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「ディーン先生、お願いですからやめて下さい! ミランダ先生もっ!」
 まさに一発触発。どちらから戦闘が仕掛けられてもおかしくない状態だった。

 この状況でティーナにできることと言えば、ただひとつ。なんとしても二人を止めることだけだ。
「ティーナ嬢。大丈夫ですから私の傍から離れないで下さい」
 ミランダと対峙したままディーンは告げる。
「でも……! ここはデヴォンシャー家の、こんな騒ぎを起こしてディルナスさまたちにご迷惑を掛けるのは」
「それもそうね」
 ティーナの意見に同意の声を上げたのはミランダだった。腕を上げると、指をひとつ鳴らす。途端、ぱんっと空気が張り詰めた音を立てる。急に高い所へ上昇した時のような圧迫感を耳の奥に感じる。ティーナは堪らず耳を塞いだ。
「ほう、結界ですか」
 ディーンが感心するように呟いた。ふと気づけば周囲の音が消えてしまったことに気づく。風が木の葉を揺らす音も、遠くで鳥が鳴いている声も。何も聞こえない無音の世界に包まれていた。
「これで思う存分やれるってもんじゃない?」
 嬉しそうにミランダは声を弾ませる。そういう意味で言ったわけではないのに。ティーナは二の句を告げずに目を伏せた。ふと足首に暖かな感触がして目をやると、白猫が怯えた様子でティーナに擦り寄っていた。
「おいで」
 手を伸ばすと、滑り込むように白猫はティーナの腕に飛び込んでくる。ごろごろと喉を鳴らす白猫に頬を寄せると、ディーンと対峙しているミランダと瞬間的に目が合った。途端、ミランダはニイッと目を細める。その笑顔にティーナはぞっと悪寒を感じる。腕の中で低い唸り声を聞いた。
「っ、あ………!」
 咄嗟に翳した手のひらに熱が走る。何か起こったのか、すぐに理解できなかった。だが手のひらに走る赤い筋が、じわじわと状況を理解させた。
「ねこ、ちゃん……?」
 ティーナは呆然と白猫を見つめる。
 咄嗟に手で庇ったお陰で首筋に爪が掛かることはなかったものの、手のひらにざっくりと血の筋が走っていた。床に降り立った白猫、いや白猫だったはずの獣は背の毛を逆立てて大きな瞳でティーナを睨みつけている。
 ---逃げなきゃ。
 頭ではわかっている。なのに両の足が床に吸い付いたように、びくとも動いてくれない。目の前の白猫はさっきまでの愛らしい様子は微塵も残っていなかった。まるで猛獣のように口の端からよだれを噴き出し、血走った目を飛び出さんばかりに剥きだしている。さっきまでそこにアガシの意識があったとは信じられないほどの豹変ぶりだった。
「ティーナ!」
 ディーンが危険を知らせるが身動きが取れない。唸りを上げてティーナに再び飛び掛ってきた白猫を呆然と見つめていた。
「何をぼんやりしているのですか?!」
 気がつくとティーナはディーンの腕の中にいた。普通の時なら驚いて顔を真っ赤にするところだが、恐ろしさと驚きのあまり恥じらいを忘れてディーンの上着をぎゅっと握り締める。獲物を仕留め損ねた獣は悔しそうに低く唸ると、再び地面を蹴って跳躍する。
「いやあっ!」
 思わずティーナが目を閉じる前に、ディーンが鋭く短い呪文を放つ。きゃんっと獣は子犬のような悲鳴を上げると、弾かれたように床の上に転がった。獣は起き上がろうともがくが、足が自由に利かないようだ。前足を踏ん張っては倒れ、倒れては起き上がろうと頭を上げるが、すぐに力尽きたように床にへたり込んでしまう。身体の自由を奪われた獣は哀れな声を上げる。
「ちょっとお、せっかくティーナの遊び相手にって思ったのに、邪魔しないでくれないかしら?」
「大切な教え子の友人には相応しくないようなので、こちらから遠慮させてもらいますよ」
「何が『私の教え子よ』。影のくせに」
 面白くなさそうにミランダが指を鳴らすと、獣は瞬時に元の白猫の姿に戻る。驚いたように跳ね起きると一目散に逃げ出した。その姿を見て、ティーナはほっと胸を撫で下ろす。
「仕方ないわねえ、まとめてお相手してあげましょうか?」
 くるくると指先で宙に魔方陣をすばやく描くと、複雑な図形が白く光ってすぐ消えた。直後、明るい色彩に彩られた室内がみるみる灰色に染め上げられる。
 気が付くと、ティーナはとても寂しい場所に立っていた。古典的な模様で描かれた天井絵の代わりに広がるのは、分厚い雲で覆われたような鉛色の空。毛足の長いふかふかとした絨毯は、空の色をさらに濃くしたような黒い大地と化していた。もし、人が死んだらこんな場所にたどり着くのではないか。ふとティーナはそんなことを思った。
「ここは……」
 肩に置かれたディーンの手に力がこもるのを感じた。平静を保ってはいるものの、ディーンの手から緊張感が伝わってくる。ティーナは不安げにディーンの顔を見上げた。
 突然目の前の黒い水面がごぼごぼと泡立ち始めた。次第に泡が人の頭ほど大きくなり、泡は黒い塊となって黒い水滴を散らしながら上へ上へと伸び上がっていく。
「せ、先生…」
 次第にそれはティーナの身長よりも大きくなり、黒い人の形を取り始める。求めるように伸ばされた腕からぼたぼたと黒い雫が滴り、黒く萎びた肌を露出させるが、すぐに肌から玉のような黒い水滴が染み出て再び肌をどろどろを覆い隠す。それはひとつだけではなかった。気がつけばティーナとディーンを取り囲むように黒い人々が増え続けていた。黒い人垣は徐々に感覚を狭めてくる。
「もしかするとここは……」
 泣き声に似た悲鳴が上がる。黒い人々はないはずの口から絶叫を上げ始めた。逃げ道を探そうとティーナは視線を宙へさまよわせる。四方を囲まれ逃げ場がないことはわかっていた。ティーナが救いを求めるように仰いだ空には、黒い巨人となって周囲をすべて暗闇で覆い尽くしていく光景だった。
「じゃあね、お二人さん。さようなら」
 嬉しそうなミランダの声が遠くから聞こえる。だがすぐに貫くような鬼哭がミランダの声をかき消してしまう。もう何も見えない。目を開いているのかもわからない暗闇の中でディーンの声を聞いた。
「もう大丈夫ですよ」
 余裕すら感じる、確信めいた口調だった。その後、ディーンが一体何をしたのかわからなかった。ぱちん、と小さくはぜる音がした途端、目の前で幕が開くように白い光が差し込んだ。あとは実に簡単だった。網目を解くように黒い巨人の姿は、はらりはらりと崩れ去っていく。
「ちょっ、ちょっと、何なのよ!!」
 青ざめた顔をしたミランダが金切り声を上げる。動揺した様子で腕を広げると、ミランダの手のひらに赤く燃える珠が現れた。すぐさま火柱が上がり、まるで生き物のように紅蓮の炎が襲いかかってくる。
「先生っ!」
 こんな事態なのにディーンは一歩も動こうとしない。無防備なディーンを守ろうとティーナは飛び出した。襲い掛かる炎の熱さを想像してティーナは固く目を閉じると自分の悲鳴を人ごとのように聞いていた。
「あ、れ?」
 熱くない。はっと目を開くと、自分の代わりに炎に包まれたミランダの姿が飛び込んできた。悲鳴を上げながら自分にまとわりつく炎を懸命に払いのけている。
「どうして……?」
 事態が飲み込めない。呆然としていると、炎をどうにか消し止めたミランダが、ティーナを険しく睨みつける。
「自慢の髪が焦げちゃったじゃないの!! どうしてくれるのよ!」
「え……、あ、あの」
 ミランダの見事なプラチナブロンドが一房、三分の一くらい焼け焦げて縮れてしまっている。だが不思議なことに、それ以外特に怪我もない様子だ。どうしたらいいかもわからず立ち尽くしているティーナを自分の背後に追いやりながら、ディーンは涼しげに微笑んだ。
「防御こそ最大の攻撃なり、って言葉はご存知ですか?」
「なに勝手に作ってるのよ『攻撃こそ最大の防御なり』でしょうがっ!」
 ヒステリックに叫ぶミランダにディーンは「ああ、なるほど」と頷くが、それがかえって彼女の怒りに火を点けてしまった。
「あたくしの髪を焼いてくれたお礼はたっぷりとしてあげるわ!」
「あなたの魔法。もう利きませんよ」
 好戦的に瞳を輝かせるミランダに素っ気なく告げる。何を言われたのか理解できなかったようだ。ぽかんとしているミランダに追い討ちを掛けるようにディーンは言った。
「いくら魔法を使っても無駄ですよ」
 ディーンの言葉を聞くや否や、ミランダは怒りの声を上げて駆け出した。手を大きく振り上げたミランダの手には細身の短剣が握られていた。ティーナを突き飛ばすと、ディーンは紙一重のところでミランダの剣をやり過ごす。
「あまり剣はお上手ではないようですね」
「大きなお世話っ」
 空振りをして身体のバランスを崩したものの、ミランダはいち速く攻撃の姿勢を取り直し床を蹴った。
「よっ!」
 猫のようなしなやかさで尻餅をついたティーナの元に降り立つと、そのまま馬乗りになって短剣を顎の下に突きつける。
「お姫様をほったらかしなんて、ひどいナイトね」
 ひやりと刃の冷たさを肌に感じて「このまま死ぬんだ」とティーナは悟った。ぶわっと涙が溢れて視界が曇った途端。
「きゃああああ!」
 ミランダの悲鳴と共に身体にのしかかっていた重みが消えた。とにかくミランダから離れなければと、慌てて涙を拭って立ち上がると驚く光景が視界に飛び込んできた。
「猫ちゃん……!」
 ミランダの金色の髪に齧り付き、引き剥がそうとするミランダの手に噛み付いたり引っ掻いたりと大暴れしている。
「猫ちゃん! やめて、こっちへおいで!」
 ティーナはさっきまで自分の身が危うかったことを忘れて叫んだ。思わず駆け寄ろうとするティーナをディーンが制する。
「彼に任せておきなさい」
「でも!」
「本物はここですよ」
 にゃーんとディーンの胸元で甘えた声がする。驚く間もなく白猫はディーンの腕からティーナの胸の中で飛び込んだ。確かに感じる暖かい感触にティーナは目を丸くする。
「じゃあ、あれは?」
 白猫と格闘するミランダを指差した。するとディーンは「私と同じ、影ですよ」と片目を瞑ってみせる。
「痛いっ! 痛いってば!! この畜生!!!」
 闇雲に振り回されるミランダの短剣は、何度も白い毛をかすめるものの空振りばかり。一方白猫の爪はミランダの露出する肌を、まるで爪磨ぎ代わりに引っ掻き回す。
「いやあっやめてよ! やめろって言ってるのがわからないのか、この莫迦ネコ! 離れろっ!!!」
 罵声を上げながら白猫の前足を捕らえると後ろ足で頬や鼻先を蹴り上げられながらも、どうにか丸々とした白い身体を引き剥がす。
「畜生の分際でっ!」
 ミランダは怒りに任せて思い切り投げ付ける。白い身体が宙に弧を描く途中、忽然と消えた。はっとミランダは目を見張る。
「はい、ここまでです」
 傍にいたティーナですら気づかなかった。いつの間にミランダの手に握られた短剣を手刀で叩き落としたディーンは、ぴたりと彼女の額に人差し指を突きつける。
「何よ、何の真似?!」
 じりじりと後ずさりするが、とうとう壁際にまで追い詰められる。険しい視線をミランダは向ける。だがディーンは場違いなほど穏やかに微笑んだ。
「鉄砲って知ってますか?」
「し、知ってるわよ…それくらい」
 それが何よ? と顔を引き攣らせているミランダにディーンはゆっくりと説明を始めた。
「子供騙しみたいな魔法ですよ。と言っても人に向けたら危ないので、単なる子供騙しとは言い切れないのですけどね。鉄砲を打つ音を口真似するだけでいいんです」
 ぐっとディーンは指先に力を込める。ミランダは小さく息を飲むものの、勝気な視線をぶつける。
「そんなちゃちな魔法で脅されるなんて、あたくしも落ちたもんね」
「じゃあ試してみますか?」
 ディーンが発射音を口真似しようと唇を動かすと。
「ばん」
 ディーンが言い終える前にミランダの青ざめた顔が霞のように薄らぎ、忽然と姿を消した。同時に無音だった世界に急に音が戻ってくる。どっと音が押し寄せてくるような錯覚を覚える。
「ミランダ先生?」
 消え失せたミランダの姿を探しながらディーンの元へとティーナは駆ける。
「まさか先生の魔法で……?」
「いえ……私ではありません」
 困惑した表情のディーンの様子は、とても嘘をついているようには思えなかった。
「夢じゃ、ありませんよね?」
 窓から柔らかな風が吹き込んで、ふわりとティーナの波打つ黒髪を揺らす。遠くでさえずる鳥のさえずり。窓から差し込む暖かな日差し。大きな壁時計が時を刻む音。周囲を取り巻くすべてが妙に現実味を感じさせない。
「いえ、ティーナ嬢。恐らく夢などではないはずですが……いまいち私も自信がなくなってきそうです」
 ディーンは額に手をあてて軽いため息をついた。すると、ティーナに抱かれた白猫が「にゃーん」と低く鳴いた。まるでディーンの意見に賛成だと言わんばかりだ。
 背後の扉をノックする音が響いた。びくっと心臓が飛び上がりそうになる。恐らく侍女がお茶を持ってきたのだろう。ここにディーンがいては不味い。
「先生…」
 静かに、とディーンは自分の人差し指をティーナの唇にあてる。わかっていると言うようにディーンは頷くと足早にテラスへ向かった。ディーンが隠れるのを待って、ティーナは「どうぞ」と扉に向かって声を掛ける。
「失礼致します」
 落ち着いた女性の声。扉が開かれると、思った通り侍女頭のマージだった。
「お待たせして申し訳ございません。お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
 マージは一礼すると、カートを押してティーナが座るテーブルへと近づいてきた。
(何もおかしいことなんて、ないよね…)
 なるべくテラスの方を見ないようにティーナは大人しく肘掛椅子に腰を下ろしていた。
「ティーナさま」
「は、はいっ」
 突然マージに話し掛けられて、思わず席から立ち上がった。するとマージは小さく吹き出すと、ころころと笑った。
「あらやだティーナさま、そんなに緊張なさらないでください。ご自宅だと思ってくつろいで下さいね」
「……はい」
 真っ赤に頬を染めてティーナは再び腰を下ろす。ほとんど音を立てず丁寧な手つきでお茶の用意をするマージの手元を眺めていると、ふとあることに気がついた。
「あの…」
「ああこれですね」
 とマージはすぐにティーナが何を言いたいのか理解したようだ。
「お二つ用意するようご指示があったのです。ティーナさまにお付き添いの方がいらっしゃっているからと、ディルナスさまが」
「ディルナスさまが?」
 もしかしてディーンのことを言っているのだろうか? でも、どうしてディルナスさまがそんなことをおっしゃるのだろう。
 二組のカップに琥珀色のお茶が注がれるのを眺めながら、ティーナはこの狐につままれたような奇妙な気持ちだった。


* * * * *


 まだ暗い空には満天の星が散らばっていた。微かにではあるが東の方角の地平線近くの空は、ほんのりと白み始めている。
 もう夜明けは近い。ラズリとアガシは男子学生寮の屋根の上にいた。テラスから上手くよじ上ってしまえば後は楽だった。あまり傾斜が急ではないお陰で屋根の上での移動は簡単だ。足元を見下ろせば目の眩むような光景が嫌でも目に入ってくるが、今の時間では暗くてよくわからない。
 まるで黒い海みたいだ。薄闇に浸された田畑の広がる光景を眺めながらラズリは思った。
「まだ鳥が飛ぶには早いって。やっぱり手頃な野鼠あたりにしときや」
 アガシがあくび交じりに声を掛ける。「ああ」とラズリは曖昧に頷きながら、暗い空を見上げていた。そんなラズリをしばらく見つめていたアガシだが、やれやれとため息をつくと屋根の上に腰を下ろした。
「………ラズリ」
「なに?」
 一拍間を置いてアガシは、
「約束」と、念を押すように呟いた。
「約束?」
 何のことだろうと不思議そうに返すラズリにアガシはずいっと人差し指を向ける。
「あんだけわいに煩く言っとったくせに、もう忘れたなんて言わせへんで。約束、絶対に守れや」
「ああ」
「悔しいけどなあお前に何かあったらティーナが悲しむ。ティーナを悲します奴は赦さへんで」
「わかってる。それに、俺は大丈夫だ」
 ラズリはシャツは黒い外套の上から首に掛けた守り石を握り締める。だがアガシには何のことだかわからないらしく、怪訝そうに眉を寄せた。
「あのな、過剰な自信は命取りやで。まあ自信がないよりはマシやけど…………なんかなあ、おもろないわあ。……何やその嬉しそうな顔は、ああ? そないティーナに会いに行けるのが嬉しいんか」
「別にそういうわけじゃない」
 口では否定するものの、白い月明かりに浮かび上がるラズリの表情は妙に生き生きとしていた。
「……あっそ」
 アガシはふん、と小さく鼻を鳴らす。
 安請け合いなんてするんじゃなかった。まさか本当に一晩で覚えてしまうとは思わなかったと、アガシは今更後悔していた。
 いくらラズリが優秀だとはいえ、まさかここまでやるとは夢にも思っていなかった。しかし、理屈を覚えればいいわけではない。簡単な実技はクリアしたものの、いきなり長時間憑依の術を使い続けるとなればどうなるかわからない。もちろんそんなことラズリも承知しているだろう。
 危険を承知して、この魔法を使うと言っているのだ。
「なんか、なあ…………」
 ラズリの奴、どこまで自覚しておるんやろ。
 普通借りがあるというだけではここまではやらないぞと、何度口に出しかけたことか。だが、そんな指摘をしてラズリが己の芽生えかけた恋心に火を点けかねない。アガシとしてはこれ以上とないライバルを作るのはご免だった。でも。
「ティーナ…喜ぶやろな」
 顔を真っ赤にしながらも喜びに輝くティーナの笑顔が容易に想像できてしまう。ティーナが喜ぶのは嬉しい。でもその笑顔がラズリに向けられるのかと思うと。
「…………やっぱ、おもろないわ」
 やってられんわあと、これで二度目のため息をつこうとしたアガシだったが、ふと月明かりが雲で覆われるのを背中越しに気がついた。空は雲ひとつないきれいな星空だったはずだ。おかしいな、と思って何気なく空を仰ぐ。
「げっ……?!」
 黒い影が月明かりを遮って迫ってくるのをアガシは信じられない気持ちで見つめていた。ばさり、と影の主が大きな翼で風を起こす。
「わ、わわわっ! なんやこれ?!」
 突然目の前に現れた存在にアガシは目を剥いた。
 竜だ。白い飛竜だった。寮をすべて覆い尽くしてしまうほど大きさであるにも係わらず、鳥のような滑らかな曲線で描かれた肢体は優雅ささえ感じられた。白い鱗は翼を動かす度に、月明かりを受けて星の瞬きのように輝いている。その姿はただ美しとしか表しようがなかった。
「うそ、やろ…なして、竜がこないな所に……」
 アガシの疑問に答えるようにラズリが告げる。
「おれが呼んだ」
「へ?」
 言葉の意味が頭に染み渡る前に、突然突風が吹き荒れた。風に煽られそうになりながら慌てて屋根にしがみつくと、やっとアガシはやっと状況を理解した。
「ラズリ! お前の仕業か?!」
 確かラズリが謹慎処分になった原因となった竜は白と黒のつがいだったと、アガシは思い出した。
「ああ。だからおれが呼んだって言っただろう?」
 巻き上げるような風の中にも立ったまま、ラズリは無邪気に微笑んだ。不覚にもアガシは一瞬見惚れてしまう。だがすぐに我に返ると再び怒鳴り散らした。
「アホか?! 竜に憑依するつもりか!!」
 当然だとラズリは頷いた。
「小動物に憑依するよりも竜の方が早い。すまないアガシ、おれの体を頼む」
 ラズリが天に手を伸ばすと同時に竜が上昇を始めた。ふっとラズリの体は力を失い、ふらりと宙へ身を躍らせる。
「ラズリッ!!!」
 アガシはこれ以上ない速さで屋根を駆け降りると、転がり落ちるラズリの腕を掴んだ。そのままもつれ合うように転倒し、二人の身体は屋根の上の屋根瓦を巻き込みながら滑り落ちていく。アガシは両足をつっぱって滑るのを止めようとするが間に合いそうにない。
「くそおっ!」
 ラズリの身体を引き寄せた瞬間、二人は宙に放り出された。すかさずアガシは浮遊の呪文を唱える。すると落下速度が急速に落ちていき、地面に到達するすれすれのところで止まった。
「ま、にあった…あ」
 ほっと安堵の息を付いた途端、重力を思い出したように二人の身体はどさりと地面の上に落ちる。放心したようにアガシはそのまま地面にあお向けのまま倒れ込んだ。
 すでに星は消え掛け、空は薄っすらと明るくなり始めていた。竜の姿はすでになく、さっき目にしたものはもしかして幻だったのではないかと思ってしまう。
 だが竜は確かにここにいた。ふと安らかな寝息に気がつくと、そこにはラズリが今までに見せたことのないような無防備な表情で眠っていた。
「ったく、この……我が儘王子が」
 ラズリの寝顔を睨みつける。しかしラズリは目覚めるわけもなく、相変わらず静かな息を立てていた。アガシはため息をついて乱れた黒髪を掻き毟ると、もうひとつおまけにため息をついた。
「この借りはでかいでえ。覚悟しときや」
 アガシはぼそりと囁くとラズリの腕を肩に担ぎ、よっこらせと小さな掛け声と共に立ち上がった。
「さーてなんて言い訳しような。『ラズリの奴、腹痛で便所の住人になっとるとでー』とでも言っとこうか」
 それくらいの意地悪はええだろ、なあラズリ。
 そうでもしなければ気がすまない。いや、そんなことくらいでは気がすむわけがなかった。
「っったくよお。人があんだけ苦労した魔法を簡単に覚えやがって」
 とは言え、ラズリの憑依の魔法が完璧だったとはまだ言い切れない。拭い切れない不安を抱えたまま、アガシは空に残された月を見上げた。
「無事に、戻って来いや。ラズリ」
 まるで月が竜の化身でもあるかのように、アガシは祈るように白い月を見つめていた。
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