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 ディルナス自らが先頭に立って案内し、ティーナは二階の奥にある客間に通された。
 彼からどうぞ楽にしていてと、部屋の中央部に置かれていた応接セットの肘掛椅子への着席を熱心に勧められたので、ティーナはそれに従ってすとんと腰を下ろした。
 「すまなかったね。朝早くから、食事も出さずに失礼した。後で何か、誰かにここへ持ってこさせよう」
 「いえ、そんな。あたし、そんなにお腹空いてませんからっ。昨夜たくさん、ご用意していただいたお夜食をいただいてて…。あの、どうもご馳走さまでした」
 ティーナがしどろもどろに御礼を述べつつ、座ったばかりのりっぱな肘掛椅子から慌てて立ち上がってぺこぺこと頭を下げる。
 それに対し、ディルナスは「どういたしまして」と軽く応じると、彼女に再度、椅子にかけるよう促した。
 「でもね、ちょっとうちが用意したものにしては、どうも急ごしらえすぎたものだったかもしれないなと思うよ。 名門デヴォンシャー家の名が汚すような、お粗末な内容というか…。はるばるロータスから出向いてもらったにも関わらず、ろくなご馳走もさせられなくてすまなかったね」
 「そんなこと…!」
 ティーナはぶんぶんっと大げさなくらいに首を振った。
 デヴォンシャー家の当主代理を務めるディルナスほどの身分ともあろうお人が、謙遜にも程があるというものだ、とでも主張するかのように。
 「ちっとも粗末なんかじゃなかったですよっ。調理パンも菓子パンも、本当にとっても美味しくって。夜中に小腹が空いたから、ちょっとつまむだけのつもりだったのに、気がついたらあたしったら、あっという間にほとんどたいらげてしまって…」
 椅子から身を乗り出さんばかりの熱弁をふるってしまい、途中でハッと我に返ったティーナは羞恥のあまりか、かあっと顔を赤らめて、うやむやに口ごもる。
 やだ……。これじゃ、あたしがいかにもすごくひもじい思いをしていたんで、ここぞとばかりにがっつきましたって、自ら暴露しているようなものじゃない?
 そんなティーナの胸中ぐるぐるうずまく微妙な乙女心を、敏く察しているのかどうかは定かではないが、ディルナスは終始温和な態度を崩さず、微笑み絶やさずティーナと向かい合ったままだった。
 そんなディルナスの対応に、どうにもいたたまれなくなったティーナは話題を変えるべく、自ら口火を切り出した。
 「それで、あの…ディルナス様? あたしがこちらのお宅にお招きを受けたのはあたしに…その…。何か、特別な御用時でもお有りなのでしょうか。えっと…もうすぐ学年末の試験も近いことですし、あたしまた学校に戻っていっぱい勉強しないと…」
 「そんな、来たばかりじゃないか。そう、急いで帰ることもないだろう?」
 「あ、でも…。いつまでもこちらにご厄介になるわけには…」
 「まあまあ。そんな大げさに構えなくてもいいじゃないか。君は何も案ずることないよ」
 「ええ? でもそれじゃ…」
 「ちょっとした休暇だと思って、しばらくゆっくりしていくといい。自分の家に帰ったつもりで、存分にくつろいでもらいたいな」
 ディルナスは満面の笑みをティーナに向けた。
 「王室付き専任の薬師のご息女でもある君がここで日々の生活を送るのに、何一つ不自由をさせないよう、屋敷一同努めてお世話をさせていただくよ。さすがに王都の王宮並みに整えるのは無理だろうけれど、これでも我が家はファナトゥ地方きっての名家のはしくれだからね。それなりにさせてもらう心づもりさ」
 「いえ、ですから。そういうことではなくてですね、あの…」
 自分を歓待すべく、心づくしのもてなしを彼女に施そうとするディルナスの配慮にはまことに感謝するものの、やはりティーナにはまず最初にはっきりとさせなくてはならないことがあった。
 何故この屋敷へ、突然このような招きを受けたのか。
 そしてディルナスは自分に何をさせたいというのか。
 まさか、本当に侍女のマージが言っていた、セシリアの話相手に自分が呼ばれたのだ、というのが真の用向きではあるまいに。
 それをディルナスの口からこの場できちんと説明を受け、自分がそれに納得するまでは、お茶の一杯だっていただくわけにはいかない。そう、ティーナはここに来る前からそれだけは頑なに心に決めていたのだった。
 「それじゃ」
 くすり。まるで謎をかけるかのように、ディルナスは唇の端に笑みをこぼした。
 それはティーナの詰め寄る態度とは反対に、彼女の言及をやんわりと受け止め、余裕すら感じさせる態度だった。
 「さっき階下で母上に会っただろう? さて、どうだったかな? 君の目から見て、母はどんな風に見えた?」
 すかさず話題を変えて自分に話を振ってよこすディルナス。
 それに対しティーナは当初、目を丸くして「は?」と聞き返してしまったが、すぐになんとかディルナスの問いの意図を把握したらしい。
 ちょっと目を伏せがちにしながらも、先ほど会ったばかりのセシリアの容姿を自分の記憶の中から引き出しながら、彼に自分の感想を伝えるのだった。
 「え、ええと…その…。こちらのお屋敷に参りました幼少の頃も、たぶんきちんとお目にかかっていなかったと思いますので、今日はその、初めてちゃんとお顔を合わせてお会いしましたが、本当におきれいでいらっしゃいますよね…。ずっとお噂はかねがね、こちらに参りまし折に父からも度々うかがっておりましたし、あと私の家にあります王家の方々を描いた肖像画のままというか…。あ、あの、とてもお若くていらっしゃるので、正直これもまた、たいそう驚きまして、ですね…」
 「ふうん。なるほどねえ…」
 うんうんとディルナスはティーナに呼応するようにうなづいた。
 ティーナにとってディルナスは目上の存在でもあり、また身分的にも格が上の貴人だとわきまえて話そうとしていることに気づいたらしい。
 ひとつひとつ言葉を選びながら、慎重に慣れない敬語を使い、年齢にそぐわない背伸びして答える姿がいじらしく、少しかわいそうになったと見えるらしく、「そのくらいでもういいよ」という具合に、続く彼女のコメントを軽く手で制した。
 「ああ、そうだね。いいよ、そんな気を遣わなくて。本当に率直な意見でいいんだ。そのまま、君自身の言葉で感想を聞かせてもらいたいと思ったんだから」
 「は、はあ…。そう、ですね…。なんていいますか、その…。少し、普通とは違うか、なー。…とか?」
 ディルナスに乞われたのを受け、多少なりとも普段の口調に戻してみるものの、それでもやはりどこか内容をぼかした物言いを続けるティーナに、彼はぷっと吹き出した。
 「ははは。だからさ、もっとはっきりと言ってかまわないんだよ。気狂いじみている、気が触れている。…あの人を一目見て、そうは思わなかったかい? ティーナ、君は」
 「――! あの、ディルナスさま…?」
 ずばり断言する彼に、ティーナの方が慌てた。
 ディルナスは養子の上、デヴォンシャー公夫妻と直接の血のつながりはない。
 そのことは、ティーナも父ガルオンからそれとなく耳にしていたように、事情を知る者にとってはほぼ周知の事実の上、またディルナス自身もそれを幼少の砌より十分に心得ているはずでもある。
 しかし、公夫妻はディルナスにとって、戸籍上とはいえ、唯一の家族なのはまぎれもない事実だ。
 養子として世話になっている身分でもあり、デヴォンシャー家に恩義を感じているのならば、母親であるセシリアのことを、そんなまるで、通りすがりの他人を見るような口ぶりでひどく蔑むのはいかがなものか。
 とはいえ、人それぞれによって家庭の事情というものが存在し、傍目からは何不自由ない暮らしの中に身を置き、誰よりも幸福そうに見えるディルナスとて、きっとそれなりに悩みは尽きないのだろう。
 それでもやはり、『家族』は『家族』だ。たとえ血のつながりはなくとも、同じ家に住まう者同士、互いをいたわりあってこその『家族』ではないだろうか…。
 そうは思うものの、しかし、ティーナの立場からはそんな忠言めいたことをディルナスに歯向かうように、あからさまに口にするのはえらくはばかられた気がしていたのでで、結局彼女はそのまま押し黙った。
 さすがにデヴォンシャー家の客人として、また父の立場も考慮すれば、身の程もわきまえぬ衝動的な言動はこの際、厳重に慎まねばなるまい、そう覚ったのだ。
 「……………」
 しかしディルナスは、自分を見つめるティーナの深い藍色の瞳の向こうに、言葉にならざる強い主張がこめられていることを察したらしく、多少なりとも申し訳ないという気持ちになったようだ。
 「ごめんね。僕が悪かったよ。…そういうつもりじゃなかったんだけども、君に誤解を与えてしまったようだね。すまなかった」
 自身の軽口が過ぎたものであったことを素直に認め、唇の端で薄く笑いながら、彼女に謝罪の意を伝えるべく、軽く頭を下げる。
 そして、
 「…義母(はは)は、とてもかわいそうな人でね」
 ぽつり、ディルナスはつぶやいた。
 先の話ぶりに見られる意気揚々さはどこへやら。うって変わった彼の豹変ぶりに、ティーナはひどくおののく。
 それまでディルナスが自分に呈していた温和でやさしげなまなざしはどこかへ消えうせ、何かひどく心痛むことが彼の身に降りかかっているのだろうかと、とっさに案じてしまうほど、その表情は暗く重く、実に悲哀に満ちた風情をたちどころに漂わせはじめたのだった。
 「…むかし、むかし。その昔、かわいそうなおひめさまがおりました」
 どことなく歌うように話ぶりで、ディルナスは口火を切った。
 「王都の王宮に生まれ、王のたった一人の妹姫として、蝶よ花よと育てられているうちは、まだ幸せだったに違いないと思う。でも、年を重ねるにつれ、彼女を取り巻く周囲の重臣たちから、その存在をさまざまな角度から値踏みをされはじめたんだ。その時から、悲劇の幕は切って落とされたことは、想像だに難くないだろうと思うよ。歌舞や音曲に親しみ、裁縫や刺繍を得意とし、様々な作法を一通りたしなみ、花を愛した少女は、誰からも慕われる、聡明で美しい姫君として国中の民草からたたえられただけに、成長し年頃を迎えた彼女がどんな末路をたどることとなったか…。それはそれは、実に見るも無残で、悲惨なるものだったに違いないな…」
 とつとつと語りだしたディルナスは、そこでいったん言葉を切ったが、すぐにまた先を続けた。
 ティーナは彼が一体何を言わんとしているのか、あまりにも話の内容が抽象的すぎて、その半分も理解できなかったが、それでもひたすら黙ってじっとその話の行く末に耳を傾けるのだった。
 「国にとって、王族の姫君というのは常に品物と一緒なのさ。重要なる取引に利用される、珍重な物質と同じでね。宝石や貴金属と同等の価値しか見出せないんだろう、国政を動かす者たちにとっては。そんな物と同一視された姫君を近隣諸国のどこに嫁がせるのが、いちばんこの国にとって最大の利益をもたらすか、否か。このことが国の繁栄にとって何よりも大切な問題だとされているんだ。現にそれは今の王の代になっても何一つ変わらない。君とてそれは十分知っているだろう? 君の父親のガルオンは薬師として王宮内にてそれなりの地位に立つ役職に就いていて、常に目の当たりにしているはずだし、三人の姫君の内、上の二人はそれぞれ別の国に輿入れさせたのはまぎれもない事実だからね。まだ王室には末姫が一人残されているけど、それとて大事な持ち駒のひとつだ。いずれはどこか、羽振りのいい大国の所へでも嫁がせて片がつくだろうよ。そしてその守りをますます強固に、全きもって完全なものとする。セレスト・セレスティアン万歳だ。産めよ増やせよ、永遠に栄えよ、天上の青をその名に冠する和が祖国よ、とね」
 ディルナスはまるで、己自身を重ね合わせて嘲笑するかのような勢いで最後まで一気に言い切ると、すぐ声をひそめて静かにつけ足す。
 「……せめて母上の相手も、同じ人であれば、どれほど救われたことだろうか」
 軽く首を振る。やるせなく、また、たまらなく。その顔に憂いと悲しみをしのばせて。
 「…僕は、母を助けたい。ただ、それだけなんだ」
 ディルナス…様?
 先ほどのずいぶん辛辣な皮肉をこめた祖国賛頌、といった感さえ漂う物言いとは異なり、えらく殊勝で淡々とした物言いだった。
 いったどれが彼の真意なのか、ティーナはわからず混乱をきたしかけたが、それでも根気よくその話につきあうべく、集中し続けるのだった。
 「いや、たぶんそれは母だけ、じゃないかもしれないな。自分も含めた全ての元凶でもある、悪しき災いを根絶やしにして、この国から何もかもを一掃させたい。――はじまりの空に、戻したいんだ」
 手を固く組み合わせ、そして目の前にいるティーナを真正面からしっかりと見据える。
 その瞳の色は、セルリアン・ブルー。
 どこまでいっても終わりがない、果てなく広がる遥か澄んだ空、そのままの色を鮮やかに宿していたのだった。
 そんな空の色した瞳が、ティーナを見つめる。
 まるで、彼女にこれだけは伝えたい、そして必ずや理解してもらいたいのだと訴えかけるかのように。
 「それが、僕の願いなんだ。ただ一つの、叶えたい望みだ。この命にかけても、それだけは貫き通したいと思っている。それにはティーナ、君の助けがいる」
 …え? あ、あたし、が…?
 ディルナスの口から自分の名前が何の前触れもなく、いきなりぽろりと出てきたので、ティーナは驚きのあまり、椅子からずり落ちそうになった。
 「ティーナ、君の力を借りたい。そのために君をここに呼んだんだ。どうか君に…助けてほしい。僕が…僕らが、とらわれているありとあらゆるしがらみから、全て開放されるために」
 「あの、それってどういう……」
 ティーナはディルナスからさらに詳しく事情をうかがおうと説明を乞う。
 自分に助けを請うことになったその決断の実、自分をここに招くまでに至る背景、そこに必ずや秘されているのであろう、彼のみが知るこれまでの経緯と詳細を聞き出そうとしたのだ。
 その、とたん――。
 これまでの流れを打ち破るかのように、こつこつとドアを叩く音がその場に響いた。
 「…はい。どうぞ?」
 「お客様とのご歓談中、大変失礼つかまつります。まことに恐れ入りますが、あの…ディルナスさま」
 ディルナスの入室許可を得て、ほんの隙間ドアが開いたかと思うと、ちらと顔を見せて頭を深々と下げてきたのは、先ほどの年配の侍女頭マージだった。
 王都から輿入れしてきたセシリア付の侍女でもある彼女自ら、接客中だとわかっていながら、ディルナスをわざわざ部屋まで出向いて呼び立てる、ということは…。
 何か母上に関連する大きな動きがあった、ということか。
 ディルナスは鋭く察すると「ちょっと、失礼」と、ティーナに言い残し椅子からさっと立ち上がり、マージの元へ寄って行った。
 「どうしたんだいマージ? …もしや、母上が何か?」
 ティーナの耳に入らないように気遣って、やや声をひそめて訊ねると、当の彼女はさっと顔色を変えて無言でうなずいた。
 「そうか…。今度は何? やっぱりいつもの癇癪起こして大暴れってとこかい?」
 「はい、すみません。そうですセシリアさまが、また…。もうこれ以上はどうしても私たちだけでは手に負えなくて…」
 「やれやれ。僕がティーナを連れて部屋を出て行ったせいか…。わかった、すぐ行く。――ティーナ」
 ドアの前に立ったディルナスがその場でくるりと振り返り、急に自分の名前を大きな声で呼んだので、とっさにティーナはぴんと背を伸ばして姿勢を正して彼と相対した。
 「ちょっと母のところに行ってくるよ。でもすぐに済ませてくるから、そこで待っていて。…いいね?」
 「は、はいっ。わ、わかりました!」
 「マージ、ティーナにお茶と軽く何か…。そうだね、水菓子でも出してあげて」
 「かしこまりました」
 「頼んだよ」
 軽く一礼したマージのそばをすり抜けて、ディルナスは足早に部屋の外に出て行った。
 そして、ほどなくしてマージ自身も。「少々お待ちくださいませ」とティーナに軽く会釈をし、再びドアをぱたりと閉めた。
 そのまま部屋に一人残されたティーナは、誰に聞かせることなく、ふうっと深いためいきをつく。
 それを皮切りに、先ほどまでの緊張がどっと解け、そのまま肘掛椅子の背もたれにだらんとよりかかり、椅子にゆっくりと身を沈めさせるのだった。
 
 
*  *  *   *  *  *

*  *  *   *  *  *


 しばらく、ほけらと何することもなく椅子に座り込んでいたティーナの耳に、かしかしと硝子板をひっかくような音がしだした。
 いったいぜんたい、どこからそんな変な音が出ているかと、ティーナは慌てて周囲を見回してみた。
 すると表のバルコニーに通じる硝子戸の足元の方で、何か白い塊をした生き物の前足が、繰り返し同じ動作を繰り返しているのが見てとれた。
 何…?
 ティーナが自分のいる方向に顔を向けていることがわかったせいか、その生き物はさらに勢いづいて硝子戸をとんとんと叩きだした。
 もしかして、あたし…? 呼ばれてる…の?
 どことなくそんな気がしたティーナは、導かれるままに立ち上がってそちらにつっと歩み寄ってみる。近づき、そっとしゃがみこむと、扉一枚隔てた向こう側にいる白い塊は一匹の猫だった。
 猫はティーナが来るのをさも待ってましたとばかりに、姿が自分に近づいてくるに従い、さらに両前足を戸のへりに乗せて軽く上半身を起こした。その仕草はまるで、彼女に早く部屋の中に入れてほしいと懇願し、催促を促しているかのようだった。
 ティーナはその意を汲み、急いで手を伸ばして戸の鍵を回し、レバーハンドルを下に押して手前に引く。
 とたん、猫は喜びいさんでその少しの隙間からするりと中に入り込み、ティーナの足元にすり寄ってきて、御礼代わりとでもいうのか、小さな声でにゃおんと鳴いた。
 「…そう。猫ちゃん、あなたそんなに中に入りたかったのね」
 話しかけながらティーナはそっと猫を抱き上げてやる。やわらかでふわふわ。その上あたたかな白い生き物は、彼女の腕の中が安心できるのか、気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らした。
 「うふふ、かわいい~」
 頭を軽くなでてやると、さらにうっとりと目を細めてふにゃーんと甘え声を上げる。この人見知りをしないなつき具合はお屋敷に飼われている猫のせいなのだろうか。
 ティーナはさらに自身の顔を近づけて、猫の顔に擦り寄った。すると猫はそれに応じるかのように、ぺろりぺろりとティーナの頬を小さくてざらついた舌でなめてよこすのだった。
 「…あ、ンン。やん、もぉ。だめだよお、そんなにしたら、とってもくすぐったい、ってばあ」
 大きな丸顔と瞳に比べたら、ずいぶん申し分けなさそうなほど、小さな耳を持った白い長毛種の猫。ずんぐりむっくりといった体型が特徴的で、まるでぬいぐるみのように愛らしい。
 ディルナスに案内されて、この広い部屋に一人残されて以来、どうにもいたたまれない気分を味わっていただけに、この猫に癒された気がするティーナだった。
 「ねえ、猫ちゃん。私、これからどうなるのかなぁ?」
 小首をかしげながら、そんなことをふいにたずねてみるティーナ。
 しかし猫は、自分が何を言われているのやらさっぱりわからないといった、きょとんとした顔つきでティーナをひたすらに見上げ続けるだけだったのだ。
 「…なんて、わかるわけないわよね。私にだってわからないことだらけなんだものね」
 「…そやな。確かにわいもよぉわからんな」
 ティーナの一人芝居がかった語りかけにも関わらず、自然に返事をよこす猫。そのあまりの突拍子もない出来事ゆえに、思わずティーナは「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて、とっさに猫を腕から離して後ずさってしまった。
 だが幸いというべきか、猫は持ち前の運動能力のおかげで、体をひょいと軽くねじり、上手に床の上に着地して事なきを得たのだった。
 「なんや。思ったよりも元気そうやないか。もっとしょんぼりしとるんやないかと心配しとったで、ティーナ」
 白猫は嬉しそうに尻尾をふりながらそんな軽口をたたいてくる。
 まさか魔法? それじゃ誰が? いったい、これはどういう…?
 目を丸くしながら驚きを隠せないといった表情を向けるティーナに対し、猫はどこか人を食ったような態度でにぃと満面な笑顔を向ける。
 気さくな方言交じりな口調といい、自分を良く知っているような素振りといい、どこかで見覚えがあるような、ないような…。
 ――もしや、この猫は。
 「もしかして…まさか、アガシ? あなたアガシなの?」
 「ご名答。さっすが、わいのティーナやな」
 自身の正体を当てられ、嬉しさを隠せないといった様子のアガシは長くふさふさした尻尾をふると、ぴょんと再びティーナの腕目がけて飛び込んできた。
 ティーナがはそんな猫に対して邪険に振り払うこともできず、半ば反射的にしっかりと猫の身体を両手で抱きとめた。
 すると、そこでまた感極まったアガシ猫はここぞとばかりに、ティーナの頬から唇から、ぺろぺろ、ぺろぺろと彼女の制止にも耳も貸さず、ひたすらなめまくりだすのだった。
 「…や、やだっ。ちょ、ちょっと待ってアガシ、ねえアガシったら、も、もういいわよ。わ、わかったから。あの、そ、それじゃ、あなた、まさかあの…。例の憑依の術を使って、ここまで来たっていうの…?」
 「せや。ティーナの一大事やろ。背に腹は変えられん。昨夜からわいも強行軍で追って来たでぇ」
 アガシの一族に伝わるという、先祖伝来の憑依の魔法術。
 自分の体はそのままに、意識だけを他の生物に乗り移らせ、動物たち生来の動きを意のままに操ることができるという。
 それはティーナたちが学院で主に習う近・現代魔法のテキストには採用されていない、古代魔法の領域でもかなり上のランクに入るほどの高等な魔法でもあった。
 以前、この術を駆使してネズミの姿となったアガシが、学院の寮の自室まではるばる自分に忠告をしにやって来たことがあるのをティーナは思い出したのだった。
 「いやー、それにしてもめっちゃ遠いねんなあ、ロータスからファナトゥまでは。こないに憑依したまま長距離移動も初めてやったからな、えらいしんどかったでぇ。まず、学院からはネズ公でおん出たやろ。その後、野っぱらでキツネに移ったんや。そっから駅でロータス地方への定期便の駅馬車を見つけてその馬に渡って、とりあえず駅まで来たところで、野ウサギになった姿であちこちかぎまわって情報を得て、屋敷の裏手まで。したら、ちょうど裏手の垣根の辺りでこの猫に出くわしたってわけや。さんざ、あっちこっち屋敷の表と中を行ったり来たりしとったら、ティーナの姿が見えたってんで、やっとこうして巡り会えたんや。わいの苦労を労ってくれるいうなら、思う存分喜びをわかちあおうや」
 かいつまんで事情を話しながらも、隙を見てはやたらティーナの腕に頭をすり寄せてきたり、あごの線から頬にかけて舌でひたすらなめてよこすアガシ猫。
 確かに、姿形や感触は猫そのものとはいえど、中身は彼というのはいかがなものか。
 どうも猫の姿にかこつけて、やたら好き放題されているような気がして仕方ないような…。
 「んもぉ、アガシったらいい加減にしてっ。言うこと聞かないとまた外に出しちゃうわよ!」
 ぷんぷん怒り顔でティーナは猫をぐいと自分の身から離すと、窓の外へ放り出そうと、足を向けた。
 「おっとっと。ひゃー。それだけは勘弁してぇな。堪忍やティーナ」
 アガシはそれをやられてはかなわない、とばかりに彼女の手の中でじたばたたと体をもがく。
 猫の姿といういたいけななりで、そんな必死の様子を見せられたら、さすがにティーナも動物虐待をしているような気分に陥り、渋々と折れる他なかった。
 結局、外には出さないが、これ以上アガシ猫に手を出されてはかなわないと思い、今度は室内に置かれていた大きなテーブルの上にそっと下ろして話を再開させるのだった。
 「ねえ、アガシ。それじゃラズリは…? ラズリはどうしてる? 何も変わったことはない? ケガとかしてない? 大丈夫?」
 「…はあ? なんやねん、この期に及んでまぁたラズリのことかいな。どーもつれなくて困るなあ、わいのおひぃさんは。こないにわいが命がけで来とる、ゆうのに、ちっともなびいてくれへんのか。切ないのぉ」
 「ち、違うわよ。そういう意味じゃなくて…。そ、それよりもっ」
 ミランダに何か悪さをされて酷い目に遭わされてはいやしないかという意味でティーナはただ案じただけなのに、どうもそれがアガシに変な誤解を与えてしまったらしい。なので、ティーナは慌てて話題を変えることにしたのだった。
 「二人して反省室行きの処分にされていたじゃない、三日間も。一体どういうきっかけでそんなことになっちゃったっていうの?」
 「あー。ああ…あれ、ね。もぉ、ええって。わーっとる。そんな済んだこと、いちいちあげつろうたらかなわへんな」
 「だって、カレンなんて泣いてたわよ、掲示板の前で。二人の処分が下された張り紙見てわーわー大泣きよ? とにかくどういう顛末だったのか、ちゃんと訳を聞かせてくれたって…」
 「ええて、ええて。ティーナはもう心配せんでもええんや。それにそないなつまらんことをぐだぐだ言うとる場合やないやろ、今は。人のことはともかく、自分の頭の上に降りかかった火の粉を払うことを先決に考えにゃならん時やろ。それにな、ちゃんとラズリも協力してくれてんねんで。わいがこの術使っておる間はだーれにも邪魔されとうないからな。やつに部屋で見張らせてんのや」
 「そ、そう…なの? 本当に?」
 「せや。今はちゃーんと元通り、大親友のまんまや。仲良ぉしとるでぇ」
 あれ? なんだか…。どうもまた、アガシに話がすりかえられてうまくはぐらかされたような。
 「あ、なーんやその疑いのまなざしはっ。信用してへんなティーナっ。…もお、しゃあないなあ。じゃあ、一個だけティーナが喜びそうなこと教えてやろうかい」
 アガシは尻尾をふさりふさりと振ると、これだけはあまり言いたくなかったかのようにいやそうに口を開いた。
 「ラズリ、あいつな、自分が学院を脱け出してでもこっちに来るゆうて、ものごっつう駄々こねて仕方なかったんやで」
 「――え。ラズリが、ここに? どうしてそんなことを?」
 「そう言われても…。わいもそこまではわからへん。でもな、あいつめっちゃティーナのこと心配しておったのは確かやで。わいもディーン先生も止めるのに手を焼いたぐらいやからな。でもな、ディーン先生から今度何かやらかして問題起こしたら退学、っちゅう切り札出されてやっと思いとどまったみたいやけど。…どや? な、ちょっと嬉しいやろ」
 「そんなこと…」
 アガシには軽く否定したティーナだったが、言ったそばから胸の鼓動が高鳴って、喉の辺りが熱くなるのをどうにもおさえられなかった。
 「…でもよかった。ラズリが無事なことがわかって。それだけでも知れてよかった。…ありがとうね、アガシ。帰ったらラズリに伝えてくれる? あたし、元気でやってるから心配しないでって」
 「…ちぇっ。なんだよ、それ。わいに橋渡しをやれってんのか? かーっ。そらないでぇ? こないにティーナを好いとう、わいの純情踏みにじった上に、恋のキューピッド役をやらせようたあ、かわいい顔に似合わず、えろういけずなオンナやなあ」
 「んもぉ。アガシったら…!」
 何を言ってもそっち方面に話を結び付けてからかいたがるアガシに、ティーナはさらにむきになって言い返す。
 「そういうつもりじゃないってさっきから言ってるでしょっ。茶化さないでっ。あたしはただ、ラズリが危ない目に遭わないでもらいたいのっ。無事でいてくれたら、本当にもうそれだけでいいんだってば…! だってラズリは王…」
 言いかけて、ティーナはしまったと思い、慌てて口をつぐんだ。
 「お? ラズリがどうした…? その後はなんやて?」
 アガシは彼女が濁した語尾の先を言及したが、ティーナは「なんでもないの」と勢いよくぶるぶると首を振った。
 あぶない、あぶない…。うっかり口を滑らせるところだった。
 まさかラズリがラズウェルト王太子様だなんて、アガシにばらしでもしたら、変に面白がってただじゃおかないでしょうね。
 それでなくてもミランダ先生みたいな人に刺客としてその命を狙われているんですもの。もしかしたら、アガシにだって類が及んでしまうかもしれないし。
 「と、とにかくラズリのことよろしくね。お願いよ。アガシだけが本当に頼りなんだから」
 ティーナはアガシ猫に両手を合わせてぺこりと頭を下げた。
 まさか彼女からこの場でそんな頼みごとをされるとは思わなかったアガシ猫は、思い切り目尻を下げて、にたにた笑いながら尻尾を振った。
 「…なんやずるいなあ、ティーナ。そないにかわええ仕草で、お願い、なんてされたら、わいもうそれだけでメロメロやんか。…ま、肝心のお願いの内容はちと気にくわんが、それでもええがな。愛するティーナのためなら、わいも男や、まかしとき。ちゃんとやったるで」
 「ありがとう、アガシ…!」
 「いやもう、礼なんてええってええって」
 何度も頭を下げてくるティーナにアガシは「かまへんかまへん」と首を横に振った。
 「御礼なんざこの際どーでもええから、なあ、ほれ」
 甘えるような仕草でごろごろと喉を鳴らしながら、アガシはティーナのそばに近づいていった。
 「頼むで、ちょっくら、その…わいのことぎゅってしてくれへんか? そんでもって、こう、ここにぶちゅっとしてくれたら、わいはそれでええねんけど…」
 「あ、アガシったら…! ちょ、ちょっとそれは…。そ、それはだ、だめぇ。そんなの、恥ずかしくてできないよぉ」
 「ええやんかー。なあ、ちょっとだけでええから。さっきやて、ティーナの方から頬すりよせてくれたやないか」
 「あ、あれは…! だ、だって最初はアガシだってちっとも知らなかったんだもんっ」
 「せやからそこをなんとか。…なあ? ティーナ」
 「…あー、もう。そこらでいい加減にしないさいよね、あんた達」
 二人の会話を突如、遮って、急に第三者の声が背後で響いた。
 「黙って聞いてりゃ、いったい何なのよ。こっちの方がよっぽど恥ずかしいわ。っとに、なーにをこんなところまで来て乳くりあってんだか」
 聞き覚えのある甲高い声がした方向に二人は慌てて振り向いた。
 そして、そこにいるのが誰だかわかると、あっと息を飲んで驚愕の表情で目を見張った。
 「み、み、ミランダ先生!」
 「おいおいおい、ちと待たんかい。どういうこっちゃ? なんでまた先生がこないなところにおるんやっ」
 二人から少し離れた距離にいたミランダは、ほとんど局部しか覆うところがないぐらいに体を露出させた、いわばボンデージにも似た黒皮の衣装に身を包み、腕を組んですっくとこちらを見下ろしていた。
 そのどぎつくも衝撃的な装いも含め、彼女の突然の出現に目を見張って驚く二人を前にして、ミランダはボリュームのあるプラチナブロンドの長い髪をふぁさりとかきあげ、真っ赤に塗られた唇をきゅっとつりあげながら、荒々しく声を張り上げるだった。
 「おだまり、下等生物。…はん、憑依の術ですって? ひよっこの魔法使いにもなっていない、しょせんタマゴくせに、小賢しい真似なんかしちゃって。そんな成りでどうやってそこの小娘を守るつもりだっていうの?」
 「じゃあかしいわ、おばはん! こっちだってな一応、武器はあるんやでぇ。わいのこのツメでな、おもきしひっかいていやる! 後でほえ面かくなよ!」
 アガシとてミランダに負けていない。ひるむどころか、とんっとテーブルの上から飛び降りると、ふーっと毛を逆立てて怒りを露に示すのだった。
 「オーッホッホッホ! しょせんこわっぱどもがっ! 無駄なあがきだことっ。身の程を知るがいいわ。たかが魔法学校の生徒ごときが、あたくしに敵うと思って?」
 「はんっ。さあな。そいつぁ、やってみなくちゃわかんねえってんだよ」
 「やめてお願いっ。アガシ、危険だわ!」
 「ええから…! ティーナは下がっとれ」
 アガシがティーナに一喝した。ミランダから彼を遠ざけようと、ティーナが慌てて自分を抱き上げようとした矢先だった。
 それからアガシは四足を踏ん張って上体を低くして、相手の懐目がけて攻め込む隙を狙いながら、ミランダに向かってうなり声を上げはじめる。
 「…どや。この間わいが言った通りやろ。わいの勘はめっぽう働くんや、ちゅうたろうが。こいつ…やっぱりどっか変や、おかしいと思たら、こーゆーことやったんか。なんや詳しい事情はわからへんけどな、こないなとこまで追っかけてきよった上に、お命頂戴なんざ、正気の沙汰やないで?」
 「ちょっと待ってったら、アガシ。あなた今、ここにいないのよ? 猫の姿を借りたままじゃない。自分の身に憑依の魔法をかけた姿で、ミランダ先生に歯向かったら…。元に戻れなくなっちゃうかもしれないでしょうっ。そうなったらいったいどうするのよ!」
 「…そうなったら、か」
 ティーナの必死の説得にアガシも少しは折れる気になったかと思いきや、どことなく薄く乾いた笑いをもらしながら、何の躊躇もなく先を続けるのだった。
 「そやな、その時はそれでもええかもな。わいな、猫の姿でティーナにかわいがってもらえたら、それもなかなか悪かないな、ってさっきちょっと思っていたところなんや」
 「んもぉ、ばかっ。こんな時にふざけたこと言ってる場合じゃないでしょっ」
 だめだわ、アガシったらもう死にに行く覚悟ができてるみたいな口ぶりじゃない。
 そんなのダメよ、賛成できない。できっこ、ない。いけないったら、いけないことだもの。でも、それじゃ…。
 どうしたらいい? どうしたら…。
 ティーナは切羽詰って制服のポケットをあちこちまさぐった。
 ミランダ先生の魔法には確か、あの守り石が効いたはず。
 あたしが術にかかって、ラズリの命を奪おうと襲い掛かった時も、あの石のおかげで元に戻れたんだもの。だからきっと、あれがあれば、あれが…。
 ――って。そうだった…! あたし、あれラズリに返してもらうようディーン先生に頼んだんだった!
 やだやだやだ、どうしてこんな時に。ああ、もう…!
 ようやく事の次第を思い出したティーナは、半分泣きたい気持ちに陥った。
 この事態をなんとかしたいのに、なんとかできないのはいったいどうしたらいいのか。
 しかし考えをめぐらせてもどうにもならず、仕方なく途方に暮れかけた、その時、彼女のポケットからころんと何かが落ちて、下の絨毯貼りの床の上に転がったのだった。
 ……胡桃?
 慌ててティーナはしゃがみこみ、それを拾い上げてしげしげと表面を眺める。何の変哲もない、ごくごく見慣れた、手の平に載る、ころんとしたかわいらしい茶色い種。
 けれど、表面には何やらうっすらと、秘文にも似た古代文字が刻まれており、それがそんじょそこらの、ただの胡桃ではないことが明らかだった。
 『これはね、魔法の胡桃なんだ。君が困った時、きっと助けてくれるから……大切にするんだよ』
 魔法の胡桃…。ってことは、何か便利な道具には違いない、わよね。きっと助けてくれるからって、先生がよこしてくれたもののはず。だから、絶対に嘘じゃないわよね。
 じゃ、じゃあ。今こそ、これを使わなくちゃならないんじゃない? だって、本当にすっごく困ってる状況にいるもの、あたしたち。だからこれを絶対に使うべきなのよね、うん。
 でも――。これ、どうやって使えばいいんだろう。
 「ちょっとお。アンタたちっ。だーらなんですぐに二人の世界を展開しちゃうわけぇ? そっちが来ないつもりなら、こっちから行ってさしあげましょうかあ?」
 「はんっ。うっせーな。能書きたれとらんと、さっさと来いや!」
 「あらん、そぉお? …じゃあ、遠慮なくやっていいわけね?」
 ティーナがはっと気がつくと、ミランダとアガシはいよいよ戦闘態勢に入ったらしい。両者にらみ合いのまま、じりじりと間合いを詰め始めているところだった。
 「ちょ、ちょっと! だからダメぇ、ダメだってばぁ! やめて、やめてよっ。やめてったら、お願い! アガシもミランダ先生も、待ってよ! どうか落ち着いてっ!」
 わあわあわあ、どうしようどうしよう! 早く何とかして早く! 胡桃、胡桃、どうしたらいいの、ねえ、お願いだからっ。
 ああん、もうもうっ! こんな肝心な時に! どうして何も反応してくれないのっ…!
 ティーナは半べそをかきながら、両手で胡桃をひたすらにいじりつつも、どうにかこうにかして二人のいさかいをを止めようと、慌てて前に躍り出た。
 「邪魔よティーナ。アンタの始末はそいつの後! あたくしの完璧な計画を全ておじゃんにしてくれた分、たっぷりとかわいがってあげる。でも、まずはそこの化け猫を片付けてからねっ」
 「うっせー! そう簡単にわいがやられるか、よ…!」
 「待って二人とも! お願いしますっ。どうか助けて…! ディーン先生っ…!」
 ぱかり。 最後の一念が効を奏したのか、それともティーナがめちゃめちゃに弄んだ結果なのか。胡桃は何かの拍子で自然と二つに割れ、殻が外れた。
 すると――。
 「――!」
 やにわにぱあっと明るい閃光が胡桃から発せられた、やいなや、その光は放射状に幾枝にも分かれ、鋭い矢のように周囲を貫いていくのだった。
 そのまぶしさのあまり、ティーナをはじめ、アガシもミランダもそれぞれ顔をそらしたり、手でまぶたを覆い隠したりして、光を直視して目をやられないよう特に努めた。
 その内にやがて、徐々にその光が収まっていくにつれ、何がその場で起きているのか、直に確かめようとして、ティーナはゆっくりと目を開けた。
 ――とたん、
 「…さっきからずっと聞いておれば、あなたの方こそずいぶん好き放題にしておりますことで。…ふうん、小賢しいですか。そういうあなた自身が、小賢しい真似で本体から分離した分身のくせにね」
 ふいにまた、聞き覚えのあるそんな声がティーナの耳に届いた。
 慌てて、声のする方向に顔を向けると案の定、そこにはミランダ同様、校内でよくよく見知った顔がそこにいた。
 「ディーン先生…!」
 長身の、どことなく年若い青年といった風情を残す彼は、ツィードのジャケットの上に白衣姿というふだんの服装のまま、腕組みしながらミランダと対峙しているのだった。
 どうしてディーン先生がここに…?
 次々と出現する彼らのそばで、ティーナは事情がのみこめず、ただおろおろするばかりだった。
 「しょせん似せモノは似せモノらしい振る舞いというものがあると思いますよ。あなたのお相手は私が引き受けましょう。私もしょせん、本体ではない似せモノですからね」
 「き、キサマ…! 何故にここにいるっ」
 「それはこちらの台詞ですよ。まあ、それはさておき。さすが亀の甲より年の功ですね。お年寄りの言うことも一理あるといいますか、ごもっともなことです。アガシ、君はもう帰った方がいいでしょう。こうしてティーナの無事も確認したことだし、これ以上、憑依したままの姿でい続けると、ひょっとしたら二度と元の自分の身体に戻れなくなってしまうかもしれないからね」
 「ちょ、ちょっと待ってくださいディーン先生。あの、どうして先生がここに? それよりもどうして? アガシの憑依の魔法をご存知なんでしょうか」
 ティーナが慌ててディーンのそばに駆け寄ると、彼は彼女に向かって膝を折り、深々と頭を垂れて、うやうやしくお辞儀をするのだった。
 「こんにちは。ティーナ・アルトゥン嬢。それにアガシ・ハズラット・ハーディン殿。こんな場所でなんですが、お初にお目もじつかまつります」
 「はあ? なーにがお初にお目もじやねん。毎日のように学院で会っとるやんけ、先生とは」
 「いえいえ、私はこうして実体を伴って、あなたがたの前に姿を現してお会いするのは、本当に今日が初めてなんですよ」
 「じ、実体って…?」
 怪訝そうな表情で首をかしげるティーナとアガシ。そんな二人に彼はにこりと笑みを浮かべた。
 「そうです。私は彼であって彼ではありません。あなたが先ほど割った胡桃の中から出てきた私は、本体の命じにより封じられていた彼のコピー、いわば映し見、鏡像であります。あなたがたほら、よく私をご覧なさい。彼とは少しだけ、見た目が異なっているでしょう? 何もかもが左右反転になっているはずですよ。おわかりになりますか」
 そう言われてみれば…。
 ティーナは改めてまじまじと、目の前に立つディーン教諭とそっくりの彼を見上げた。
 髪の分け目をはじめ、目元にあったほくろなど、確かによく見ればどことなくいつもと違うような気がしだしてくる。
 「それじゃ本物のディーン先生は今もちゃんと学校に…?」
 「左様。今日の彼にはどうしても抜けられない授業が幾つかありましたので。それと、自身のお命と引き換えてでも守らなければならない、最重要課題ともいえる使命もね」
 にっと笑ってディーンは、いやディーンの映し身は、ティーナの顔の前でおどけるようにちょいちょいとひとさし指を振った。
 「だからといって、あなた方の大事に目をつむって流してしまうわけにもいかないでしょう。自分のかわいい教え子たちの命が危険にさらされている現場を見過ごしたら、それこそ教師失格ですからね。なので、こうして私が主から使役を仰せつかって派遣されたのです。ティーナ嬢、あなたが先ほど胡桃を割って下さいましたおかげで、私はこうして姿を現しているのです。そうですね、彼本体と区別を図るためにはダッシュをつけていただいてもかまいませんし、いっそミラーとでも何なりと。あなたさまのお好きに呼んでいただいてけっこうですよ」
 「は、はあ…」
 すらすらとよどみなく続く、彼の弁舌さわやかな説明に気圧されてしまい、それ以上は何もいえなくなってしまうティーナだった。
 しかし、そんな彼女のことなどおかまいなしに、ディーンの映し身はてきぱきと身につけた白衣の袖をまくりあげ、ミランダとの戦闘態勢をに入るべく一人で身を整えだす。
 「…さて、と。それじゃそろそろ仕事をはじめさせていただきましょうか。ティーナ、下がって。もちろんアガシ、君もだ。そろそろ本当にタイムリミットだ。本体に帰りなさい」
 「な、なんやねんいきなりやって来て。じゃあかしいわ。こんなおいしい場面の途中で引っ込んでなんぞおられるかい。それこそわいの男がすたるっちゅうもんや」
 「結構。いい心がけだ。愛しいご婦人を守るために身を挺してかばう、その心意気には有り余る敬意を払うよ、アガシ・アズラット・ハーディーン。君は確かに自身の危険を顧みず、十分に騎士道精神を発揮させた。しかし、これ以後のいざこざは少し君には荷が重過ぎる。ここの仕切りはひとつ、自分に任せてくれまいか。…そもそも年増の女性の相手は、君の範疇ではないだろう?」
 「ちょっとお…! 何よそれ。聞きづてならないわねえっ」
 「…おや、聞こえてましたか。ずいぶん地獄耳ですねえ」
 三人の会話に割って入ってきたミランダはいらいらしながら、「はんっ」とあざけるかのように鼻を鳴らした。
 「仕方ないじゃない! 同じ部屋にいる上に、あんたがでっかい声でくっちゃっべってるから、聞きたくなくても耳に入ってくんだから! 大体、そのつるぺた・のっぺり顔の、そんじょそこらにいる十羽ひとからげの類の小娘程度と、このあたくしを比べる方が間違ってるってもんよ。この完璧なまでの美貌と磨きに磨いた身体に、そう太刀打ちできるわきゃないでしょうにっ…!」
 うわぁ…。なん、か…。それって…ちょっと? ミランダ先生の分身にしては、ずいぶんひどい口調でまくし立ててくれるじゃない。
 ううん、でも。もしかしたら、本当のミランダ先生ってこんな人なのかもしれないわ、きっと。
 だけど――。
 思わずティーナはうつむき加減に視線を落とした。その方向にはちょうど自分の胸の盛り上がったところでもあり、ついしげしげと眺め入っててしまう。
 そりゃ、ミランダ先生にはどうしたってかないっこないけど、でもそんな、あたしだってそれなりに、せめて標準くらいはあると思うの。だもん、そこまでまっ平らってわけじゃあ、ないはず…なんだけども。
 「やれやれ。だから、年増女のひがみは恐ろしいってわけですよ。正体見たり、だ」
 ひょいと肩をすくめてミランダの毒舌をやりすごしたディーンの映し身は、軽く唇の先に笑みを浮かべて猫のアガシの方に視線を投げた。
 「なあ、アガシ。これでわかっただろう。こわーいオバサマにとっつかまって呪い殺される前に、とっとと帰った方が君の身のためさ」
 「うんにゃ。それがなんや、っちゅうんや。わいのティーナの前でそれっくらいのことで尻尾まいて逃げられるか、ってんだ。ここまできてカッコ悪い姿なんざ見せられるかい」
 「おやおや。こちらもですか。手に負えませんねえ、血気盛んな若者は。それでは仕方がありません。実力行使といきますか」
 途端、ディーンは足でアガシ猫の身体を上から踏みつけ、むんずとその首根っこをつかむと、彼と正面から顔を合わせた。
 「うわっ。は、離せ…! ええい、こんチクショウ! 何しやがんだテメェ」
 じたばたと手足をばたつかせるアガシ猫に、ディーンは思い切り目を細めてにーっこりと満面な笑みを浮かべた。
 「そんな恨まないでくださいよ。それもこれも、あなたの身の安全を思えばこそ、なんですから」
 と、言うが早いかディーンはアガシ猫の身体をぶんっと空中に放り投げ、すかさず高速で魔法の構文を唱え始めた。
 「いやあ、アガシ…! ダメぇっやめてぇ、やめてくださいディーン先生っ!」
 「心配ご無用ですよティーナ嬢。――はっ」
 軽く印を結んで最後の結句を唱えると、ちょうど折りよく猫の身体はディーンの手の中に落ちてきた。
 すっぽりと彼の手の中におさまった猫は、ふみゃふみゃ、にゃおにゃおとひとしきり鳴き声を上げて騒ぎだした。
 だが彼が、猫の身体をそっと床の上におろすとやっと安心したようで、すぐ静かに鳴きやんで、後ろ足で耳をかいたり、ぺろぺろと自分の身体をなめだしたりしたのだった。
 「アガシ…!」
 慌ててティーナが猫のそばに駆け寄ると、猫はびくっと身体を震わせてひらりとその場から立ち上がり、さっさと尻尾をひるがえして、小走りに部屋の隅へと去っていった。
 「アガシ…?」
 「大丈夫ですよティーナ。彼は間違いなくちゃんと帰りましたはずです。学院に置いたままの自分の身体にね」
 「本当…ですか?」
 「ええ、大事ないはずです。今頃は目を覚まして、学院の自室のベッドに横たわっている自分の身を起こしながら、そばにいるラズリにおはよう、ああよく寝た、とでも言っている頃でしょう、きっと」
 アガシのことを心配するあまり、どことなく思いつめた表情に沈むティーナに対し、ディーンは笑いながらさくっと答えた。
 彼女の不安を一掃し、全て取り去ってやろうとでもいうのか、軽妙な語り口の上、ウィンクまで交えながら。
 「さあて、これで邪魔者はいなくなりましたよ。どうぞお好きに。どこからでもかかってらっしゃい。存分に己の持てる全てをぶつけてくるがいいでしょう。私もこでは力を出し惜しみませんよからね」
 「ふふふ…。そんなハッタリをきかせて。自分は余裕があると見せ付けてるつもり? いくら分身といえども、本体の一部でもあるあたくしに、映し見の鏡像が勝てるとお思い?」
 「御託はけっこうですよ。そちらがかかってこないなら、私の方から先にまいりましょうか」
 両者にらみ合い、今しも一触即発の状況を目の当たりにしたティーナは、自分は何を手助けすればいいのかわからず、ただただ、ひたすら落ち着かないまま、事の行く末を見守る他なかった。


* * * * * *


 ――ああ、たぶん。きっと今、アガシはティーナに会っているのだろうな。
 ラズリは椅子の背もたれに腕をのせたままの姿勢で、自分のベッドの隣りで横たわるアガシの身体を眼下にぼんやりと眺めながら、ふとそんなことを思った。
 ディーンの元から去った後、寮の自室に戻ってきたとたん、アガシはラズリに告げたのは、自分が代わりにファナトゥに赴き、ティーナの様子を見てきてくる、ということだった。
 「…ばっか。おまえ、おい、一体何を考えてんだ。お前こそ退学する気かよ」
 呆れ果てるラズリに対し、アガシは「ちゃうちゃう」と手を振って笑いながら否定した。
 「わいはどっこにも行かへんで? この身体はちゃあんとガッコにおったままや。せやから無断外出には絶対にならへんやろ」
 「…おまえは莫迦か? 体で移動しないでどうやってファナトゥまで行くっていうんだ。ええ?」
 「いや、行けるで。わいなら、心だけ分離して飛ばすことができる。もちろんこれはわいにしかでけへんけどな」
 にい、愉快げに唇の端をつりあげさせながらアガシはこみあげる笑いをこらえていた。
 まるでいたずらっ子が、大人も子供も口をあんぐりと開けてびっくり仰天するような、どえらい大掛かりな仕掛けで悪さを試みようとでもするかのように。
 「もしかして…アガシ。おまえ、あれか? あれをやるのか? あの憑依の魔法術を…!」
 「ひゅう。ご名答。さっすが我が校一の秀才やな。ドンピシャや」
 「な…! それこそ大莫迦者だぞテメェ! そんな危険な術なんざ使おうとする方がそもそも間違ってるだろうに。いったい何考えてんだよこのクソったれがっ。自分の命あっての物種だろう。戻れなくなったらどうする気だ!」
 怒髪天をつく勢いで、やおらラズリはアガシにつかみかかった。
 しかしアガシはそれに反し、妙にはしゃいだ声で「きゃー! ロープロープ! 待てよ待て待てっ。ラズリ、落ち着けっての」とかなんとか、彼をどうどうとなだめて、やっとのことでその手から逃れた。
 「ふぃー。いいからそう熱くなんなよラズリ。さっきディーン先生からも言われたやろが。落ち着いて考えてみよし。さもないと冷静な判断ができんようになる、ちゅうてな」
 「事と次第による。お前みたいな莫迦者には呆れてつける薬もないな」
 「まぁ、ま。そう目くじら立てんでもええやろうが。…そやな、わいも一世一代の大バクチやと思うとる。それにな、ちょっくら、冒険してみたいっていう気もほんまにあるんや。憑依したままどこまで行けるんかをな、誰にも邪魔されずに思い切りよくポーンと飛距離を伸ばしてみたいしな。せやからその実験も兼ねて試したいねん。頼む、ラズリ! この際わいにつきおうてや」
 両の手を合わせて「お願い」と頭を下げてくるアガシに、もはや何を言って止めても無駄なことを十分に承知していたラズリだった。
 元から無茶を平気でする奴ではある。その上さらに、今回はティーナがからんでいるとあれば、誰が正答を説いたとて、彼の暴走を止める手立てなどないのだろうから。
 「…いいだろう。だが条件付きだ」
 「へ? 何? ええのんか? お、おう。どんなことでもやったるでぇ。裸踊りでもストーキングでもどんとこいや! …いやむしろ、そっちの方が得意分野かもな、わい」
 妙に真顔になってうんうんとうなずき出したアガシに対し、ラズリが一喝する。
 「この大莫迦っ。いったいどこの誰がおまえの粗末なモンなんか、見たがると思うんだよ!」
 「あ。ひでっ。ラズリ、何だおまえ気づかへんのか。いっつも一緒に風呂に入る時に見とるくせに。わいが自分で言うのもなんやけどなあ、わいのジュニアはな、色も形も大きさも申し分ないほどやし、そらもう名器と呼んでくれてもいっこうにさしつかえな…」
 「あー! もうごちゃごちゃうるせぇぞアガシ!」
 ぜいぜいと肩で息を荒げながらラズリはアガシに向かってびしっと人差し指をつけつけた。
 「…いいか? 耳の穴かっぽじってよく聞けよ。ひとつは時間制限だ。何が何でも二十四時間以内には帰ってこい。最悪、目的が達せなくてもかまわない。それを過ぎても帰らなかった時は俺がお前をひっぱたいて強制的に身体に戻させる」
 「んー。まあ、そらしゃあないな。いつまでもふらふら自分の体から彷徨っておったら、そのままおっ死んじまう可能性も大やからな。…んで、もうひとつ、言うのは?」
 「それは、本体のおまえに危険が迫った時だ。何らかの事情で憑依の最中に、お前の身体に異常が見られた場合は即刻、身体に連れ戻させる。これもまた、目的が達せなかった場合でも同様だ。時間関係なしに、緊急の事態が起きてからではまずいからな」
 険しい顔つきでラズリははっきりとアガシに告げると、さらに二本指を立てて、びしっと彼につきつける。
 「…以上、この二点だ。いいか? わかったな? 必ず約束は守れよ?」
 「はー。それもしゃなあいか。でもなあ? ラズリ、おまえだってティーナが心配やないんか? 目的が達せなくたっていいって、そらないで? あえて危険を承知で成功させるために、わいが自ら命かけるゆうんやで」
 「大丈夫だ。何もなければ彼女だって事が済めばちゃんと戻ってくるだろう。…俺たちは、何か事が起きることを想定して行動するわけじゃないんだからな」
 ラズリはとっさに、胸元に手をやった。制服のシャツごしに触れる、固い触感。それはティーナから渡された彼女の守り石だった。 彼女の身に何かあれば、きっとこれが何らかの力を発動させるに違いない。そうラズリには確信があった。
 ……あの時。ミランダがティーナにほどこした古代魔術の緊縛。それを解いたほどの威力さえあれば、たとえどれだけ遠く離れていてもすぐにわかることだろう。それはまるで暗闇の中で明滅を繰り返すシグナルのように、どこにいたって必ずや…。
 守り石に彼女の安否を念じるかのように、ラズリはきゅっと唇をかみ締め、再び決意も新たに、アガシに向かって自身の主張を述べ伝えた。
 「とにかく、それが条件だ。それが飲めなければ俺はこの際おまえの提案に賛同することはできない。降りる。それから密告してでも、おまえのその莫迦な行為などやめさせるぞ。いいな?」
 「…おーらい。 わーった、わかりましたよ。ったく、なんだってそないに莫迦莫迦言わんでもええやろなあ」
 「何ぃ? 何か言ったかこのクソ莫迦野郎が」
 「へーへー。もぉええわ、好きに呼んだりや。…そんじゃ、いっちょそれでやったりまひょ」
 ラズリの剣幕に押され気味になりながらも、アガシは彼の提案を飲むことにした。
 アガシは着ていたシャツの喉元をゆるめ、すぐさま自分のベッドに横たわり、静かに目を閉じて自身に術を施しはじめるのだった。
 それ以来、ずっとこうして何することもなく、ぼけらと彼のそばで過ごし続けているラズリだった。
 もちろん彼から、自分が憑依の魔法術を行っている内は誰にも起こされないよう見張っていてほしいと頼まれたせいもあったが、何かしようにも、彼の動向がどうにも気になって仕方なく、勉強すら今は手につかない状態だったのだ。
 憑依中のアガシを観察しはじめて最初の内は、ずっと眉根を寄せたり、けわしくもいかつい表情を浮かべていた。
 だが、時が経つにつれ、それは次第におさまり、やがてだんだんとおだやかで和らいだ様相に変わっていく。
 そしてさらに、つい先ほどからはどうにも幸せな微笑みで崩れそうなほど頬をゆるませたり、しまりのないにたにた笑いを繰り返しだしたのだった。
 なんだあ、こいつ。何を一人で百面相なんかやってんだよ。気もち悪いやつだなあ。
 そう思ったのも束の間、すぐにラズリは気がついたのだ。
 もしかして今…。アガシは、ファナトゥのデヴォンシャー家にたどり着き、ティーナに会っているのではないか、ということを…。
 そうか…そうだな。たぶんきっと、間違いないだろう。よかったな。やっと会えたんだな、ティーナに…。
 それではいったい、どんな状況下でアガシは彼女との再会を果たしのだろうか。
 彼の幸せに満ちあふれた寝顔からは、漠然としか判断できない身の上にあるラズリには到底、それすらも計り知れないことだった。
 鳥だろうか。獣だろうか。それとも昆虫だろうか。
 アガシがどんな生き物に憑依して、ティーナと見えているのかなどいうことすら、ラズリには想像だにできなかった。
 だが、たとえどんな姿であろうとも、その場所で彼女と対面できるアガシが彼には心底うらやましく思えて仕方がなかった。
 もしも――。
 そんなたとえは、しょせんただの気休めとは思っていても。
 それでも、もしも…。
 彼女と面と向かって、自分も直接、会話を交わせることができたのならば…。
 そうしたら、聞きたいことが山ほどあるのだ。
 言い募りたいことは、波のように絶え間ないのだ。
 あれもこれもと、後から後から心騒いで止まない様は、まるで自分がどこからともなく吹き渡る風の中でその身がさらされているようで、どうにも落ち着かなくなるのだった。
 おい、ティーナ。おまえはどうしてそう一人で何もかも決めて、さっさと行ってしまう? 自分の分身でもある、この守り石を俺に預けてまで。
 もしかしたら、おまえの方こそその身に危険が迫っているやもしれない。なのに、何でいつも後先考えずに行動する? 毎度毎度、どうにも向こう見ずでばかな真似ばかりしやがって――。
 こんなに心配している、こっちの身にもなれってんだ。
 ラズリはひどくたまらない気持ちに苛まれて、そっとまぶたをつむねってみた。
 この次ティーナに、会えたら……。
 ラズリは自身のまぶたの裏にティーナの面影を描いて、再び深いためいきをついた、まさにその時だった。
 「…うわああああっ!」
 何の前触れもなく、突如として叫び声が響き渡った。そのあまりの大音量さ故に、ラズリの方が思わず椅子から転げ落ちそうになったほどだ。
 「あ、アガシ――?」
 慌ててラズリは椅子から立ち上がり、横たわっていたアガシのそばに駆け寄る。
 先ほどまで静かな寝息を立てていた彼の様子とはうってかわり、肩で息をするほどの激しい勢いにラズリはあっと息を飲んだ。
 シャツがびっしょりとなるほどの寝汗をかいたためなのか、髪もざんばらに乱れ、憔悴という言葉がぴったりなほどくたびれ、とてもやつれはてた顔色だった。
 「お、おい。おまえ大丈夫なのか、アガシ。おい、アガシってば…! さっさと返事しろっ! 早くこっちに、この身体に戻って来い!」
 「ラズリ…?」
 まだ完全に目を醒ましきってはいないらしく、きょとんとしたまなざしを浮かべる彼の肩をラズリはゆさゆさと揺さぶった。
 「ここは…? あ。ああ…。せやな、寮におったんやな、わい。戻ってきたんやな。ティーナに…会って。それから…」
 「それから…? それからって、どうだったんだアガシ。ティーナには会えたのか? 彼女の様子は?」
 矢継ぎ早にアガシを質問攻めにするラズリに、当の彼はどことなくつらそうな口調で、ひとつひとつの言葉をかみしめるかのようにつぶやいた。
 「そやな…。別に何も…。特に気になることもなかったし、元気そうやったと思う…けど…」
 「けど? はっきりしろよ。その先はどうしたんだ」
 彼のセリフの続きを急くラズリに、アガシは勘弁願いたいとでも言うのか、両手を挙げて降参のポーズを示した。
 「ちょ、待っとくれやラズリ。…すまんな、わい。これ以上とてもじゃないが、どうにも思い出せへんのや、わからへんのや」
 「わからない? それっていったい…? おまえ、ティーナに会ってきたんだろう? なのに…。どういうことなんだアガシ…!」
 「堪忍しぃや。とにかくもう、さっぱりなんや。…もちろん、確かに生き物の身体をあちこち転々としながら、ファナトゥまで行ったし、ティーナに会うた。会うて話もしてきた。そやけど…。そっから先がいまいちなんや。いったいどないして一人で帰ってきよったのかが、ちぃとも見当つかんのや」
 ためいきをついて頭をかばり振るアガシの横顔をじっと見つめるラズリ。
 だが、アガシはそんな彼に対し、申し訳ないという気持ちの方が先に立って仕方ないらしく、どうしても顔を合わせることができないまま、ただ膝を抱えて前を向いて、部屋のつきあたりの壁のしみをじっと凝視するのがせいぜいだったのだ。
  


(To be continued!)

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