠の民の出にしては珍しいんじゃないか?」
 「うっせ。あそこはわいの定位置や。入学以来、ずっとな。それをおまえが知らんゆーてもわいには関係ないで」
 「わかった。じゃあ、これからはちゃんと気をつけるさ。裏庭では木の上に人がいないこともよくよく確認してから、ナイショ話をはじめるとしよう」
 ラズリはそこで再びアガシから視線を外すと、また机の方に顔を戻した。それは彼に、これ以上会話を振ってこられないようにする無言の主張でもあった。
 だがそんなラズリの思惑などどこ吹く風といった具合に、アガシはさらに自分のベッドの上にどっかりと腰を下ろすと、さらに先の話を蒸し返し始めるのだった。
 「…それにしても、タリアもかわいそうにな。今度のテストの順位見たか。どの科目もまんべんなく十位以内には必ず入っていたはずやのに、百番近くも下がってほんまにガタガタやん。あれじゃあ教授陣からお目玉くらうばかりか、下手したら徹底した学力指導が入るだろうよ。おまえがあんな無碍な断り方をしたせいやで? ちったあ責任感じておとなしく反省しいや」
 「まったく、君らという人種は…」
 沈痛な面持ちでラズリはためいきをしぼりだし、再び机から顔を上げて、今度は体ごとアガシの方を向いた。
 「何かというと、どうしてそうすぐ、色恋沙汰の方向に走ろうとするのかな。僕には心底わかりかねるね」
 「ま、そうやろな。朴念仁のおまえにゃ到底わからんよ。…人が人を無性に恋いうる気持ちなんざ、特にな」
 アガシは少し目を伏せ、どこか遠くを見るような思いでぼそりとつぶやいた。
 しかしそれも、すぐにふっきるかのように勢いこみ、ラズリに「あらかじめ言っておくが」と前置きを入れた上で、また話を切り出していく。
 「ええか? くれぐれも、ティーナだけは泣かせるなよ。それだけは、おまえでもわかっとるやろうな」
 「ティーナ…? ああ、例の人間信号機か」
 先日の裏庭での出来事を思い出したせいなのか、ラズリは急にぷっとふきだした。
 「おい、何がおかしい」
 「失敬。別に他意はない。そう熱くなるなよ」
 ティーナの名前が出てきたとたん、アガシの態度が目に見えて豹変したことにラズリは「おや」と気付き、さっと持ち前の自慢の頭脳をフル回転させて「なるほど、そういうことか」と合点がいったかのようにうなずいた。
 「…なんだ。いつもの冗談かと思ったら、意外と本気だったんだな、あの子のこと」
 「っだよ、悪いか?」
 ふんっと鼻を鳴らして言い返すアガシに、ラズリは面白がるかのようなそぶりでさらに調子づいて先を続けた。
 「しかしそれにしても…。いや、何でもない気にしないでくれ」
 「ああん? 何やねん。気色悪ぃなあ、おっさん。言いかけてやめるなんざ卑怯やで、それ。わいの耳に都合が悪いことなんやと、めっちゃ疑るで」
 「や、君にしてはずいぶん珍しいシュミだな、と思ってね。ふうん、今はティーナなんだ…。今まで君が追いかけてた女の子たちとはかなりタイプが違うよな」
 ラズリの頭の中をさっと去来するのは、アガシが学院きっての女たらしという異名で呼ばれ頃のことだった。
 泣かせた女は数知れず、彼女を取られたと泣いた男も数知れず。
 ひとたび彼が校内を歩けば、目にとまった女の子たちのハートは片っ端から盗まれていくとひそかにささやかれ、しまいには彼から声をかけられなければ女の子としての魅力はマイナス、だなんて定説まで生まれる始末。
 さすがにそこまでウワサがウワサを呼んでしまうと、それまではたかが生徒間の問題として校風でもある各自の自主性を重んじ、目こぼしをしてきた学院側も黙ってはおれなかった。
 アガシを呼び出して直々に教育的指導を施し、これ以上問題を起こすようであれば、奨学生としての資格剥奪とまで彼の弱みをちらつかせた後、やっと表面上を沈静化させた、という経緯まであったのだ。
 「ほら、一学年上のリノリスや、学院のクィーンに選ばれたミカルみたいな? 美人でグラマーで気が強い子が好みじゃなかったかい? だからさ。あんなちっともさえない、ティーナなんかにご執心だとは思わなかったよ」
 「ほっとけ。どうせおまえに理解してもらおうだなんて思っとらんわい。おまえにゃせいぜいわからんよ、彼女のいいところなんて何もな」
 「ふうん。ま、蓼食う虫も好き好きって言うからね。おれにはたかが落ちこぼれにしか見えないけど」
 「たかが、落ちこぼれ…? おまえは彼女のどこを見てそう言えるんや?」
 ラズリの心無い物言いにさすがのアガシもむっとしたらしく、少し身を入れて話しだし、言葉に棘を含ませた。
 「魔法薬学の試験の順位、おまえは見とらんのか? 彼女は八位、取っていたんやで」
 「ふうん、そうなんだ。気がつかなかったよ。五位くらいまでしかいつも見ないからさ」
 「聞いたら彼女、薬師の家系なんやてな。しかも王室づきの。それでもうんと努力してがんばっとると思わへんか?」
 「へ、え…。でも他はどうせ殿じゃないか。しょせんまぐれだろ、たまたまテストのヤマかけたら当たったか何かで。たとえ一教科がどんなに優れていたって平均してダメだったら、しょせん無駄なあがきにすぎないんだし」
 「…おい、ラズリ。いいかげんにしろよな。そういうこと平気で言うようなイカレた奴だったか? おまえ」
 低い声音でぎろりとにらみをきかす、アガシ。
 「そんなんやから、きっとおまえはいつまでたっても空が飛べへんのとちゃうか?」
 続けてぴしゃりとアガシ言い放つと、ラズリの全身に動揺が走った。それまでのアガシに示していたふてぶてしいまでの不遜な態度とは明らかに異なり、何かに怯えるかのような不穏な魂の色をその瞳に宿らせる。
 「わいは、知っとるで。今でこそ全教科首席で名が通っとるかもしれんがな、おまえ魔法飛行術学の科目、学科と演習の両方で落としたやろおととし。学科は追試を受けてかろうじて通ったと思うが、演習はとうとう及第できへんかったやろ。そんで結局、別の科目で単位を振り替えたんだよな。…なんで自分、あれがうまくいかなかったか、わかっとんのか?」
 ラズリはアガシに一方的に言われるがままになり、じっと黙していた。黙って、何かを耐えるような面差しで、つとめて感情を表に出さないよう、ひたすら気を配っていた。
 ――父王からの叱責をその身に浴びた時のように。
 「今のおまえには彼女が良さなんてちぃともわからへんやろ。そうやって自分以外の何者をも認めようとしないから、心閉ざして見えるものすらけして見ようとしないから、人の気持ちなんざ気付こうともしないんや。自分かわいがるのもたいがいにしぃや。心が傷ついてかわいそうなのは、おまえだけの特権やないんやで…!」
 がたん。突然ラズリはいきおいよく椅子から立ち上がり、教科書やノートやらの類と筆記具を片しはじめた。そして手際よく作業をすませると、やおらそれらを小脇に抱えて黙って出入り口のドアを目指すのだった。
 「お、おい。逃げるのかよ…! おい、待てよラズリ!」
 部屋を出て行こうとするラズリの後姿を追いかけるべく、アガシはベッドから跳ね起きた。
 そして室内を大股で渡り歩き、彼の肩にぐいと手をかける。
 だがそれも束の間、ラズリは身をねじってアガシの手を即座に払いのけた。
 「ラズリ…」
 「ここもどうやら勉強に集中できそうにない環境らしいな」
 いかにもうんざりだ、とでも言いたげにいまいましげに舌打ちをひとつ。
 「仕方がないから、一人になれるところを探して自習しているよ。夕食の時間までには戻る。舎監の先生が見えたらそう言っておいてくれ」
 「ラズリ、おまえ…!」
 「悪いが。君と議論している暇なんざ僕にはないんだ。無駄口をたたいているこの一分一秒だって惜しいくらいさ、本当に」
 そんな台詞をはき捨てるかのように残すと、ラズリはアガシに背を向けて、さっさとドアを開けて外に出て行ってしまうのだった。
 「…ったく、あのヤロー」
 一人、部屋にはぽつりと取り残されたアガシは、固く閉められたドアをいまいましげな表情で眺めながら歯をきりりと噛みしめた。
 「何でもええからわいに言い返してこんか、ラズリ…! そして全部、何もかも吐き出しちまいやがれっ」
 アガシは腹立ちまぎれにラズリのベッドの足を思い切りよくがっと蹴っ飛ばした。
 「あんの、どアホぉが…」
 つぶやくアガシの脳裏につと浮かぶのは、ラズリの寝姿だった。
 誰しもが静かに寝入っているはずの深夜、度々ひどく彼はうなされては、大きな声で叫ぶのをアガシはしばしば目の当たりにしていたのだ。
 断末魔に近い、とても尋常とは思えぬ彼の悲痛な叫び声。それが耳に届いてすぐにアガシは目覚め、ベッドから飛び起きると、ラズリを強く揺り起こした。息を荒げながらまぶたを開けたラズリに、「大丈夫か」と声をかけ、なんなら医務室に行くか舎監の先生を呼んでこようかと気遣いを見せるが、彼はきまってそれを頑なに拒み続けていたのだった。
 大抵、「単に夢見が悪かっただけだよ。本当になんでもないんだ…。寝ているところを起こして悪かったな。迷惑をかけた」と深々と頭を下げるばかり。「それでも…」とためらいを見せる彼をよそに、弱々しい笑みを浮かべながら自分ももう一眠りするから、アガシも自分のベッドに戻るよう示唆するのが常だったのだ。
 空を飛ぶ鳥さえも、地を這う獣すらも、水を泳ぐ魚たちも、それぞれが自身の寝所を持ち、身体をいたわるためにいっときの休息を必要とする。それは人にだって誰だって、等しく備わった生物の正しい姿に相違ない。
 だのに、ラズリ。そんなおまえの安らかな眠りすらも脅かすものは、一体なんだってんだ。
 それほどまでにも自身でも処理しきれないほどの大きな闇を抱えて、それをいつまで一人で背負うとするのか。
 「――ったく、ラズリのクソったれめ!」
 アガシは勢いにまかせて、横の壁をどんっと拳でたたきつけた。 持て余すばかりで、どこにも捨て場のない、自身の鬱屈を吐き出すかのように。

** * ** * **


 ラズリは教科書の類を持つと、まっすぐ図書館隣りの自習室へ足を向けていたが、ふと思い直して方向転換し、旧校舎から時計塔へと続く階段室に入っていった。
 とんとんと小刻みにリズムをつけて階段を上っていき、やがて踊り場付近までやってくると、すとんと階段部分に腰をかけ、教科書の類を傍らに置き、窓の外を眺める。
 床上から天井近くまで一面に大きくしつらえられた窓の外には、今しも夕陽が山の端に沈もうとしていたところだった。
 学院の敷地を囲む高い塀も、その外に広がる田畑や屋敷森、はたまたあちこちに点在する野生の蓮が自生する沼地も、その全てが赤銅(あかがね)色に染まっている。
 ――美しい、風景だった。
 ここロータス地方の独特な景観が織り成す素晴らしいパノラマ。それにいっとき目を奪われながらも、ラズリの心は全く別のことで占有され、ちっとも気が晴れやかではなかったのだ。
 “…おまえは十八になり、成人した暁には私の跡を継ぎ、王となるのだ。それはけして変わらんのだ、今後何があろうとも。あの学校を卒業したとて、魔法使いになどなることはけして許さん。”
 先日の父王からの厳しい叱責が何度も繰り返し思い出され、耳に残る声がつんざかんばかりにわんわんと鳴り響く。
 …わかってる、わかってるさ、ちきしょう。
 ラズリは幾度となく頭をかばり振って、目の前にちらつく父王の影を必死になって打ち消した。
 そんなことなど百も承知でこの学院に入ったのだ。ただ唯一の希み、願い、それさえが叶えられたら、何もかも未練なぞない。
 父の望むように、母の期待通りに、周囲の思惑通りに。
 金の冠を頭上に被り、銀の刺繍が縫い取られた衣を身にまとい、天上の天なる名前を抱いたこの国を背負って王となろう。
 それが決められた我が道、宿命というのなら、望外の喜びとして受け入れることだってできる。何しろそのように徹底してラズリは教育を施されたのだから、物心つくかつかない頃の幼い砌に。
 “――そんなんやから、おまえはいつまでたっても空が飛べへんのとちゃうか”
 彼の耳によみがえる先のアガシのセリフ……。
 本当にこのまま、空が飛べなかったら――。
 ラズリはわきあがってくるそんな不安を一掃するかのように、慌てて自身の耳を両手でふさいだ。
 「そこにいるのはだあれ…?」
 かつん。ヒールの高い靴音で階段を鳴らしながら上がってくる存在があった。ラズリはハッと我に返って慌てて立ち上がる。
 声の聞こえた方向に視線を向けると、だんだんと自分に近づいてきていたのは、プラチナ・ブロンドの巻き髪をこれみよがしにかきあげる白衣に身を包んだ女性だった。
 「あらあ。あなたラズリ、ラズリ・マーヴィじゃない? どうしたのお? そんなところで。年代的には早すぎやしないかしら、一人で黄昏るなんて」
 「ミランダ…せんせい…?」
 ラズリは少し驚いて彼女の顔をまじまじと眺め入った。
 ミランダ・オースティン。この学院の養護教諭を務める彼女は、第一線を退いた高名な老齢の魔法使いが名を連ねる教師陣の中では、際立って目立つ存在だった。
 金髪、碧眼、丹精な容貌。整った面立ちにほどこされた念入りな化粧はさらに彼女の見目を美しく引き立てた。
 豊満なバストと引き締まったウェスト、形のよいヒップ。それらを何ら惜しげもなくさらすかのような、体格がはっきりとわかる服装を好むためか、そのスタイルから特に男子生徒からの人気がすこぶる高く、ひそかに憧れを抱いている者も校内では数多かったのだ。
 「ふふふ、ずいぶんシリアスな顔しちゃって。ひょっとして悩み事? それだったら先生が聞いてあげてもよくってよ…?」
 「いいえ、何でも。…何でもありませんよ、先生。特に問題ないですから」
 ラズリはとっさにいつもの優等生然とした態度を取り繕うと、ミランダの言及を涼しい顔してさらりとかわす。
 なんとなく今は誰とも口を利きたくない気分だった。ましてや目の前に現れたのが彼女だったからこそ、余計だったかもしれない。
 ミランダは学院の大多数の男子生徒からの人気を集める教師の一人ではあったが、ラズリにはどうも彼女の必要以上に華美な雰囲気がなじめず、普段からあまり彼女と関わりを持ちたくないと思っていたのだった。
 「あらあら、まあまあ。その顔は何でもないって風には見えないわねえ。あたくしはこの学院の生徒の健康管理を一手に引き受けている責任者よ? こと心と身体のことに関してのことだったら、あたくしの専門ですもの」
 だがミランダはそんな彼の心情などどこ吹く風、といった風情で大げさなほどにこやかな表情を示しながら、さらにラズリとの距離の間合いを詰めていった。
 もともとラズリよりもいくぶん背丈がある上に、かかとの高いパンプスを履いた彼女が彼の前に立つと、どことなしに上から見下ろす格好となる。
 その上、ラズリの目の前にはどーんと豊かな二つの山の盛り上がりが自然と目に入ってくるのだ。白衣姿とはいえ、留めたボタンが今しもはちきれんばかりのボリュウムの大きさに、さすがのラズリも直視できず、やや不自然に視線をそらせた。
 そんな彼の動揺ぶりが手に取るように伝わってくるのをミランダは半ば面白がるかのような素振りで、さらに大胆にも接近を試み、その頤に指をかけてむりやり自分の方を向かせると、何やら艶めいた吐息とともにひそかにささやく。
 「ううん、いいのよ。そんな遠慮なんてしないで。さあ…君のもやもやしている胸の内を…どうぞ先生に打ち明けて…? 大丈夫よ…秘密は、必ず守るわ」
 ミランダはさらに両手でラズリの頬を包み込むと、細く長い指先をくねらしながらゆっくりと彼の肌の表面をなぞっていった。
 「ふふふふ。そうよ…いい子ね。存分にリラックスして完全に心を開放すればいい…。そして全て包み隠さず、何もかもをあたくしにさしだしなさい…。ラズリ――ラズウェルト?」
 「せ…せん…せい?」
 ミランダの髪の香りだろうか。甘く、心くすぐるアロマがラズリの鼻腔深く入り込むと、やがてそこから全身に回り出し、どことなく重く気だるい気分に支配されて力が抜けていき、意識をかすれさせた。
 甘い――甘い香り。むせるほどの香気。充満する匂いの中でぐずぐずと、プディングのように触れただけでとろける心地よさで、ラズリはまぶたをしだいに閉じていった。
 「さあ、いらっしゃいなラズリ。あたくしの…一番深い場所にあなたを連れていってあげる…。もう何も、何も苦しまなくていいの。なあんにも…怖いことなんてないのよ? ほぉら、安らかにおやすみなさい…ラズリ。そうよ、そう。ずっと永遠にね……」
 その時だった。ぱちっ。小さな火花を散らしてラズリの首元まで伸びていた彼女の指が急に何か強い力ではじかれたのだった。
 「――った!」
 短い悲鳴を上げて彼女は反射的に手を引っ込めると、ラズリの胸元できらりと光る存在が自分の視界に飛び込んできた。 
 「…守り石?」
 「あ…」
 ラズリはハッと我に返り、慌てて胸元に手をやった。
 手のひらの中に触れる固い物体。少し冷たい感触が伝わるそれは、手のひらにすっぽりとくるまれる大きさで荒削りに形を整えられただけの自然石だった。
 ラズリはその石を針金製の網のような物の中に収め、針金部位に茶色の皮ひもを通して首からいつも下げていたのだった。
 しかしその石は今や普段の無色透明ではなく、何か信号を発するかのようにうっすらと光を放っていた。
 オパールにも似たその輝きは様々な色が交じり合い、虹のようなきらめきを放ちながら、しばらく明滅を繰り返していたが、やがてスイッチが切られたかのようにぱたりとやむと、また元の無色透明なただの自然石に戻ってしまった。
 今のは…いったい、なんだったんだ? まさかそんな…先生が、どうして。
 ラズリはくらくらする頭をかばり振って、混乱する思考をどうにかとりまとめようと意識を強く持ち直した。
 自身の態勢を整えようとしていた彼をよそに、ミランダはいつにも増して冷ややかな微笑を浮かべると、まるで独り言のようにぼそぼそしたつぶやきを重ねていく。
 「ずいぶん強力なまじないをほどこしていそうね。確かにそれならあなたの身を守ってくれるでしょうに。――」
 似つかわしくない舌打ちを一つして、彼女はさらに低い声音で独りごちた。
 「ただの優等生のお坊ちゃんかと思ったら…。ずいぶん手ごわいこと」
 え…? あ、あれ…? 
 あそこにいるのは確かミランダ先生、よね。養護の。
 二人が向かい合っている姿を階段下の時計塔に至る出入り口から目の当たりにしたのは、他でもないティーナだった。
 何とはなしにいつもの癖で夕食前に例の場所で一人呆けてみたくなり、足を向けたのだが、普段なら全くと言っていいほど人気のいないはずの位置に、今日はどうしたことか人の姿がある。
 しかもそっと近づくにつれ、養護教諭のミランダともう一人が互いに向かい合って立っているではないか。
 制服姿から学院の男子生徒の誰かということはわかるが、逆光で判別がよくつかない。ティーナは興味にかられて足音を忍ばせながら、彼の顔を間近でちゃんと見ようと目を凝らしてみると――。
 ら、ラズリ…!
 ちょうど夕陽が雲の陰に隠れたために、いっとき光の洪水がやむ。その時、彼女の視界に飛び込んできたのは、見慣れた彼の横顔だった。
 「――きゃっ!」
 驚いた拍子に、ティーナは思わず足を滑らせて階段を踏み外した。とっさに手すりに向かって手をのばしたものの間に合わず、そのまま体のバランスを崩して十段くらいを転がり落ちていった。
 ずだだだだだんっ。
 観念的ともいえる衝撃音が響き、その音がした方向に慌ててラズリが振り向くと、そこには階段から落ちて床に身を横たえている一人の女生徒の姿があった。
 「お、おい、大丈夫か…!」
 大げさなくらいにラズリは叫び声を上げると、ミランダの元から逃げ去るようにして彼女の元へ駆け寄って行った。
 「――ティーナ…?」
 痛みのためかうめき声を上げている、見知った彼女の姿にラズリは心底驚きの表情を示した。
 「しっかりしろ、ティーナ」
 ラズリはとっさに膝を折り、倒れていた彼女の足と肩に手をかけてそのまますっと身体ごと抱き上げると「とりあえず、医務室に急ごう」と声をかける。
 「ら、ラズリ…?」
 うそ…。そんな…。ラズリが…あ、あたしを?
 ティーナの思考は今しも麻痺寸前だった。
 転んだことで気が動転していた上に、あまりにも予想だにしなかったことが自分の身に起きているのだ。
 全身に感じる痛みのせいでこれは正真正銘、夢ではないことなどよくよくわかってはいるのだが、いかんせんこれまでの流れから、こんな風に自分が彼と関わるとは露とも思わないではないか。
 「ラ、ラズリ。あ、あの下ろして。お願いだから、その。あた、あたし歩ける、一人で」
 「…し。黙って」
 「ラズリ…?」 
 ラズリの腕の中でしきりにじたばたともがくティーナに対し、ラズリは彼女の顔も見ずにそっと声をひそめさせた。
 「悪いけど、おとなしく怪我人として振舞っていてくれ」
 「で、でも…」
 こんな場面を誰か他の生徒に見られでもしたら…。
 多分ゴシップ好きな新聞部の連中らには格好の餌食となり、号外が流れ、学院中によからぬウワサがさんざんばらまかれることだろう。
 それでなくても図書館で起きたカレンとの一件では、ずいぶん話に尾ひれがついて、後々までどうしたこうした、やれ真相はまた違うのだとか、そんなウワサがティーナの耳に絶えず入ってきて嫌な目に遭ったばかりだ。
 だのにそれをこんな堂々と、さも自らから逃げも隠れもできない状況に身を置き、話題を提供する羽目になろうとは…。
 それこそカレンに何の言い訳もできないではないか!
 そんなティーナの心配をよそに、ラズリは実に平気な顔でしれっと彼女に自分の思惑を吐露するのだった。
 「ちょうどこの場に来てくれて助かったよ。君はもしかしたら疫病神なのかと思ったけど、たまには役に立つこともあるんだね」


** * ** * **


 ティーナはラズリに抱きかかえられたまま保健室にやって来た。そして彼らの後に続き、ミランダも入室する。
 彼女はラズリとの一件など何もなかったかのような淡々とした態度でティーナの足に湿布を当てたり、手足についた軽い擦過傷に傷薬を塗り込んだりして存分に手当てを施した。
 あらかた手当てが済んだ頃、使いの生徒が連絡を持って保健室をたずねてきた。職員室からの呼び出しを受けたミランダはその生徒とともに中座して部屋を出て行ったのだった。
 彼女が去った後、その場に残されたティーナとラズリは、特に何を話すこともなく、互いに離れた場所に座っていた。彼女は病人用のベッドの上、彼は普通の背もたれ付の椅子に。
 「――ラズリ、これ」
 しばらく続いた沈黙を破るかのように、ティーナは制服のポケットの中から小さな紙袋を取り出しラズリに「はい」と差し出した。
 彼はイスから立ち上がり、促されるままティーナの元に近づいて彼女からそれを受け取ると、折れていた口を開いて中身をそっと確かめた。
 そこには彼が予想した通り、見慣れた自分のハンカチが入っていた。きちんと四隅を合わせて折りたたまれたそれに彼が気付くなり、ティーナの声がかぶさってきた。
 「あの、あの…あ、ありがとう。と、とっても遅くなっちゃったけど、か、返すね。それから、それ、それね…! ちゃんと手洗いで洗濯して干して乾かしてたたんでアイロンかけたからっ。だから…大丈夫なはず…よ?」
 彼女の声は心なしか震えていた。再びラズリと部屋に二人きりという思いがけないこの状況下にいるためだろうか。緊張するあまり、どうしても落ち着いた会話が成り立たず、妙に上ずったりどもったり、文章のアクセントがおかしなところについていたりと、ティーナ自身でも言いながらその聞き苦しさがわかるほど、実に滑稽で惨憺たるものだった。
 しかしラズリはそんなティーナに対し、しょせんもう慣れたことと思ったのだろう。別段気にもとめずに、袋からハンカチをそっとつまむように持ち上げるとくんと鼻を利かせた。すると、彼女の言った通り、かすかに漂うサボンの香りが彼の鼻腔をくすぐるのだった。
 「ああ、うん。そうだね…。石鹸のにおいがする」
 ラズリはそう言いながらまたハンカチを袋の中にしまいこみ、袋ごと制服のポケットの中につっこんだ。
 とたん、きゅうんと甘酸っぱいような感覚が走り、ティーナは自身の心を切なくさせた。
 たかがそれしき、たったそれだけのことだのに、何故だろうか。彼女の胸は急に早鐘が鳴りはじめたようにしきりと落ち着かなくなってしまったのだ。
 「あそこ…。ラズリもよく行くの?」
 そんなどきどきを紛らわせようとするためか、ティーナは自分から話を切り出してみる。
 時計塔に続く階段室。お気に入りの居場所。そこにラズリが、ミランダ先生と一緒にいたとはいえ、姿を現したのはティーナにとっては何よりも一大事だったのだ。
 「うん…? ああ、そうだな。まあ、そんなしょっちゅうじゃないけど。ちょっとぼんやりしたい時とかにね。…それがどうかした?」
 「う、ううん。あの、あそこ、あたしも気に入ってるところだから。少し次の授業まで時間が空いてたり、なんだか一人になりたかったりすると…ね。よく行っていたの、ずっと。誰も来ない場所だと思っていたのに、ラズリが来ていたからびっくりしちゃって…。だから、ズッコケちゃったのかな」
 ぺろりと舌を出してティーナがいくぶんおどけて笑ってみせると、それにつられたかのようにラズリも顔をほころばせた。
 「ふうん…。そっか、やっぱり誰にでも自分にとって居心地いい場所ってあるんだよな。あと、わかるやつにはわかるしさ」
 そこまで続けたラズリはふっと話を途切れさせ、そしてそれから何かを思い出すかのようにぼそっとつぶやくのだった。
 「――夕陽が、キレイなんだよな」
 「…え」
 「あれ知らない? さっきも見たじゃないか、君も。陽が沈むと踊り場の窓いっぱいに夕焼けが広がるだろ。するとそこいら中が黄金色に染め抜かれて、まるで海の中を漂っているように思わないか? その中に一人で階段に座って外を眺めているとさ、みんな金色に染め抜かれたその中に溶け込んでしまって、自分も風景の一部になったような気がしてくるんだ…」
 「ら、ラズリも…。そう、思った?」
 「も、って? …なんだ君もそう思っていたのか?」
 こくん。無言でティーナはうなずいた。
 急激に上気する頬を抑えもせず、ただ彼の顔をぼおっとした気持ちでじっと見つめながら。
 「うん、わかる…。わかるよ、それ…。あたしも…そう思ってたから。あそこで見る夕陽が、この学校の中で見る風景の中ではいちばんキレイだなって。ずっと…そう、思ってたの」
 夢心地の瞳でぼそぼそとつなげていくと、ティーナは突然視界が一変した錯覚に陥った。
 ティーナがいるのは、あの場所だった。
 時計塔に至る階段室の踊り場付近。階段部分にそっと腰をかけて、ただじっと黙って外を眺めていたのだ。
 頃は彼は誰時、黄昏時。
 床上から天井近くまでしつらえた大きな窓いっぱいに、夕焼けが広がり、そこいら中が黄金色の海に包まれている。
 そして、傍らには彼が、ラズリがいる。
 彼もまた、何も言わずにティーナと同じように階段部分に座り込んで、黙したまま窓の外を眺めているのだった。
 二人は互いの存在に気付いていたのだが、特に何を言うこともなかった。
 同じ風景を一緒に並んで眺めている。ただそれだけでよかった。それ以上に求めるものなど何もなかった。
 同じ時間を過ごし、景色をわかちあい、その美しさがそれぞれの心に伝わっている。
 言葉など交わさずとも、その思いを共感しあえる相手がそばにいることはなんとすばらしいことか…!
 ティーナはふと、今ならば、ラズリとは何でもわかりあえるような気がした。
 あの場所から見る夕焼けとその風景を、ラズリも自分と同じように好んで見に行っていたと知り、とても嬉しくなり、さらにいつもよりも饒舌に語りだすのだった。
 「ラズリに助けてもらったの、これで二度目だね」
 「そうだっけ? おれ何かした? 悪いけど、ぜんぜん覚えてないや」
 くすりと笑ってラズリはティーナの言葉を軽く受け流す。
 「覚えてないってことは、そう大したことではなかったんだろうな」
 「…うん。そ、そうだね。きっと他の人が聞いたら、それはすっごく取るに足りない、すっごくちっぽけで、ささいなこと、だったのかもしれない。でもあたしは、ずっと覚えてる。それに、これからも絶対に忘れないと思う」
 ティーナはふと言葉を途切れさせ、そしてまたなんでもなかったかのようにその先を淡々と続けた。
 「…だって、あたしはあの思い出が――で、とても大切にしたいから、だから」
 一部分だけ、声のトーンを落とす。
 本当はその部分が彼に対しての彼女の本心でもあったのだが、言いかけてそのことに気付いたティーナは、知らず自分でも回避してしまい、どうしてもその一言が言葉にならず口ごもってしまったのだ。
 その結果、ラズリにはティーナの言ったその箇所だけは耳に届かず、とうとう聞き取れなかった。だが、特にそのことに対して彼は気にも留めなかったらしく、そのまま彼女に言及しなかった。
 「そりゃ、ずいぶん酔狂な。君も物好きというか、おかしな性分だね」
 「――悪い? そう思っているだけでも、ダメなの?」
 ちょっとだけむきになったらしく、顔つきを険しくさせるティーナ。ラズリはそんな彼女のちょっとした態度の変化に気付きもせず、肩をすくめて軽くせせら笑う。
 「ま、おれにはその気持ちはとうてい理解できないが。そうだな、できればティーナ、君にお願いしたいことがあるんだ。いいかい?」
 「あ、あたしに…?」
 「頼むから、二度あることは三度ある、にならないようにってね」
 くっとラズリが喉の奥で含み笑いをもらしたちょうどその時、ドアが開いてミランダが帰ってきた。
 それをいかにも待ちかねていたかのようにラズリは姿勢をただすと、彼女に向かって「それじゃ自分はそろそろ…」と一礼して部屋を出て行きかける。
 「あらあ、もう帰るの?」
 「ええ、夕食の点呼当番がありますから」
 「ずいぶん律儀だこと。彼女のことが心配じゃなくて?」
 「申し訳ありませんが。当番をサボタージュするわけにはいきませんので」
 「優等生の発言ね。さすが学年首席の常連さんならではだわ」
 どことなく皮肉めいたことを返してよこすミランダ。ラズリはそれをさらりと受け流すと「恐れ入ります」と小さく頭を下げる。
 「それに先生がついていて下されば自分も安心してお任せできますよ。先生は学院の生徒の健康状態を全て管理されているお立場でいらっしゃるんでしょう?」
 「…まあ。口だけは達者なんだから」
 ミランダがあきれたように言うそばから、ラズリは「では…」とさらに頭を深々とさせて部屋を出て行き、ドアをぱたりと閉めた。
 「さ…て。あのお堅い坊やを口説くにはと」
 ラズリが完全に去ったのを見届けると、ミランダはやれやれと肩を落としてくるりと振り向く。
 その視線の先にはティーナがいた。ミランダには彼女が彼を罠にかけるための体のいい撒き餌か、デコイに相当するようにしか思えなかった。
 確かに直接対決ではあの守り石のせいで分が悪かったけど、こと彼女がらみの頭脳戦ならどうかしら…?
 「ティーナ・アルトゥン…。ふふふ、そうね。あなたにもすこおし協力してもらおうかしら」
 「先生…?」
 「けして悪く思わないちょうだいね。これもあたくしの仕事の内なの」
 にこっ。屈託ない笑みを唇に浮かべながらミランダはティーナの元に近づいていく。
 鮮紅色に彩られた唇が半月を描くようにきゅっとつりあがるやいなや、ミランダはティーナの額にぴっと人差し指を向けて、高速で呪文を唱えつつ、いくつかの古代魔法印を書きこむような仕草をくりかえした。
 高等魔法と古代魔法印の連鎖。
 二重に施された特殊な呪い。
 それは魔法を扱う者にとって、遠い昔に禁じ手とされ、長く封じられていた大掛かりで強力な魔導力の発動でもあった。
 「せ…んせ…?」
 ミランダの声がぼおっとかすんで聞こえてくるにつれ、ティーナは意識をゆるやかに遠のかせていき、ついには何も考えられなくなってしまった。
 そして、手足の力が抜けていくままにまかせて、くてっとベッドの上にその身を横たえさせると、しまいには完全に目を閉じて深い眠りの体勢に入ってしまうのだった。
 「――さて。とりあえず下ごしらえは完成、と。あとは仕上げをごろうじろ、ってね」
 うふふと不敵な笑みを浮かべながらミランダは腕を組んで満足そうに深くうなずく。
 「そう。じっくりと、たっぷりとね。おいしいお料理をいただくなら、手をかけ時間をかけてうんと楽しまなくちゃ」
 既に陽は山の向こうに沈み落ちていた。かろうじて空にとどまる残照が部屋に入り込み、明かりをつけていない室内を暮れなずませる。
 じき夜の闇が支配するほんの手前、薄暮の風景の中に立つミランダ。
 その顔には深く濃く陰影が刻み込まれ、普段の彼女の様相を知る者にはぞっとさせるほど不気味な姿となって目に焼きつくのだった。
 
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アブナイ☆ミランダ先生
「ミランダの魔の手に掛かった、ティーナの身に何が起こったのか?! 乞うご期待!!」
って書き添えたいラストでしたね。

今回アガシがいっぱいお茶目をしてくれて嬉しい限りです。うーん、仲良くなったなあ…この子たち。カレンとアガシの仲直りも「らしい」感じで一段落つきましたね。
それにしても、謎のセクシー美女ミランダさん。しかも保健の先生だなんて……ああ☆
さて、彼女はティーナを使ってどんな風にラズリを陥れようとするのでしょう?
まさか色仕掛け……はないだろうなあ。私の足りないオツムで書ききれるだろうか…。もうやまのさん「続きを願いします」って言いたい!

そうそう、前回書ききれなかったと言っていたセリフが今回入っていましたね。ちょっといい感じのラズリとティーナ。でも二人の仲が深まるのは、まだまだ先って感じですね。それともこのミランダ先生騒動で一気に深まるのか…。
うう~ん
いさな 2006/09/26(Tue)14:54:51 編集
ん~っ まいっちんぐ♪(爆)
 はーい、文字もピンクな感じで(笑)
 今回もいさなさんに(主にアガシを堪能していただいたようで;)楽しんでいただけてホッとしていますvv
 …つか、私がやると何でも大げさになってしまうのかしら;
 でもこれくらいハッキリわかりやすい方がキャラとして動かしやすかろう、とか思って出してみたんですがvv

 ミランダ先生との一件がきっかけで、ラズリとティーナが接近してくれるといいなあ、なんて思っています♪
 きっとティーナのことだから自分のせいでラズリを窮地に立たせることになっていっぱい泣くと思いますが、その流した涙をひとつも無駄にしないで、勇気や希望や未来につなげていってほしいと思います(…昔そんなことを自分の物語で書きましたっけ; 「勇魚」ですね;)

 さて、ミランダはラズリを色仕掛け以外のどんな鬼畜な目に遭わせてくれるのか(爆)乞!ご期待ということで、次回のいさなさん担当週も楽しみにしていま~す!

 いよいよ「起承転結」の「承」の部分に突入、ということでこれから物語がゆっくりと動いていくことになろうかと思います。
 最初にあれこれと大風呂敷を出しまくっているので、さあどうやってたたもうかしらと手ぐすね引いているのですが、私の中ではあんな人がこんなことをやってくれたり、実はこうだったりするのだよ、とかどんどこ進ませたくてとってもワクワクしています!
やまのたかね 2006/09/27(Wed)16:23:26 編集
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