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 星も見えない暗闇の下、遥かに続く連綿とした遠い道のりを、二頭立ての馬車が疾走し続けていた。
 質素にして剛健といった、比較的長距離に向いた作りの箱型の車を、栗毛と葦毛の毛並みのいい馬たちがそれぞれ引く。
 手綱を握るのは年の頃、壮年といった男性の御者。手慣れた鞭さばきで、漆黒の夜の帳の中を時折、威勢の良い掛け声を響かせながら、もっと早く走れと言わんばかりに鞭を振るい、終始馬を追い立てるのだった。
 その車の中に座すのは波打つ黒髪を長く伸ばした一人の少女。名門・ロータスの王立魔法学院の制服と、学校指定の黒無地のケープ・マントに身を包んだ彼女はティーナ、ティーナ・アルトゥンだった。
 ティーナ、彼女は膝の上に籠を置き、馬車が目的地に到着することだけをひたすらに、じっと待ち続けていた。
 その籠は元からティーナの持ち物ではない。御者が彼女に車内に乗り込むよう指示した際、ひとかかえもある、中細の雑木の蔓で編んだ籠を持たせたのだ。
 彼からそれを受け取った際、ずしりとした重さを感じて、ティーナはふと、御者の顔を見やる。
 この中にはいったい何が入っているのか。彼女は視線で御者に問う。すると、その意を汲んだ御者は、すぐに彼女に望むべく答えを与えた。
 いわく、中には彼女のためにデヴォンシャー家お抱えのシェフがこしらえた夜食と、魔法瓶に入れられた温かい珈琲が用意されているのだと。
 ファナトゥの領地は、王都からも距離が離れていたが、ロータスからもなかなかにして遠かった。
 二頭立ての馬車を使い、各地に設けられた駅にて馬を交換しつつ、ほとんど休みなく進行したとて、到着は早くても翌朝になると、ティーナは前もって御者から聞かされていたので。
 ですから、どうぞ馬車の中でお楽にお過ごしくださいませ。
 御者は満面の笑みを浮かべながら、ティーナにそう勧めた。
 あなたさまは大切な我が屋敷の大切なお客人でもあります。その間に空腹を覚えるようなことがあれば、その時はこのバスケットのお夜食を遠慮なくお召し上がりになられて良いのですよ。
 そう御者から、うやうやしく丁重に頭を垂れながら申し渡され、彼女はこくりと無言でうなずくのだった。
 お気遣いは大変ありがたく思う。しかし、どうも今は何も口にしたい気分ではないので、当分遠慮しておく。ただ、気が向いたら何かつまむかもしれないけれども…。
 本当はそう返事をしたかったティーナだったが、前述の如く彼女が正直に自身の心境を打ち明けようものなら、先の御者の口ぶりから察すれば、たちまちの内に大事へと発展するのはたやすく予想がついた。
 彼女が何気なく言ったその言葉によって誤解が生じたあまり、御者から過剰な詮索と余計な心配を招き、挙句、駅についたら薬師や医師を呼んで診てもらった方がいいのではと、どれだけ止めるのも聞かず奔走するやもしれない。
 もちろん、そんな事態を引き起こす羽目になるのはどうしても避けたかったので、ティーナはひたすら聞き分けよく、御者の言うがままに従うのだった。
 そしていよいよ、出発の時は訪れた。
 御者は再び深々と頭を下げ、静かに馬車の扉を閉めた。その上、しっかりと錠を下ろすことも念のため忘れずに。それは馬が疾走する勢いで、扉が急に開いたりしないようにという配慮からだった。
 扉の向こうでは見送りのためにかけつけた教諭のディーンが「気をつけて行っておいで」と、見慣れたなじみの笑顔とともに手を振った。
 学院からは誰のつきそいもなく、一人で現地に赴くことになった自分を気さくに送り出してくれたこと、それだけが、唯一の餞別とティーナには強く感じられた。
 そしてほどなくして――。
 扉が閉められてからあまり間を置かず、御者台に乗りこんだ脚者の「やあっ」というかけ声オとともに、馬車はゆるやかに走り出した。
 馬車の中は意外にもゆったりし、十分な広さが確保されていた。
 ティーナが乗り込む寸前、見た目、長距離を走る馬車にしては、かなりこじんまりとしているように見受けられたので、さぞや中も窮屈だろうとあらかじめ覚悟を決めていたが、座席に腰を下ろしたとたん、そんな心配はただの杞憂にすぎなかったことを思い知らせれたぐらいに。
 確かに大柄の男性二人が向かい合わせで座れば、さぞやたちまち狭い空間に閉じ込められた感を味わうだろうが、十代の小柄な少女が一人で乗るには十分といえるほどゆとりのある居住空間が保たれていたのである。
 その上、ここには自分だけしかいない、そんな気楽さも手伝って、ティーナの緊張はかなり解きほぐれていたのだった。
 一方、彼女が馬車の室内をなんとも居心地よく感じたのは、そのせいばかりではない。
 深紅の天鵞絨張りのソファの下はスプリングがだいぶ利いているおかげで、馬車が抱える大きな問題である、大きな振動を軽減するのに絶大なる効果を発揮していた。
 また、外観の質素で頑丈な作りに対し、内装は贅を尽くした素材がふんだんに使われ、手の込んだ装飾がこまやかに配されており、いわば、室内の雰囲気をそっくりそのまま、馬車の中に持ち込んだかのようで、乗客をくつろがせ、不自由な旅のつらさを感じさせない配慮をほどこした設計がなされていたのだ。
 さすが名門デヴォンシャー家専用の馬車だ。乗り心地の良さが抜群に良いのは当然といわざるを得ない。
 ファナトゥという地方の鄙住まいとはいえ、王都に住まう貴族にすら、けしてひけを取らない、りっぱな身上を備えていることが、この馬車ひとつ取っても存分にうかがえるほどだった。
 …そんなりっぱなお屋敷のご子息でもあらせられるディルナスさまほどの人が、いったいどういう了見で、自分みたいな薬師見習いの魔法学校の生徒なんかを、セシリア公妃さまのお話相手として選んだというのだろう?
 ティーナは先ほどから馬車の中で、幾度となくそのことばかりを繰り返し考えこんでいた。
 学長から話をうかがい、確かに自分が決断して訪問を承諾したものの、現実に仰々しく御者から接されれば接されるほど、ティーナは何とも場違いな場所に自分は出向くことになったのだとありありと知らしめられるのだった。
 大いに迷った。悩みに悩んだ。考えれば考えるほど、正しい選択など導き出せないような気がしだして、どうにも途方に暮れかけた。
 だが、さる筋から聞くところによれば、しない後悔の方がした後悔よりも、精神的負担の比重は高いという。
 ならば、ここはひとつ、物は試しと行ってみよう。そう思い、向こうの申し出を受け入れたのだから、くよくよ思い悩んでも仕方ないことではないか。
 何せもう、自分はこうして馬車に乗り込んでおり、すぐには引き返せないところまで来てしまっている。過ぎた時間を惜しんでも、けして元には戻せないのだ。
 もちろん最初から学園を出ることに不安もある上に、ファナトゥにて実際のところ何が自分を待ち受けているのか見当もつかない。もしも、どんな不測の事態に陥った時に、冷静に対処できる術が自分に備わっているなどとは到底思えない。
 けれども、やはり――。
 あの時、ちゃんと行っておけばよかったかもしれない…。
 そう心に重圧を感じながら学内にとどまっているよりかは、はるかにましとさえ思っているのも事実だった。
 それに思いきってえいやと相手の懐に飛び込んでみれば、存外、大したことではないかもしれない。
 案ずるより生むが易し、という言葉がどこかの国の書物に書いてあったような覚えもある。
 何かあったらその時はその時。自分にできる最善なる手立てを考えればいい。
 そんな風に半ばお気楽に、一方では捨て鉢な気持ちでこれからの未知なる領域に挑むことにしたのだった。
 ティーナはふと思い立って、ずっと下ろされている房飾りのついたカーテンをそっと指先でめくり、硝子がはめこまれた窓の向こうを眺めてみた。
 いったい陽が沈んでからどれくらいの時が過ぎ、今は何時頃かと推定を試みるも、空の星は無数の群雲に遮られて瞬かず、また家の明かりすらも全く目にとらえることができないのでは、判別のしようがなかった。
 そうなると寮の自室の引き出しから、懐中時計を持ち出してくるのを忘れてしまったことが、この際、大いに悔やまれるが、今となってはどうあがいてもいたしかたのないことだった。
 ティーナは周囲の事象から時間を計るのをあきらめ、再びカーテンを下ろし、ふうっと吐息をついた。
 カレンやセレは、とうに食事を終えて寮の部屋に戻っているのかしら…。
 せいぜい外出用の黒無地のケープコートを寮の自室に取りに戻るくらいしか、支度にかける時間も持てないまま、迎えの馬車に慌しく乗り込んでしまった。
 そのため、二人には直接会って別れを告げることも、こうして旅立つ事情などを説明できなかったのが、ティーナには今となってはとても心残りだったのだ。
 それと、もしもアガシにこのことを話していたら…?
 きっと彼のことだ。心配のあまり、自分も一緒についてくると言い出しかねないだろう。
 それとも、急にいきり立ってそんなの理不尽だ、素直に従って行くことなんてないやでと、まるで自分ことのように憤然となって止めるかもしれない。
 しかしどちらにせよ、こと、ティーナに関しては人一倍熱い反応を示すのは間違いないような気がするのだった。
 …それから、ラズリは。
 ティーナの脳裏にふとよぎる、仏頂面の涼しげなまなざしと整った面立ちを宿した少年の横顔。
 今から赴くのは、二人が初めて出会った思い出深いファナトゥの地。ラズリ…王太子ラズウェルト殿下にとっては、叔母であるセシリア公妃と従兄弟に当たるディルナスさまの住まうデヴォンシャー家なのだ。
 そんな所に何故にお前が一人で話相手として呼ばれる? そもそも親戚縁者でもない、たかが薬師の娘風情にいったい何をさせるつもりだというのだ。俺には到底、解せないな。
 …などと、どうにもこうにも釈然としないといった風情で、何かと理由をつけて、ラズリは自分が付きそわねばと俄然、主張を試みるだろう。
 優等生の自分が、劣等生の彼女の面倒を見てやってしかるべきではないかとか、どうとか、そんな風に多少なりともむりやりこじつけてでも。
 「――ラズリ」
 そっと彼の名前を口に出してしまったとたん、ティーナはなぜかたまらなくやるせなくなってしまい、じわりと目元を潤わせた。
 どうにも胸につかえていたものがこみあげてきて、無性なほど切なさを禁じえなかったのだ。
 彼はまた、怒るだろうか。こんなところで自分がめそめそと一人泣いている姿を目の当たりにしたら。
 きっと、とても嫌そうに眉根をひそめて、軽く一瞥を投げかけ、ぼそりとつぶやくだろう。
 「なんでおまえはすぐ泣くんだ。たかがそれしきのことで」とでも。
 けれどティーナにも、どうして自分がそうなってしまうのか、わからないのだ。わからないから、きっとどうしようもなくなって、それで自然と涙がとめどなくあふれて仕方がないのだと思う。
 確かに彼のことは心配でたまらない。ラズリがただのラズリ・マーヴィではなく、一国の王の世継ぎでもあるラズウェルト殿下であるが故に、よからぬ相手からその命を狙われているのは既に間違いないのだから。
 短いようでいて長かった、三日間の反省室行きの謹慎処分を終えた彼に、再びミランダが接触を試みようとするのは容易に推察できた。彼女に操心術をかけられた自分が、彼の命を殺めることにとうとう失敗してしまったのだから、すぐに次なる手立てを考え、行動を起こすのはむしろ当然といわざるをえない。
 でも…大丈夫よね。あの石があれば、きっとラズリを守ってくれるに違いないもの。
 禁忌とされた古代魔法を自在に扱うミランダ。古代魔法には、現代魔法には太刀打ちできない、強く堅固な呪術に相当する類のものや、使用した場合、その者の命すらも代償となるような恐ろしい魔導力を秘めた危険な技が数多い。
 しかし、それらあまたのを術を駆使する彼女とて、どうやらめっぽう苦手なのがあの守り石のようなのだ。
 ミランダの古代魔法にかかり、心を操られ、ラズリと知らずに刃を向けたティーナが、寸でのところで正気に取り戻すことができたのは、何よりもあの石のおかげでもあるのだから…。
 だからこそ、彼女の魔の手からラズリを守るためには、あの石の存在が絶対必要だといわざるをえない。
 ティーナが学院を去り行く際、ディーンに預けた守り石。彼は石を必ずやラズリに届けてくれると固く約束を交わしてくれた。それだけが今のティーナには頼みの綱であり、すがる寄る辺、希望の光なのだった。
 ラズリ…。ラズリ、ラズリ…。
 どうか、無事でいて。あたしが学院に戻るまで、石よどうかラズリを守っていて。
 これまでずっと、あなたが彼を小さい頃からいつも守ってくれていたように…。
 祈りにも似た強い念を、学院にいるラズリに向かって飛ばすが如く、ティーナが両手をしっかりと組み合った。
 とたん、またぽろりと涙が頬を濡らしそうになった。ので、ティーナはそっとまぶたをぬぐう。
 ここで泣いていちゃ、しょうがない。慰める人も、呆れて叱責する人も誰もない。自分一人しかここにはいないのだ。だから、心を常に強くもたなくては。
 ティーナがそんな風に決意を新たにしたのと、それはほぼ同時だった。その場にそぐわない、どことなく間の抜けたような、鈍く低い音が彼女の耳にしっかりと届いたのは。
 …やだ、あたしったら。
 慌ててティーナはお腹の辺りをそっと押さえる。それでも気持ちに反して体はまっとう正直なようで、再び我慢ならないと彼女に訴えかける音がその場に響くのだった。
 「こんな非常事態でもちゃんとお腹が空くのは、健康な証拠ね」
 ティーナは誰に聞かせることもなく、やれやれと独りごちると降参気味に膝の上に載せていた籠の蓋をぱたんと開いた。
 とたん、彼女の目に、わっと飛び込んでくるのは、たくさんのおいしそうな食べ物の数々だった。それは一人分にしては多すぎるほどの、調理パンや菓子パンの類、そんなもののあれこれだったのである。
 思わずティーナはごくりと生唾を飲みこんだ。
 白パンやライ麦パン等、パンの種類も豊富な上、中にはさまれた具材も多種多様で、どれから手をつけたらいいかと目移りしてしまうほどでもあったので。
 薄切りのパストラミビーフとしゃっきりレタスに穴あきチーズをはさんだもの。ハーブとオリーブにつけこんだスモークサーモンとハッシュドポテト。四色の豆を煮込んだラグーソース。ピタパンには色鮮やかななラタトゥイユがたっぷりはさまっている。
 さらに菓子パンも調理パンに負けじと、どれもこれも手の込んだものばかりで、いくつ種類ががあるのかひとつひとつ確かめることなど、どうでもいいこととして、片っ端から手にとりたくなるほどの魅力にあふれていた。
 甘く煮たりんごを載せたパイに、クリームやジャムをつめこんだこんがりキツネ色のパン。レーズンやくるみなどのドライフルーツをねりこんだパンにはザラメの砂糖がふんだんにかかっている。フレッシュクリームをつめこんだパンの表面にはうっすらとチョコレートがコーティングされ、アクセントとしてホワイトチョコまでもがデコーレトされていたりして…。
 街のベーカリーだってこんなに美味しそうなパンを並べる店はまれだろう。さぞかしデヴォンシャー家のお抱えシェフは、相当腕の立つ職人に相違ない。
 そんな分析をするのももどかしく、ティーナはわっと籠の中に手をのばしてサンドイッチのひとつを思い切りぱくつきはじめた。
 もっちりとして歯ごたえのあるパンの生地に、相性のいいお惣菜の数々。あっちもおいしそう、こっちも味見してみたいと、手を出しまくっては、さっくりしたパイやとろりとしたクリームにいちいち舌鼓を打った。
 それに魔法瓶の中に入れられていた珈琲も深い味わいでおいしかった。たった今焙煎した豆を挽き立ててドリップで淹れたもののように、香ばしく感じられたほどなのだから。
 もちろんミルクと砂糖もバスケットの中に添えられていたので、まさにいたれりつくせり、汚れた手をぬぐうおしぼりタオルや紙ナプキンも完備しているのだから、実に恐れ入る。
 とりあえず、これから何が待っているのかがわからないからこそ、腹ごなしをしておくのが何より大事よね、うんきっと。だって、お腹を空かしたままだったら、それこそいい考えなんてひとつも浮かばないもの。
 ティーナはそんなことを思いながら、しばらく目の前のごちそうの山を独り占めして堪能するのだった。


* * * * *

 「おい! ラズリ」
 鉄砲玉のような勢いで廊下を駆け出したラズリの肩をアガシはやおらつかみかかり、その場で彼の歩を差し止めた。
 「急にどうしたんだ。どこに行くつもりなんだ、おまえ」
 東校舎の二階の廊下でばったりと会ったディーン教諭。彼はラズリを先ほどからずっと探していたらしく、ようよう肩で息を切らさんばかりの風体だった。
 何をそんなに必死こいて自分に会おうとしていたなんて、いったいどういう用件なのか。
 ラズリにはどうにも思い当たる節がなくて、怪訝そうな素振りを見せると、そんな彼の手に、ディーンはティーナからの預かり物だと守り石のついた首飾りを手渡した。
 どうして先生がこれを? これはティーナの物だから、元の持ち主に返すのが筋と、何年かぶりに彼女へ戻した、そのはずだのに。
 首をかしげながらしげしげと自分の手の中の守り石を見やるラズリに、ディーンはティーナが急ぎファナトゥの地へ、デヴォンシャー家の使いの者と一緒に旅立ったことを告げる。だから彼女は君に、別れの挨拶ができない代わりに、自分にその首飾りを託したのだとディーンが事情をかいつまんで話した。
 その、直後の事だったのだ。こんな所にいてもたってもいられるか、そんな険しい顔つきでラズリが急にかけだしたのは。
 「アガシの言う通りですよ、ラズリ。私はティーナからあなたにそれを返してほしいと託りましたが、あなたにぜひ追いかけてきてもらいたいとは、誓って頼まれてなどおりませんでしたよ」
 ディーン教諭は、ただ事ではないラズリの激しい剣幕をおだやかにいさめようとでもいうのか、にこやかな笑みを浮かべて彼の前に回った。
 「少し落ち着きなさいラズリ。冷静に対処しなければ、判断を見誤るだけですよ。そもそもよく考えてごらんなさい。ラズリ、君はもう続けざまに二つもペナルティがついてしまっているじゃないですか。ここにきてさらに無断で学外に出たことが発覚すれば、今度は退学処分を君に下すことを我々職員間で協議せねばなりませんよ」
 ――退学処分。
 ディーン教諭の脅しにも似た強い制止には、さすがのラズリも思いとどまったらしく、重々しい表情で顔をうつむかせた。
 「君ほどの優秀な生徒を、わずかな過ちを犯した過度でみすみす退学処分を下すのは非常に苦渋の選択です。教師としては、もっとも避けなければならない最悪の事態でしょう。もちろんティーナとて、あなたがそうなることをけして望んでいないはずです。…このことは、改めて私の口から伝えなくてもあなたにはわかりますよね、ラズリ」
 それじゃ、俺はどうしたらいいんだ。
 このまま手をこまねいているだけで、何もしないでじっとしておればいいっていうのか。
 頭ではディーンの言ったことを理解し、納得ずくではいるものの、感情ではどうしたって聞き分けられないといった有様で、ラズリはいらつきながら軽く舌を打った。
 ――確かに、ただの偶然が重なっただけかもしれない。
 ディルナスが何故ガルオンを介して、ティーナを叔母のセシリア、デヴォンシャー公妃の話し相手としてファナトゥへ呼び寄せようとしているのか、詳しい経緯はわからない。
 ならば直接、自分がディルナスの元にティーナと一緒に赴くしか、その真相は究明できまい。
 そうすれば確かな理由がわかる上に、もしかしたら意外にも実はそう大したことではなかった、ということも十分に判断できる。ティーナが代々続く王室専任の薬師の家系に連なる者であり、デヴォンシャー家にも出入りしているほど懇意のある現・薬師ガルオンの娘という出自の確かさ故に、単にこの際、白羽の矢が当たっただけなのかもしれないのだから。
 またミランダの思惑が今のところ、どうにも今ひとつ、つかみきれていないのも、ラズリが歯がゆさを感じる所以でもあった。
 反省室を出るまでの三日間の間に、ティーナにも自分にもリベンジを図ろうとすれば、いくらでも動けたはず。
 だのに、この期に及んでも何も手出しをしてこないところをみると、次なる機会をうかがっているのか、それともこの展開に乗じて何か大掛かりな反撃を仕掛けてこようと狙っているのではないかと思わざるをえなかった。
 しかしさりとて、彼女がティーナの学外行きを巡る一連の件に関わりも、それに結び付けられる証拠も、事由も、今のところ何ひとつとてないのが現状だった。
 それほど彼には今のところ判断する材料がとぼしい上に、自分が最善を尽くすためのいい案も浮かばないどころか、考えをまとめようにも謎だらけで実に困るほどだったのである。
 ええい、くそっ。いまいましい…!
 誰にもぶつけようのない腹正しさをまぎらわせるためか、ラズリは唇をきつくかみ締めながら、おもむろにその場でだんっと足を踏み鳴らした。
 そんな様子を傍で見ていたアガシは、ラズリの胸中をどことなく慮ったのだろうか。
 ちょいと明後日の方角に顔をそむけたかと思うと、いきなり彼の肩をぐいと自分の方に引き寄せ、ディーンに背を向ける格好を取らせるのだった。
 「…おい、ラズリ。手ェ出せや」
 アガシは声をひそめてラズリにささやきかけ、そう急いた。
 「なんだよアガシ。おまえ、いったいどういう…」
 「いいから早くしろ。先生に気づかれたいんか?」
 いぶかしむラズリをよそに、アガシはそれ以上は特に何も理由などは話そうとしない。
 やれやれ、仕方ないなと吐息をつき、ラズリは渋々とアガシに従い、自分の手を差し出した。
 それを待ってましたとばかりに、彼はその手の平に指で何やらさっと文字を書きつける真似事をしだす。
 するとたちまち、アガシが指でなぞった通りに文章が光でつづられていった。しかもその光文字はラズリが読んだそばから、次々と消えうせていく。まるで最初から何もなかったかのように…。それはアガシが使った魔法だった。
 『心配するな。わいにまかせろ』
 ほんの二言、三言。そう書かれた彼の真意はいかなるものか。
 自分にまかせろというが、いったい何をどうするつもりなのか。
 ラズリは、アガシにそんな疑問をぶつけるかのような意を含んで視線を向けたが、彼はただ、にたにた笑いを唇にうかべるばかりで、結局それ以上、何も答えようとはしてくれなかった。
 だが、それでも。どうやらアガシには彼なりの策があるらしい。
 そのことだけは、実に彼の得意満面といった表情から、ありありと見て取れるラズリだった。
 「ディーン先生、心配ありませんよ」
 アガシはラズリの肩をぐるりと回して、再びディーン教諭の正面に彼の体を向けさせた。
 「絶対抜け出さないよう、自分がしっかり彼を見張っておりますので。今度ばかりは彼も自分が最もあやうい立場にいることをわきまえているようですから、けして無茶な真似などしないでしょう」
 …なんだよ、俺に口裏を合わせろっていうのか?
 ラズリが肩越しにアガシの方を見やると、彼は「しのごの言わずにいいから、さっさとやれ」とでも言いたげにあごをしゃくった。
 なので、ラズリにとってはかなり不承不承ではあったが、アガシが促すまま、ディーンにぎこちない笑みを浮かべて見せ、そのまま何でもなくやりすごすことにしたのだった。
 「おお、そうですか。ルームメイトのあなたがそうおっしゃるなら、きっと大丈夫でしょうね。私も安心してお任せすることにいたしましょう」
 「はい。どーんと大船に乗った気持ちで泰然と構えていてくださいな」
 「はははは。それは頼もしいですねえ」
 「いやあ、それほどでも。にゃはははは」
 意味もなく笑い飛ばしあう二人をよそに、ラズリは「よく言うよ」とでも言いたげに、鼻白んだ顔してあさっての方を向いた。
 既に陽は地平線の下に沈み、空には昼の輝きをひたすら名残惜しむような赤々とした残照だけが広がっていた。
 ラズリはそんな景色をまなざしの奥でとらえながら、何ともいえない、たまらなく苦々しい気分を味わっていた。
 いてもたってもいられないほどに、苛まれる焦燥感。
 どうあがいても、身動きがひとつ取れない自身のもどかしさ。
 そんな自分に一番腹が立って仕方がなかったのだった。
 考えれば考えるほど、突然のティーナ召喚の謎は深まっていくばかり。またミランダの今後の動向も、けして予断を許さないこの状況下にあっては、アガシが自分に提案した策にすがるしか、今のところ有効な手段はないのかもしれないが…。
 …だけど…でも。
 どんなにラズリが思いを巡らせても、一向にそれ以上は良い手立てなど浮かばず、彼の手に握られたティーナの守り石だけが、無言で何かを語りかけるかのように、ひっそりと存在感を示すのみだった。


*  *  *  *  *  *


 「――どういうことなの?」
 呆気にとられた声で思わずひとりごちるのは、ミランダだった。
 保健室の自分の席で足を組んで座りこみ、机の上に頬杖をつきつつ、手の中におさまったコンパクト・ミラーをのぞいている。彼女が持つそれには、蓋の裏と底の裏、両方に鏡がはめこまれ、それぞれ異なる二つの場所が映し出されていた。
 上部の鏡には学院内の風景、廊下で会話を交わしている二人の制服姿の少年と、彼らよりも頭一つ分ほど背が高い眼鏡姿の男性の姿があった。
 それはまぎれもなくラズリとアガシ、そしてディーン教諭の姿だった。
 そしてまた、下部の鏡には荘厳な建物の美しい室内装飾に彩られた室内で向かい合った二人の年若い男女が映っていた。
 一人は肩の辺りで揃えられた金の髪がさらりとなびく彼と、長くうねる黒髪がゆるりと波打つ彼女――。もちろんそれも、ディルナスとティーナに相違なかった。
 ミランダはティーナが、ラズリの暗殺に失敗したことは元より承知していた。
 自身が彼女にかけた強力な古代魔法の呪縛から、彼女がどうやって脱け出せたか定かではない。
 だが、まずティーナが普段と同じ様相で学院内に戻り、そしてラズリがアガシと共に謹慎が解かれ、反省室から何食わぬ顔で帰ってきた。
 そのことを、ミランダがこの鏡越しにしかと確かめた時に、明らかにされた真実でもあったのだから。
 さて、それでは今度はどんな手を使って目的を遂行させるべきか――。
 高い塀で周囲をがっちりと囲まれた、難攻不落の城を陥落させるためにはいかなる手段を取るのが最善か。
 それを成功させるためにはまた一から青写真を描き直さねばなるまい。そう思った途端、自分の知らないところで何か別の方面からそれぞれ違う動きが起こっているのを知ることとなった、というわけである。
 「お頭さま自らが動くだなんて…。いったいどういうおつもりでいらっしゃるわけ?」
 ミランダは下部の鏡に映ったティーナとディルナスの姿を、苦々しい気持ちで唇を噛みしめながら眺めていたが、やがて思うところがあったのかとっさに椅子から立ち上がった。
 「――耳口、目鼻! おまえたち、お頭さまから何か特別にうかがっていて?」
 やや語気を荒げてミランダは振り返ってみた。
 だが、どうしたことだろう。普段通りであれば、どこからともなく瞬時にして現れ、その場に控えているであろう彼らの姿は、しばらく待っても、ついぞミランダの前には現れてはこなかった。
 「そう…。一度ならずとも二度とも、接触を試みながら失敗に終わったあたくしの落ち度のせい、というわけね」
 ミランダはぱたんとコンパクトをたたむと、すっと立ち上がった。
 「それでは、あたくしのこの手で、必ずや始末をつけなくてはならないわね。――たとえこの命に代えても」
 にこり。誰に見せるわけでもないが、満面の笑みをその美貌に浮かべると、ミランダはそっと目を閉じて唇の先で何やら早口で魔法の構文を唱え出した。
 するとほどなくしてミランダの姿形、輪郭の稜線がぶれはじめる。
 そしていつしかそのぶれは、本体から分離して同じ姿形を形成しはじめ、やがてその場にミランダと相似ともいえるもう一人が、忽然と出現したのだった。
 「うふふ、お久しぶり」
 「そうだわね。相変わらずおキレイだこと」
 「そうかしら。あなたもおキレイなままよ」
 二人は互いに向き合ってじっと見つめあうと、声を合わせて軽やかに微笑を交わし合った。
 「それじゃ、分業ということで、まあよろしくってわけ?」
 分かれた方のミランダが、長いプラチナブロンドの髪を軽く片手でかきあげると、元々のミランダがそれに応じるかのように「ええ」と肩をすくめさせた。
 「そういうこと。あたくしとしては、ひとつひとつをきっちりと確実に片付けて済ませていきたかったんだけども…」
 「そうね、こんなおっつけ作業でやっつけ仕事をするのは、あなたのもっとも好まざる展開ですものね」
 「そーそ。これじゃあたくしの理想に反することだけど、ここはひとつ我慢するしかないわね」
 「まあ、いいんじゃないの。二人になれば一挙両得、濡れ手で粟でしょ」
 分裂したミランダが腕を組んでくすりと笑みを浮かべると、本体のミランダは少しだけ驚いて目を見開き、「おや」とでも言いたげに小首をかしげた。
 「あらん。それ、どこの国の言葉? あたくしはじめて耳にするわよぉ」
 「まあ、そういう意味ってことよ」
 「そうなの? …ま、そんなことはどうでもいいけど、お互いに」
 「がんばりましょうね」
 二人は今一度正面から向き合うと、さらににこやかに瞳を微笑ませて、ぐっと握った拳をぶつけあうのだった。

*  *  *

 
 かたんと軽い衝撃音が響き、ティーナはハッとして目を覚ました。
 うとうととしている間に、どうやらいつの間にか深く眠り込んでしまっていたらしい。多少、無理な姿勢で座席に寄りかかっていたのが災いしたのか、急いで身を起こそうにも肩や背中などのあちこちが妙に痛みだして、思う通りにはうまく動かすことができなかったのだった。
 黒い外套をひらりとひるがえし、御者台から御者が下りてきて、馬車の扉をこつこつと叩いてきた。
 「ティーナさま、お待たせいたしました」
 御者は中にいる彼女にそう声をかけると、静かに取っ手を回し、扉を開いて、うやうやしく頭を下げつつ、デヴォンシャー公の邸宅に到着した旨を告げるのだった。
 「ご到着でございます。昨夜からの大変長らくのご乗車、お疲れさまでございました。どうぞ邸内へお入りくださいませ」
 慣れた手つきでティーナに手を差しのべてくる。相変わらず、上にも下にも置かない待遇の良さだ。そんな扱われ方に慣れていないティーナは挙動不審なぐらいおどおどした素振りを示し、御者の手を借りながら馬車からそろそろと足を下ろした。
 まぶしい…!
 馬車から降りたとたん、さしこんでくる朝の陽光の輝きに目が慣れず、ティーナはまぶたをつむねって手で顔を覆った。
 すると、すかさず。
 「いらっしゃいませ。ティーナさま」
 ティーナが下車したのを見計らって、邸宅付の召使いらしき少女が、深々と九十度近くも頭を下げて歓待の意を示した。彼女は馬車が到着する予定の時間に合わせて玄関口までティーナを出迎えに来ていたのだった。
 「はるばるの長旅でお疲れのところまことに恐れ入りますが、お部屋にておくつろぎなさる前に、どうぞセシリアさまへのご挨拶を賜りたく存じます」
 「は、はいっ」
 なんとか目を慣らしたティーナは勢いよく返事をすると、「どうぞこちらへ」と案内する少女の後ろをついて、玄関口から屋敷の中に一歩足を踏み出した。
 うわ…。ファナトゥ家に来るのなんてあたしいったい何年ぶりかしら? ちょっと、懐かしいな。学院に入るよりもずっと前のことだから、かなり久しぶりなのは間違いないけど…。それにしても、いつ来てもやっぱりすごいお屋敷だわ、ここ。
 ティーナは自分の前を歩く召使の少女の耳に届くか届かないかのような、かすかなためいきをもらした。
 王都にある王宮、セルリアン宮殿からほどなく離れた場所に位置する彼女の自宅、アルトゥン家とて代々続く王室付き薬師という家柄である。一般庶民が生活を営む家屋に比べれば、それなりの風格が備わった、邸宅と呼ぶにふさわしい家構えをしているはずだ。
 しかしそれとて、こちら、ファナトゥ地方きっての名家たるデヴォンシャー家の、広い敷地を備えた豪邸屋敷とは、まったくもって比べ物にはならないほど、粗末な代物にすぎないだろう。
 瀟洒なたたずまい、豪奢な内部装飾。屋敷内のどこをとっても目に留まる、きらびやかであでやかな調度品の数々は、見る者に羨望のまなざしと感嘆のためいきを一気に集めて、なお余りあるほどの存在感を示していたのだった。
 ティーナが靴音を響かせるのもためらわれるほど、明るい朝の陽射しが差し込む静かな屋敷内。自身の姿が映るほど磨き上げられたひたすらまっすぐに伸びる廊下をしずしずと歩きながら、「こちらでございます」と通された部屋はデヴォンシャー家のメイン・ダイニングだった。
 こつこつこつとノックを三回繰り返した召使の少女が「失礼いたします」とドアを開け放ったとたん、ティーナの正面にはとびきりの美少女が広いテーブルを前に一人で食事を摂っている光景が飛び込んできた。
 「あら…。なあに? 何か御用?」
 「失礼いたしますセシリアさま。お食事中のところまことに申し訳ありません。たった今、お客様が当屋敷にお着きになられましたので…」
 ティーナを前に促して軽く紹介すると、案内してきた召使いの少女はさっと下がって軽く膝を折って一礼し、ドアをぱたりと閉めてその場を後にした。
 「だあれ? あなた見たことない人ね。お名前はなんておっしゃるの? どこからいらしたの?」
 セシリアはけげんそうな顔つきで、スープをすくったスプーンを手にしたままティーナに矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。
 召使いの少女に去られ、その場に一人残されたティーナは半ば心細さを感じながら、それでもめいいっぱいにこやかに笑みを浮かべ、制服のスカートを両手でつまんで深々と頭を垂れた。
 「お初にお目にかかりますセシリアさま。この度はお招きにあずかりまして、しごく光栄に存じます。王宮専任薬師・ガルオンの娘、ティーナ・アルトゥンと申します。現在はロータスの王立魔法学院四年生として籍を置いております。どうぞ今後ともよろしくお見知りおきくださいませ」
 慣れない上にぎこちない挨拶の口上ではあったが、それなりにそつなくまとめたティーナに対し、セシリアは彼女に関心を払うつもりで声をかけたわけではないらしい。
 さほど表情も変えず、スプーンを置くと、服の前にかけた白いナプキンで口についた卵の汚れをそっとぬぐい、グラスに手をかけ、半分ほど注がれていたミルクをこくんと飲み込み、淡々と食事の続きを行うだけだったのだ。
 「ふうん…。そうなの、ガルオンのねえ…。あたくしはあなたのこと、お客さまに呼んだ覚えはないんだけど。今日はガルオンの定期健診もないはずだし。…あ、ひょっとしてどこかのお宅とうちをお間違えじゃなくて? …ねえ、マージ」
 「いいえ、セシリアさま。この方はセシリアさまの元にいらっしゃいました、れっきとした新しいお話相手の方でございますよ」
 セシリアの背後に控えて立っていた、やや年かさの召使の女性が、少しだけ腰をかがめて着席する彼女にそう答えた。
 「ティーナさまはセシリアさまよりかは、ほんのひとつふたつお年は上でございますが、同性の同世代でもあります故、会話を交わす内にすぐうちとけてまいりますよ。ガルオン様からとてもお心やさしい方と前々からうかがっておりますので、きっとお話も和やかにはずむことでしょう」
 「そうねえ…。でもあたくし、この方とお相手できる時間がそう取れるかしらねえ…」
 マージに熱心に説かれても、セシリアはどうでもいいことと思っているのか、どことなく上の空気味な返事だった。
 …あれ? ちょっと待ってて、それって…。
 ティーナは思わず、マージがセシリアに言い含めたセリフの内容がひっかかり、どうしても首をかしげたい気分にならざるをえなかった。
 えっと。同性はともかくとして、あたしの方がセシリア様より年上って、同世代だから話が弾むって、どういうこと? それって何かおかしくない?
 セシリアさまは確か…。ずいぶん年若く見えるみたいけど、確か現国王であらせられるジェラルド様とは、ほんの三歳くらしか違わないはず。
 それに元より、セシリア様はデヴォンシャー公の奥方にして、この家の女主人。ディルナスさまのお母上でいらっしゃるわけでしょう?
 それがどこでどうやったら、あたしよりも年下になるっていうの…?
 「ねえ、マージ。今日はお兄様はセシルに会いに来ていらっしゃらないの?」
 一方、セシリアはそんな質問を彼女に返した。どうもその雰囲気から、ティーナをとっとと自分の目の前から下がらせてしまいたいことを暗に示しているかのようでもあった。
 「はい。本日のご予定としてご連絡を受けておりませんので、たぶん」
 「…つぅまらないのっ」
 「きっと皇太子さまは王となられるためのお勉強がお忙しいのでございますよ」
 まるで小さい子をなだめるかのように、マージはやさしく応じたが、セシリアにはそれがどうにも不満の種だったらしい。
 それこそあからさまに頬をぷうっとふくらませ、手にしたフォークでサラダの野菜をえいえいとつつきながら、足を椅子の下でぶらぶらさせだしたのだった。
 「でもね、マージ。だって、だってセシル、お兄さまとチェスをするお約束をしていたのよ。それから乗馬でしょ、あたくしの弾くピアノも聞いていただけるって、それに一緒にアンサブルもして下さるっておっしゃっていたのにぃ。あとね、あとお芝居ごっこも…」
 「ええ、ええ。そうでございますわね。ジェラルド様は妹さま思いのおやさしい方ですから、きっとこちらにお寄りになった際はセシリアさまのおねだりをかなえてくださるはずでしょう」
 「本当? じゃあセシル、お兄様に会うの楽しみにして待ってようっと。あたくし、お兄様とお話ししている時間がいっとう大好きなんだもんっ」
 セシリアがマージの取り成しに少しだけ機嫌を直しかけたその時、正面の扉をかちゃりと開け、誰かが部屋の中へと足を踏み入れて来るのだった。
 「おはよう。おやおや、今朝はずいぶんにぎやかだね」
 さわやかな朝の挨拶の声を響かせ、明るい笑顔をふりまくその人は、青年然とした顔つきと年恰好の者にしては、いくぶん細身で華奢な体型をしていた。
 肩のラインで切りそろえられた金の髪。瞳の色はまっさらな空の色。お召し物は上等な絹織物のブラウス。
 そんな成りをした彼が現れるやいなや、セシリアはとたんに目をきらきらと輝かせるのだった。
 「まあ、お兄さま!」
 ついさっきまでの超がつくほど不機嫌きわまりない顔はどこへやら。とびきり上機嫌な笑顔で、セシリアはぱっと席から離れると、出入り口のドアの前に立つディルナスの元へ一目散に駆けて行った。
 「嬉しいわジェラルドお兄様! やっぱりあたくしに会いたくて来てくださったのね!」
 勢い余って飛びつくセシリアを、ディルナスは予想していたのか、あまり動じずそのまま抱きとめてやった。
 「おっとっと。おはようセシリア。今日も相変わらず元気いっぱいだね」
 「うふ、お兄様に会えたから余計よ。あたくしを驚かせようと、こんな朝早くにナイショでいらしてくださったなんて、とっても嬉しいわ。やっぱりセシルのお兄様ね。早くお兄様に会いたくてずっと待っていたあたくしの気持ちを、こんなにもご存知なんですもの」
 「そうかそうか。それはよかった。でもセシリア。またワガママをうんと言って、マージを困らせたりしていなかったかい?」
 「ううん、もぉ。お兄様ったらいけずぅ。あたくし知らないっ」
 喜びいさんで思い切りよくじゃれて甘えるセシリアを、彼は「まあまあ」となだめながら、その一方でティーナの立つ方向に視線をずらし、微笑んで、心から歓迎の意を示すのだった。
 「やあ、ティーナ。さっき馬車の到着の知らせを受けて慌てて来たんだけども、ちょっと間に合わなかったようだね。玄関まで出迎えに行けなくてすまなかった」
 「…あ。い、いえそんなっ。とんでもございません」
 「いやいや。こちらこそ、だ。はるばるロータスから遠いところをようこそ、ティーナ・アルトゥン。僕がディルナス・ファナトゥ・デヴォンシャーだ。留守中の当主である義父、デヴォンシャー公に代わって君の訪問を心から歓迎するよ」
 そう言いながらさっと頭を下げるディルナスに、ティーナも慌ててぺこりとお辞儀を返した。
 「まあ、堅苦しい挨拶はこれくらいにしようか。君がこの屋敷に来るのは、きっとしごく久しぶりだと思うけど、どう? 変わってないかな? 懐かしいだろう?」
 「そ、そうですね…。父がこちらに見えていた頃はよく一緒に…。でも私はお庭で外遊びばかりしていましたけど…」
 「ああ、そうだったそうだった。君はガルオンと二人で挨拶がすむと、すぐに外にぱあって飛び出して行ってしまったものね。だから、なかなか僕と話をしたり、遊んだりすることはなかったよなあ」
 「あ、あはは。そ、そうでした。はい…すみません」
 「そんな、別に気にしなくていいよ。あの頃は君だってまだまだ遊びたい盛りだったものな。でも、本当ずいぶん大きくなったね。何せガルオンの後ろでちょこまかと歩いていた頃は、確かこれくらいだったと思ったんだけど…」
 「えええっ。そ、そうでしたか…?」
 ディルナスが手で指し示した位置が彼の腰の下辺りだったので、そこまで小さかったのかとティーナは殊更に驚いて目を見開いた。
 「それに、男の子みたいに元気よくて、髪も短かったし…」
 「ええ、ええ。お転婆が過ぎるって、よく父にも母にも叱られたものです…」
 でもそれは今とあんまり変わらないか、とティーナが苦笑したそばからディルナスは「いやいや」と首を振って軽く否定した。
 「今はまったくそんなことはないだろう? すっかり年頃の娘さんぽくなったと思うけど。…ほら、こんなに」
 ゆるく波打つ髪の先を一朔、ディルナスにそっと手に取られて、ティーナの頬は急にかーっと火照りだした。
 「ずいぶん髪が伸びたね。女の子らしくて、とってもかわいいよ。もうりっぱなレディとして扱わなくちゃならないね」
 「そ、そうです…か?」
 ティーナはどぎまぎとしながら、自分の髪をいじるディルナスの指先を見つめた。
 多分、ディルナスから見れば自分は単なる年下の昔なじみという感覚だろう。こんなほめそやしすらもただのあいさつ、社交辞令代わりで、その行為に何の他意もないはず。
 なのにどうもいちいち反射的に反応してしまうのは、どこかの誰かさんが、すぐ自分にちょっかい出してくることを思い出してしまうからだろうか。
 「それじゃ、ちょっといいかなセシリア。僕とティーナが席を外しても」
 ディルナスは、ティーナの髪から手を下ろすと、自分の腕に腕をからませながら、ぺったりとへばりついていたセシリアをそっと引き離した。
 「…ああん。いやあ。お兄様ぁ。ねえ、どこへ行かれてしまいますの? あたくしもご一緒いたしますわっ」
 「ごめんねセシリア…。ここで待っていてくれるかな。僕は彼女と少しばかり込み入った話があるんだよ」
 「そんな…! お兄様はあたくしのお相手をするよりもっと大事な御用だとおっしゃるの? んまあ、ひどいですわ、そんなのあんまりですわ」
 ふんふんとやたら甘え声を鳴らしながら拗ねまくるセシリアに対し、ディルナスはどこまでも温和に構え、寛大に受け止めながら、彼女の頭を軽くぽんぽんと叩いてやさしくなだめにかかる。
 「大丈夫だよ。そんなにかからないはずだから。…ね? さあ、席にお戻り。朝食を途中にしてきちゃったら、またみんなに迷惑がかかるだろ。マージを困らせたりなんてしないよね、セシルはいい子だものね。僕のかわいい妹だったら、お利口さんのはずだものちゃんと聞き分けがつくはずだよ。それができたら、今度は君と遊んであげる」
 「……。ううう、お兄様ったらぁ」
 どことなく不平不満を募らせた、恨みがましいまなざしで、セシリアは上目遣いにディルナスに視線を送る。
 それはどことなく自分の気持ちを察してほしいとサインを送っているようでもあり、また心から慕うディルナスのために自分のわがままを我慢せねばなるまいと必死に耐えているようでもあった。
 そんなセシリアとディルナスの、どこか違和感を禁じえないやりとりの行く末がどうなることやら、傍目ではらはらと見守っていたティーナだったが、ふいに伸びてきたディルナスの手で肩をぐっとつかまれてハッとした。
 「……さ、今の内。早く廊下に出て」
 ディルナスにこそりと耳元でささやかれ、驚いたのも束の間、彼が開けていたドアの向こう側へ、肩を押し出される格好でティーナは部屋の外に出たのだった。
 「あの…。い、いいんですか? セシリア様お一人にして…」
 ティーナに続いてすぐ廊下にやって来たディルナスは、ぱたりとドアの扉を閉めながらふっと吐息をついた。
 「うん…まあ。大丈夫だと思うよ。屋敷の者はみんな母上のワガママには慣れているからね。うまく対処してくれるだろう、きっと」
 「そ、そうなんですか…?」
 「そう。かなり昔からああだから。僕が赤ん坊の頃からずっとね、変わらない。…いや、ちょっとぐらいは変わったかもな。よくなるどころか、ますます悪い方へね…。で、ね。ああなるとね、ちょっと手間がかかるんだ。母上の癇癪がすぎると、もう誰にも手がつけられない。小さい頃から面倒を見てきたマージにすら手のほどこしようがなくなるんだ。その辺に目のつくもの、手当たり次第に壊しまくったり、大暴れすることもしばしばで…」
 さらりと言ってのけるディルナスに、ティーナはなんともいえない、不安感と複雑な胸中にかられた。
 今、ディルナスさまはセシリア様のことを『母上』って…。そう言ったわよね、あたしの聞き間違えなんかじゃ、ないわよね。
 でも、セシリアさまはディルナスさまのことをずっとお兄様って呼んでいた。もちろん、ディルナスさまも、セシリアさまに対し、実の妹のように接されていたし。
 それってちょっと…おかしくない? 
 それにそういえば、セシリアさまはディルナスさまのことを「ジェラルドお兄様」って…。今の王様のことよね、それって。
 それじゃ、それじゃもしかして――。 
 セシリアさまは、普通とは違う、何かのご病気にかかっていらっしゃるのでは…? 
 「だから、頃合を見計らって、いいところで切り上げて、さっさとこの場を退散しなくちゃ。君に被害が及ぶようになったら、それこそ申し開きができないほど、申し訳ないことになってしまう」
 直接口にしづらい疑念を抱いたティーナに向かって、ディルナスは知ってか知らずしてか、それらをすっぱりと払拭するかのように、どこまでもおだやかで満面な微笑みを浮かべるのだった。


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