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「悪いけど…」
ティーナとカレンを前にして、ラズリは重たいためいきをもらした。
「そこ、のいてくれない? 通りたいんだけど」
「え、えっと」
「そうよね。ごめんなさい」
ラズリにそう言われ、慌てて二人は彼に道を譲る。
するとラズリは軽く頭を下げ、小声で「失礼」と二人の間を割って通り過ぎ、そのまま普段通りのすました表情でいつも自分が座る席を目指した。
そんな彼の背中を見送り続けているのがどうにも耐えられなかったのか、まず最初に図書館を飛び出したのはカレンの方だった。
そしてさほど間を置かず、ティーナもこっそりとその場から逃げるように身を引き上げる。
自宅謹慎を解かれ、一週間ぶりに姿を見せたラズリの姿をこうしてずっと見ていたい気持ちはやまやまだったのだが、図書館内にいる他の生徒たちの、一斉に自分に向けられた好奇な視線にさらされることにはとてもじゃないけど耐えかねて。
「ラズリ・マーヴィ! やっと帰ってきたのかよ、この問題児」
「おまえ、帰ってきたならさっさと顔見せろよなこのヤロー」
「ずっと心配してたんだぜ」
「やあ。トッドにテオ、それにカーツもいたのか」
ラズリが席に腰掛けると、それを目当てとばかりにどやどやと数人の男子生徒が押しかけて群がった。
「ベンジャミン、マシュウ、アーノルド…。みんな久しぶりだな。元気だったか」
「おいおい、そりゃオレたちのセリフだろ? なあみんな」
「そうだな。でもま、あいさつはそれくらいにしとけよマシュウ。ラズリにあのことを言わなくちゃならないだろ、あいつのさ」
「そうとも。カーツの言うとおりさ。…どうする? ラズリ。今週の試験の首位はレガだったぜ?」
「レガ? …ああ、あのビン底眼鏡の坊ちゃん刈りのガリ勉か。いつも僕の下で毎回二番の常連だろ。それで? 彼がなんだって」
ラズリの頭の中で一人の男子生徒の顔が浮かんだ。
試験の結果が廊下に張り出されるたびに我先にと順番を見に来ては、ラズリに向かってさんざ悪態をつきまくる彼。
やれ、不正を働いて点を稼いでいるんじゃなかろうか、先生方に媚を売って点数を操作させているのではないかと疑い、さんざんいやな目に遭っていたのだった。
「あいつ、性懲りもなくクソ生意気なこと抜かしやがってよお。しょせんおまえなんざ帰ってきたって、授業の遅れを取り戻すのにたぶん半泣きでヒイヒイ言っているのが関の山だろうってサ」
「だから、来週もちょろいもんだって豪語してたぜ。どうするラズリ、ちょっくら校舎の裏に呼び出してオレたちでシメといてやろうか」
「別に。そんな必要はないよ」
ラズリは実に涼しい顔でマシュウやアーノルド、ベンジャミンたちが口々に寄せる報告内容を一蹴した。
「ま、せいぜい束の間の勝利に存分に酔いしれるがいいさ。僕も今だけなら、心から彼に祝いの言葉を餞として送ってもかまやしないし」
「そ、それじゃラズリ」
目を輝かしてテオが身を乗り出すと、ラズリは余裕しゃくしゃくの笑みを唇に浮かべると、彼らの顔をざっと見渡した。
「彼には悪いが来週の試験、首位はおれがいただくよ。家にいた分、たっぷり自習時間があったんでね。かなり先まで一人で勉強を進ませてもらっていたから、その復習の意味で今週の授業は全て受けるつもりだ」
ひゅう。少年たちから口笛が飛ぶ。自信満々に言いきったラズリに、彼らは「それでこそラズリだ」と言わんばかりに彼の肩をばしばしと叩きだした。
そしてさらに「絶対ヤツの鼻を明かしてやれよ」と彼に対して期待のまなざしを向けると、さらにラズリは唇の端をにっとつりあげて勝ち誇ったように断言するのだった。
「…まあ、見てなよ。廊下にテストの結果が張り出されたら、地団駄踏んでくやしやがるのはレガの方だからさ」
ティーナは図書館を出た後、当初まっすぐ寮の自室に帰ろうと思い立ったが、いつの間にか足の向きは人気のいない時計塔に続く階段を目指していた。
女子寮のティーナの自室は三人部屋。同じ年頃の少女たちと過ごす日々の暮らしは、親の目を気にせずのびのびと好きなことができる反面、特に何を思うことなく一人静かに呆けていたい時にはどうしたってえらくかまびすしい。
そんな折、ティーナがふと学校の中で見つけた自分だけの秘密の場所がここだったのだ。
ティーナはいくつもの教室が居並ぶ廊下から道をそれ、ほとんど誰も訪れることがいない、ひっそりした空間の中に足を踏み入れると、階段の踊場付近までそっと昇りつめ、そこでゆっくりと腰を下ろしすのだった。
「…なんでこんなことに、なっちゃったんだろ」
階段に腰を下ろしたティーナは誰に聞かせることなく、ぽつりとつぶやく。ただの、独り言。
けれど頭の中をわんわんとせわしなく行きかうのは、先ほどのカレンの剣幕や投げつけられた言葉、それにラズリの、自分に対する全く無関心といっていいほどのそっけない表情、そればかりで…。
入学したての間もない頃、ある日の授業でティーナの隣りの席に座った男子生徒がいた。
それが、ラズリと初めて顔を合わせた最初だったと、ティーナは今でもよく覚えている。季節が移り変わり、学年が上がっていっても、そのことだけは鮮烈に彼女の記憶の中に残っているのが何よりの証拠だった。
その教師の授業を受けるのは、入学してからはじめてだった。にも関わらず、ティーナはなんと大事な教科書を持ってくるのを忘れてしまったのだ。
やだ、どうしよう…。
昨夜、ベッドに入る前に忘れないようにと、今日の授業で使うものをきっちり机の上にそろえておいたはず。
なのに、同室の女の子たちと夜っぴておしゃべりに興じていたせいか少し寝過ごしてしまったのだ。
いつまでも何をやってるのティーナ、遅刻しちゃうわよ。早くティーナ、早く。
そうひっきりなしに急かされては、ろくに確かめもせず取るものをもとりあえず部屋から出てきてしまったのが災いしたのだろう。彼女のカバンの中にはかろうじて昨日の授業で使った教科書とノートと筆記用具があるだけだったのだ。
そんなティーナの困った様子がいかにもあからさまだったので、隣の席の男子生徒は見かねたのだろうか。ラズリは何も言わず自分の教科書を彼女の方にすっとずらしてよこしたのだった。
驚いたティーナはちらとラズリの方に視線を向ける。授業中の手前、声には出せなかったものの、「いいの?」とうかがうようなそぶりを示すと、ラズリは彼女に応えることなく、すました表情で前を向いたままだった。
「では、次。ティーナ・アルトゥン」
急に教師から自分の名前が呼ばれ、ティーナは慌てて椅子をがたんと引いて立ち上がった。
教師はティーナに授業に関する事柄でいくつか質問をよこしたが、それら全てが彼女にとってはわからないことだらけだった。
「あの…その…」
「どうしましたか? 先ほど私が話したばかりのことについての確認ですよ? まさか授業を聞いてなかったのですか?」
教師に叱責され、とたんティーナはかあっと頬を赤らめさせた。当てられてそれに答えられない恥ずかしさよりも、授業を生半可な気持ちで聞いていたことの方がよっぽど恥だと感じたようだ。
すると、またしてもラズリから助け船が出された。ラズリはさらさらと解答をメモ書きして起立したティーナの手にそれを握らせてやるのだった。
「…! ええ?」
「いいから」
相変わらず彼女の方を見ずにラズリが小声でそう促す。それが功を奏したのか、ティーナは手の中で丸められたメモをそっと開くと、下目づかいにちらちらと視線を落としながらたどたどしい声で答えを言っていった。
「…よろしい。どれも正答です。ただし」
教師はうなずぎながらもちらと上目遣いにティーナを目線を送った。
「今度は助言なしで一人で答えるように。いいですね? ティーナ・アルトゥン」
そう釘をさしながらも「よしとしましょう」と教師は彼女に着席を許した。
ティーナはやっと安堵して席に着いたものの、その後も何故か上の空のままで気がつけばもう終業を告げる鐘が鳴り、生徒たちはがたがたと席を立って次の授業のために教室を移動していたところだった。
「あ、あのぉ」
ティーナは隣りにいた彼が教科書をしまって立ち上がったところにそう声をかけた。
「さっきは…ありがとう、助けてくれて」
おずおずとそう礼を言うが、彼はやはりあまり表情を変えずに「別に」とそっけなく言い放ち、そのままティーナの前から去っていくのだった。
するとそれと入れ代わりに今度は女の子たちがわっとティーナの周りに集まってきた。
「ねえねえ、あなたラズリと親しいの?」
「え? ラズリ、って…?」
「何よあなたの隣りに座っていたでしょ時間中」
「ラズリ・マーヴィのことよ…! 今年の新入生の中ではダントツの超がつくほどの有名人だわ。知らないの? 入学試験、ほぼ満点で突破したっていうウワサの彼じゃなあい」
「うそ…。ほぼ満点だなんて。それって、ありえな…」
ティーナは女生徒たちの話を耳にし、驚きのあまり目を見開いてしまった。
志願者が多い上に選抜基準の厳しい王立魔法学院の入学試験だ。毎年、不合格者が大量に出る上に、浪人者もかなりの割合で多いといわれる。それに実のところ学科試験に関してはティーナも水準ぎりぎりで、不本意ながらも多少の縁故、宮廷付き薬師たる父の名を持ち出して使わざるをえなかったほどだ。
「うそじゃないわよお。過去にも指折り数えるくらいしかいなかったって」
「あなたそれに、ラズリに答えを教えてもらっていたでしょ」
一人の女生徒にそう指摘され、ティーナは先ほどの一件を思い出し、ついかっと頬を赤らめていくぶんうつむいた。
「ずいぶんいい度胸ねえ。あなた知らなかったみたいだけど、ここじゃね、先生に指されて答えられなかった人も、その人に答えを教えることもいけないことなの。両方とも罰則行為に当たるのよ?」
「そうよお。先生が見逃してくれたから助かったようなものだけど、あれをきっちり報告されたら一発で反省室行きよ。たぶん、そうね百行書きの罰くらいは受けるかしらね」
「そのことをラズリが知らないはずがないのに…! なのに、なのによ、ラズリったら…!」
「きゃー! もうあたしダメぇ。あのね、あたしね入学式の時からずっと気になっていたんだ、彼のこと」
「ううん、わかるわあ。ほんっと、彼ステキよねえ。カッコいいわよねえ」
「顔ヨシ、頭ヨシ、体ヨシの三拍子だもんね! ダントツの人気よ。上級生にもファンが多いって」
少女たちはティーナのことなどもはや眼中になく、もっぱらラズリの話題で盛り上がっては黄色い声をあげだしはじめた。
ラズリ・マーヴィ…か。
ティーナは先ほどのことを思い出していた。無愛想なまでにそっけない態度。「ありがとう」と礼を告げても、顔色ひとつ変えなかった彼。
だけど……。助けて、くれたんだあたしのことを。もしかしたら、自分も罰を受けるかもしれないってこと、知っていたのに。
その日以来、ティーナは気がつくとラズリの姿を見分けて目で追ってしまう自分に気がついた。
どんな時にいても、大勢の男の子たちの姿の中に混じっていても、ラズリの姿だけは自然に視界に入ってくる。
まるでそこにだけスポットライトが当たっているかのように、ティーナにはラズリが光り輝く存在に見えるのだった。
でも彼とは、あの一件がきっかでじょじょに打ち解けて親しくなるどころか、同級生として朝夕のあいさつすら頻繁に交わし合うことなどほとんどなく、相変わらず互いに遠い存在のままだった。
それでも、ティーナはラズリと同じ教室で授業を受けたり、彼が自習をしている図書館にいるだけで、何故か嬉しさを感じたり、自分がちょっぴり幸せな気分にひたっていることを、無上の喜びに感じて仕方がなかった。
廊下に張り出される週の定期小試験の結果が張り出される度に、下から数えた方が早い自分の名前を探すより、まずラズリの名前が一番最初に書かれていることを確かめ、それを見て安堵することもちょくちょくで。
その気持ちが、もしかしたら他の男子生徒に対する気持ちと異なるのではないかと思うようになったのは、誰でもない彼女に、親友とも呼べるほど仲の良い一の友、カレンに「ラズリっていいと思わない?」とこっそりと耳打ちされてた時だったのは皮肉としかいいようがないだろう。
でも…。だけど本当にあたし、ラズリと会ったのはあの時がはじめてだったのだろうか。
ティーナはラズリの、空の色をそのまま宿したような青い瞳の持ち主を、かつてどこかで見たような気がしてならなかった。
それならいったい、いつ、どこで?
揺るぎようのない真実とばかりに思い込んでいたティーナの記憶に、かすかにゆらぎが生じた結果、芽生えたささいな疑念。
それは前の学期間の長期休暇中、ティーナが自宅に戻った際、父から現王ジェラルド陛下の身体のご様子が最近とみにかんばしくないこと、そのために皇太子であらせられるラズウェルト殿下の王位継承が、十八才の成人を前に急がれるかもしれない、ということが国政に関わる者たちで形成される元老院内の議題として何度も持ち上がっているということを聞いた直後だった。
その時、何故か急にティーナはラズリのことが思い出されたのだった。
…あれ? ちょっとラズリって…ずっと前にも会ったことがあったんじゃない? それに誰かに似てなくない?
そう思ったのも束の間、だからといってティーナはラズリにいつ会ったことがあるのか、また似ているというのは誰を引き合いにしてそう思ったのか、自分でも言い当てることはできなかった。
そしてどうして、父が王や皇太子殿下の名前を出してきた際に、彼のことがふっと思い出されたのも。
ティーナはそれ以後、学院内でラズリの姿を見かけるたびにいっしょうけんめいそのことを思い出そうとしているのだが、それらは全てことごとく徒労に終わっていたのだった。
だめね、やっぱり。あたしすぐ忘れっぽい方だからなあ。小さかった時のこともみんなぼんやりだもんね。こんなんだから、薬草学以外はからっきし、なのかも。特に魔法史みたいな学科の詰め込み暗記ができない性質だし…。
そう思い、あきらめを入り混じらせつつも、ティーナはなおも小首をかしげながら、懸命に記憶の糸をたどろうとするのだった。
かちゃり。ラズリが寮の自室のドアを開けると、その視線の先に制服姿の少年の姿を目にとめた。彼はベッドの上で仰向けに寝転がって何することもなく、ただのんべんだらりと休んでいたのだった。
「よぉ、ラズリ。やっと帰ってきよったんか。まったく、何やらかしてくれるんや。ホンマ心配させやがっておまえは」
彼はラズリが部屋に入ってくるやいなや、表情をぱっと輝かせてがばりと跳ね起きた。
後ろでひとつにたばねられるほどの、ばさりとした長めの黒髪に褐色の肌。左耳にだけつけた色とりどりのイヤーカフス。
シャツのボタンは上から三番目くらいまで開け、ゆるやかに結んだタイがかろうじてひっかかっている、という具合にかなり着崩したラフなスタイル。
それはしゃっきりと折り目正しくしわをのばし、シャツのボタンを上から下まで全て留め、きっちりとタイを襟元に結んでいるラズリとはまるで好対照なほどだった。
彼がラズリの帰寮を喜び歓迎する一方、しかし当の本人はそれには応えず、ひそかに眉根を寄せてためいき混じりに彼を軽くたしなめる。
「…アガシ。そこ、僕のベッドなんだけど?」
「お、そうやったか。わりぃわりぃ。かんにんな。おまえがおらんと、なんかどっちかわからんよってつい、な」
「…ホントかよ」
ラズリは彼のいいかげんな言い訳にいささか疑いを持ったが、それもいつものこととあきらめてさっさと受け流し、そのまま後ろ手でぱたりとドアを閉め、すたすたと室内に進み入った。
「ん? 何か言ったか?」
「いーや、何にも。それよかアガシ、僕のベッド、ちゃんとシーツをのばして直しておいてくれよ。今日からまたこの部屋の住人だ。よろしくな」
「おう。…とと。それよかラズリ、聞いたでぇ」
アガシ――アガシ・アズラット・ハーディーンは何やら意味深なにやにや笑いを浮かべながら、ラズリのそばにつつっと寄っていった。
西の砂漠の民の部族出身であるアガシの口調は、主に都市部で使用される公用語とやや異なるお国訛りがあった。
「ったく、おまえも隅に置けないやっちゃな。普段、女の子になんか興味ありましぇーんって顔で取りすましているヤツに限って、すぅぐ色恋沙汰に巻き込まれて渦中の人になるんだからよ」
「何のことだ」
無愛想な口ぶりで自分の机の上に図書館から借りた本や教科書の類をばさりと置く。
するとアガシはラズリの机にひょいと腰掛けるとその中の一冊を無造作に取り上げながら、手持ち無沙汰よろしくぱらぱらとページをめくっていった。
「またまたぁ。とぼけやがってこぉの色男ぉ。さっき図書館でちょっとした見ものやった、ちゅうウワサで既に寮内がもちきりやでぇ。あーあ、当の現場で見たかったなそのシュラバ場面。さぞかしおもろかったやろ」
「…ああ、あれか。別に大したことじゃないよ。むしろこっちの方が被害者だな。迷惑極まりない」
「うわ、ひでぇー! なんやその淡白さ! あんまりにもかわいそうやん、彼女たち。おまえ、それじゃファン激減するでぇ」
「ああ、それこそ願ったり叶ったりだね。かえって周囲が静かになっていいよ。これ以上うるさくされたらかなわないからね。第一、僕が頼んで女の子たちにキャーキャー騒いでもらいたいわけじゃない。僕の勉強のジャマになるものはこれっぽっちも歓迎したくないな」
「あいかーらず堅物やなあ。そんなんやから女の子の友達なんてだーれもおらんのや。さみしーやっちゃなあ」
「ほっとけよ、人のことは。それを言うならおまえこそどうなんだ」
「あん…? わいか? わいにはいつでも誠実第一や。女の子にはめっちゃやさしー紳士やで。せやからうちのクラスはもとより、学院内にゃぎょーさん仲良しの子がおるやろ」
目線を宙にさまよわせながら、ひのふのみぃと指折り数えるアガシ。彼の頭の中には数ある女の子たちの顔が浮かんでいるのに違いない。
嬉々とした表情を浮かべているアガシに向かって、ラズリは冷たくぴしゃりとたきつけた。
「おまえのはただの八方美人なだけだろ」
「お、おま…! な、なんだよ…! わいがいつ何をしたって言うんじゃい」
「伝説の男だからな、おまえは。何せうちの学院の生徒の中では史上一の女タラシという評判の異名まで持つ」
「おいおい、ラズリ。聞き捨てならねーなそれ。わいはいつだって本気やったで」
「はんっ。忘れたとは言わせないぞ張本人のくせして。だいたい入学早々、ほとんど顔も知らない同級生はおろか学年を超えて女生徒に声かけて気を引きまくって、三股も四股も、五股どころか六股した挙句、独身の美人教師まで抱きこんで、果てはけっきょく面倒になって全部ご破算にしちまったら一人も残らなかったじゃないか。今のおまえに群がる取り巻き連中は、その過去をみんな知っているから必要以上に近づいたりしない。手ひどい火傷を負いたくないからな。だから、ただ大勢いる友達の一人としかお前を見やしない。おまえだってそのことをわかってるんだろう。そうじゃないのか?」
「…人の古傷に塩をぬりこみやがってコノヤロー」
アガシは件の事件についてこれ以上ラズリをつっつくと、かえっていらぬ反撃がラズリから自分によこされることに閉口し、即座に話題を変えることを思いついた。
「んで? いったい一週間も家で何してはったんやおまえ。確か王都だったな、おまえの家があるの。みんな大事なく変わりなかったか?」
そもそも話を振ってきたアガシ本人によって、今までの会話の流れが全てうやむやにさせられたことに気付いたラズリは、半ばあっけにとられたが、まあそれも彼のことだし、と妙に納得してそのまま黙っていることにした。
粘着質よろしく、ねちねちと話を後々まで長引かせず、きっぱりと一切を絶ち、手を引くさまは、女の子たちとのつきあいをいっぺんに断ったその一連の顛末にもそっくりだった。
それは多分に彼の基本的な性格にもよるのだろう。しかもその得な性分のおかげで、彼は別れた彼女たちの一人からも、恨まれたりあとくされを残されたりなどはいっぺんもなかったのである。
「別に。みんな変わりなく息災だったよ。父さんも母さんも姉さんも。上の姉さんは外国に嫁いでいるからどうなのか知らないけど」
「そうか。ならよかったな。ほら、おまえ学期が変わるごとの長期休みも全く帰らねーでいつも寮に居残り組だろ? ほなら袋さんや親父さん喜んだやろ、謹慎処分とはいえ、久しぶりに帰宅したんだもんな」
「…喜ぶどころか」
くっと咽の奥を鳴らすようにラズリは苦みばしった笑いをこみあげさせながら吐き捨てるように言い放つ。
「かえって大目玉をくらったよ。謹慎処分だなんて、まったく我が家の恥だってね。挙句の果てには親父の許可なく部屋から出てくるなって言われたし。食事もみんなと一緒に取らなくてもいいからって毎食運ばれてね。ほぼ軟禁状態もいいところだった」
「お…。おいおい、マジかよそれ」
淡々と告げるラズリの帰宅後の様子にアガシは驚きのあまり目を見張りながら、持っていた本をぱたりと閉じて机上に戻した。
「いや、ったく、ひでえ話やなあ。まあ、確かに帰宅理由は威張れたもんじゃねーけど、本来なら褒められてしかるべきだぜ?」
そう言いつつ、アガシはやけに同情をこめたまなざしを浮かべるとラズリの肩をぽんぽんと軽く叩いて少しだけ声をひそめた。
「…未だかつてどんな名だたる魔法使いでもついぞ成し得なかった二頭の飛竜の同時捕獲に成功したんやでおまえは。まだ学院の生徒の身分でありながら、や。せやから、処分の内容はともかくおまえもよくやったとねぎらわれこそすれ、いくらなんでもそりゃねーだろって気はするが…」
「仕方ないさ。何せ不肖の息子だからね、自分は」
ラズリは自分に寄りかかり気味になって肩に置かれたアガシの手を邪魔くさそうに軽くはらうと、やや自嘲めいた口ぶりで先を続ける。
「そもそも家族中の反対を押し切ってこの学院に来たこと自体が責められる要因なんだ。そんな人たちにことさら申し開きしたとて何になる? こっぴどいお叱りが通り過ぎるのをただ黙って耐えて、時間が過ぎ去るのをひたすら待つのが賢明ってもんだろ。争いを長引かせても無駄に体力を消耗するだけだからね。放っておかれるならそれはそれでいいさ。それならば一人で勉強でもしていた方が、よっぽど有意義な時間の使い方だ」
「…はー」
アガシは深くためいきをついた。ためこんでいた自身の思いを吐き捨てるかのようにずらずらと並べ立てるラズリにこれ以上自分は何をかいわんや、と思いながら。
「はん、つくづくおまえにゃ同情すらぁ」
「それはこっちの台詞だよ。アガシ、君だってそうじゃないか」
「んーん、わいか? まあ、んなこた気にせんどき」
アガシはそう言い、にっと唇をつりあげさせた。
しかしラズリは彼の言うことを受け流さず、まるで自分のことのように躍起になって言い募った。
「歴代の偉大なる魔法使いを世に輩出した経歴のある君の部族からは、長子の身分じゃないとこの学校の門をくぐれないんだろう? それを末弟である君が、家族の大反対を押し切って、授業旅免除の特待生扱いで入学したって言うじゃないか。本当によくがんばっているよな」
「あっはっは。そないなことでいちいちくそ悩んでおったら、一人前の魔法使いになんぞなれっこないで。それにどーせしゃかりきで勉強したって、試験じゃいつもおまえにゃ負けっぱなしや。万年二位のレガにもな。ほらな、特待生っちゅーても大したこたないやろ?」
「それだって常に五番以内はキープだ。大したもんだよ。絶対十番まで落ちたことがないなんてある意味すごすぎるくらいだ。他のやつらは先週よくても今週はだめ、次週はさらに落ちて来週はもっとだめかもしれない、そんな連中ばっかりだろう? レガだってああ見えて、時々、十番より下をいったりきたりすることもあるじゃないか」
「はは、浮き沈み激しいのが常に人の世、ちゅうわけか。まあ、わいの場合は五番から下に転げ落ちたら、そりゃえらいことになるさかいな。それこそ死活問題や。成績不良で特待生の資格剥奪、挙句の果てには放校処分で強制送還やで? 必死になるのも当たり前やな。…それでなくても素行不良だの、制服着用規定違反だのとオおエライ先生方からいちいちい目ぇつけられとるるのに、成績落ちたら即処分決定や」
「それでも…いいじゃないか。君はこの学校を卒業したら、大手を振って魔法使いとしての道を進むことができる。でも僕は…違う。ここでどんなに優秀な成績を修めたとて、いずれ十八になれば家督を継ぐしか、将来はないんだ。そういう約束を父や母と交わしたからこそ、なんとか入学を許してもらったんだけども…」
ラズリはアガシから故意に視線を外すと、やるせない重いためいきをつくとともに声のトーンを一段低くしてそうつぶやいた。
そして、ふいに思い出す。自宅謹慎を言い渡されて、いやいやながらも王都にある我が家であるところの――セルリアン宮殿に戻ったその日の午後のことを。
そう、ラズリ・マーヴィとは学院の生徒としての仮の姿。彼の本名はラズウェルト・セイルファーディム。この東大陸きっての長い歴史と繁栄を誇る大国であり、天上の天という意味合い持つセレスト・セレスティアン王国の日嗣の皇子、正真正銘の皇太子なのだった。
ティーナとカレンを前にして、ラズリは重たいためいきをもらした。
「そこ、のいてくれない? 通りたいんだけど」
「え、えっと」
「そうよね。ごめんなさい」
ラズリにそう言われ、慌てて二人は彼に道を譲る。
するとラズリは軽く頭を下げ、小声で「失礼」と二人の間を割って通り過ぎ、そのまま普段通りのすました表情でいつも自分が座る席を目指した。
そんな彼の背中を見送り続けているのがどうにも耐えられなかったのか、まず最初に図書館を飛び出したのはカレンの方だった。
そしてさほど間を置かず、ティーナもこっそりとその場から逃げるように身を引き上げる。
自宅謹慎を解かれ、一週間ぶりに姿を見せたラズリの姿をこうしてずっと見ていたい気持ちはやまやまだったのだが、図書館内にいる他の生徒たちの、一斉に自分に向けられた好奇な視線にさらされることにはとてもじゃないけど耐えかねて。
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「ラズリ・マーヴィ! やっと帰ってきたのかよ、この問題児」
「おまえ、帰ってきたならさっさと顔見せろよなこのヤロー」
「ずっと心配してたんだぜ」
「やあ。トッドにテオ、それにカーツもいたのか」
ラズリが席に腰掛けると、それを目当てとばかりにどやどやと数人の男子生徒が押しかけて群がった。
「ベンジャミン、マシュウ、アーノルド…。みんな久しぶりだな。元気だったか」
「おいおい、そりゃオレたちのセリフだろ? なあみんな」
「そうだな。でもま、あいさつはそれくらいにしとけよマシュウ。ラズリにあのことを言わなくちゃならないだろ、あいつのさ」
「そうとも。カーツの言うとおりさ。…どうする? ラズリ。今週の試験の首位はレガだったぜ?」
「レガ? …ああ、あのビン底眼鏡の坊ちゃん刈りのガリ勉か。いつも僕の下で毎回二番の常連だろ。それで? 彼がなんだって」
ラズリの頭の中で一人の男子生徒の顔が浮かんだ。
試験の結果が廊下に張り出されるたびに我先にと順番を見に来ては、ラズリに向かってさんざ悪態をつきまくる彼。
やれ、不正を働いて点を稼いでいるんじゃなかろうか、先生方に媚を売って点数を操作させているのではないかと疑い、さんざんいやな目に遭っていたのだった。
「あいつ、性懲りもなくクソ生意気なこと抜かしやがってよお。しょせんおまえなんざ帰ってきたって、授業の遅れを取り戻すのにたぶん半泣きでヒイヒイ言っているのが関の山だろうってサ」
「だから、来週もちょろいもんだって豪語してたぜ。どうするラズリ、ちょっくら校舎の裏に呼び出してオレたちでシメといてやろうか」
「別に。そんな必要はないよ」
ラズリは実に涼しい顔でマシュウやアーノルド、ベンジャミンたちが口々に寄せる報告内容を一蹴した。
「ま、せいぜい束の間の勝利に存分に酔いしれるがいいさ。僕も今だけなら、心から彼に祝いの言葉を餞として送ってもかまやしないし」
「そ、それじゃラズリ」
目を輝かしてテオが身を乗り出すと、ラズリは余裕しゃくしゃくの笑みを唇に浮かべると、彼らの顔をざっと見渡した。
「彼には悪いが来週の試験、首位はおれがいただくよ。家にいた分、たっぷり自習時間があったんでね。かなり先まで一人で勉強を進ませてもらっていたから、その復習の意味で今週の授業は全て受けるつもりだ」
ひゅう。少年たちから口笛が飛ぶ。自信満々に言いきったラズリに、彼らは「それでこそラズリだ」と言わんばかりに彼の肩をばしばしと叩きだした。
そしてさらに「絶対ヤツの鼻を明かしてやれよ」と彼に対して期待のまなざしを向けると、さらにラズリは唇の端をにっとつりあげて勝ち誇ったように断言するのだった。
「…まあ、見てなよ。廊下にテストの結果が張り出されたら、地団駄踏んでくやしやがるのはレガの方だからさ」
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ティーナは図書館を出た後、当初まっすぐ寮の自室に帰ろうと思い立ったが、いつの間にか足の向きは人気のいない時計塔に続く階段を目指していた。
女子寮のティーナの自室は三人部屋。同じ年頃の少女たちと過ごす日々の暮らしは、親の目を気にせずのびのびと好きなことができる反面、特に何を思うことなく一人静かに呆けていたい時にはどうしたってえらくかまびすしい。
そんな折、ティーナがふと学校の中で見つけた自分だけの秘密の場所がここだったのだ。
ティーナはいくつもの教室が居並ぶ廊下から道をそれ、ほとんど誰も訪れることがいない、ひっそりした空間の中に足を踏み入れると、階段の踊場付近までそっと昇りつめ、そこでゆっくりと腰を下ろしすのだった。
「…なんでこんなことに、なっちゃったんだろ」
階段に腰を下ろしたティーナは誰に聞かせることなく、ぽつりとつぶやく。ただの、独り言。
けれど頭の中をわんわんとせわしなく行きかうのは、先ほどのカレンの剣幕や投げつけられた言葉、それにラズリの、自分に対する全く無関心といっていいほどのそっけない表情、そればかりで…。
入学したての間もない頃、ある日の授業でティーナの隣りの席に座った男子生徒がいた。
それが、ラズリと初めて顔を合わせた最初だったと、ティーナは今でもよく覚えている。季節が移り変わり、学年が上がっていっても、そのことだけは鮮烈に彼女の記憶の中に残っているのが何よりの証拠だった。
その教師の授業を受けるのは、入学してからはじめてだった。にも関わらず、ティーナはなんと大事な教科書を持ってくるのを忘れてしまったのだ。
やだ、どうしよう…。
昨夜、ベッドに入る前に忘れないようにと、今日の授業で使うものをきっちり机の上にそろえておいたはず。
なのに、同室の女の子たちと夜っぴておしゃべりに興じていたせいか少し寝過ごしてしまったのだ。
いつまでも何をやってるのティーナ、遅刻しちゃうわよ。早くティーナ、早く。
そうひっきりなしに急かされては、ろくに確かめもせず取るものをもとりあえず部屋から出てきてしまったのが災いしたのだろう。彼女のカバンの中にはかろうじて昨日の授業で使った教科書とノートと筆記用具があるだけだったのだ。
そんなティーナの困った様子がいかにもあからさまだったので、隣の席の男子生徒は見かねたのだろうか。ラズリは何も言わず自分の教科書を彼女の方にすっとずらしてよこしたのだった。
驚いたティーナはちらとラズリの方に視線を向ける。授業中の手前、声には出せなかったものの、「いいの?」とうかがうようなそぶりを示すと、ラズリは彼女に応えることなく、すました表情で前を向いたままだった。
「では、次。ティーナ・アルトゥン」
急に教師から自分の名前が呼ばれ、ティーナは慌てて椅子をがたんと引いて立ち上がった。
教師はティーナに授業に関する事柄でいくつか質問をよこしたが、それら全てが彼女にとってはわからないことだらけだった。
「あの…その…」
「どうしましたか? 先ほど私が話したばかりのことについての確認ですよ? まさか授業を聞いてなかったのですか?」
教師に叱責され、とたんティーナはかあっと頬を赤らめさせた。当てられてそれに答えられない恥ずかしさよりも、授業を生半可な気持ちで聞いていたことの方がよっぽど恥だと感じたようだ。
すると、またしてもラズリから助け船が出された。ラズリはさらさらと解答をメモ書きして起立したティーナの手にそれを握らせてやるのだった。
「…! ええ?」
「いいから」
相変わらず彼女の方を見ずにラズリが小声でそう促す。それが功を奏したのか、ティーナは手の中で丸められたメモをそっと開くと、下目づかいにちらちらと視線を落としながらたどたどしい声で答えを言っていった。
「…よろしい。どれも正答です。ただし」
教師はうなずぎながらもちらと上目遣いにティーナを目線を送った。
「今度は助言なしで一人で答えるように。いいですね? ティーナ・アルトゥン」
そう釘をさしながらも「よしとしましょう」と教師は彼女に着席を許した。
ティーナはやっと安堵して席に着いたものの、その後も何故か上の空のままで気がつけばもう終業を告げる鐘が鳴り、生徒たちはがたがたと席を立って次の授業のために教室を移動していたところだった。
「あ、あのぉ」
ティーナは隣りにいた彼が教科書をしまって立ち上がったところにそう声をかけた。
「さっきは…ありがとう、助けてくれて」
おずおずとそう礼を言うが、彼はやはりあまり表情を変えずに「別に」とそっけなく言い放ち、そのままティーナの前から去っていくのだった。
するとそれと入れ代わりに今度は女の子たちがわっとティーナの周りに集まってきた。
「ねえねえ、あなたラズリと親しいの?」
「え? ラズリ、って…?」
「何よあなたの隣りに座っていたでしょ時間中」
「ラズリ・マーヴィのことよ…! 今年の新入生の中ではダントツの超がつくほどの有名人だわ。知らないの? 入学試験、ほぼ満点で突破したっていうウワサの彼じゃなあい」
「うそ…。ほぼ満点だなんて。それって、ありえな…」
ティーナは女生徒たちの話を耳にし、驚きのあまり目を見開いてしまった。
志願者が多い上に選抜基準の厳しい王立魔法学院の入学試験だ。毎年、不合格者が大量に出る上に、浪人者もかなりの割合で多いといわれる。それに実のところ学科試験に関してはティーナも水準ぎりぎりで、不本意ながらも多少の縁故、宮廷付き薬師たる父の名を持ち出して使わざるをえなかったほどだ。
「うそじゃないわよお。過去にも指折り数えるくらいしかいなかったって」
「あなたそれに、ラズリに答えを教えてもらっていたでしょ」
一人の女生徒にそう指摘され、ティーナは先ほどの一件を思い出し、ついかっと頬を赤らめていくぶんうつむいた。
「ずいぶんいい度胸ねえ。あなた知らなかったみたいだけど、ここじゃね、先生に指されて答えられなかった人も、その人に答えを教えることもいけないことなの。両方とも罰則行為に当たるのよ?」
「そうよお。先生が見逃してくれたから助かったようなものだけど、あれをきっちり報告されたら一発で反省室行きよ。たぶん、そうね百行書きの罰くらいは受けるかしらね」
「そのことをラズリが知らないはずがないのに…! なのに、なのによ、ラズリったら…!」
「きゃー! もうあたしダメぇ。あのね、あたしね入学式の時からずっと気になっていたんだ、彼のこと」
「ううん、わかるわあ。ほんっと、彼ステキよねえ。カッコいいわよねえ」
「顔ヨシ、頭ヨシ、体ヨシの三拍子だもんね! ダントツの人気よ。上級生にもファンが多いって」
少女たちはティーナのことなどもはや眼中になく、もっぱらラズリの話題で盛り上がっては黄色い声をあげだしはじめた。
ラズリ・マーヴィ…か。
ティーナは先ほどのことを思い出していた。無愛想なまでにそっけない態度。「ありがとう」と礼を告げても、顔色ひとつ変えなかった彼。
だけど……。助けて、くれたんだあたしのことを。もしかしたら、自分も罰を受けるかもしれないってこと、知っていたのに。
その日以来、ティーナは気がつくとラズリの姿を見分けて目で追ってしまう自分に気がついた。
どんな時にいても、大勢の男の子たちの姿の中に混じっていても、ラズリの姿だけは自然に視界に入ってくる。
まるでそこにだけスポットライトが当たっているかのように、ティーナにはラズリが光り輝く存在に見えるのだった。
でも彼とは、あの一件がきっかでじょじょに打ち解けて親しくなるどころか、同級生として朝夕のあいさつすら頻繁に交わし合うことなどほとんどなく、相変わらず互いに遠い存在のままだった。
それでも、ティーナはラズリと同じ教室で授業を受けたり、彼が自習をしている図書館にいるだけで、何故か嬉しさを感じたり、自分がちょっぴり幸せな気分にひたっていることを、無上の喜びに感じて仕方がなかった。
廊下に張り出される週の定期小試験の結果が張り出される度に、下から数えた方が早い自分の名前を探すより、まずラズリの名前が一番最初に書かれていることを確かめ、それを見て安堵することもちょくちょくで。
その気持ちが、もしかしたら他の男子生徒に対する気持ちと異なるのではないかと思うようになったのは、誰でもない彼女に、親友とも呼べるほど仲の良い一の友、カレンに「ラズリっていいと思わない?」とこっそりと耳打ちされてた時だったのは皮肉としかいいようがないだろう。
でも…。だけど本当にあたし、ラズリと会ったのはあの時がはじめてだったのだろうか。
ティーナはラズリの、空の色をそのまま宿したような青い瞳の持ち主を、かつてどこかで見たような気がしてならなかった。
それならいったい、いつ、どこで?
揺るぎようのない真実とばかりに思い込んでいたティーナの記憶に、かすかにゆらぎが生じた結果、芽生えたささいな疑念。
それは前の学期間の長期休暇中、ティーナが自宅に戻った際、父から現王ジェラルド陛下の身体のご様子が最近とみにかんばしくないこと、そのために皇太子であらせられるラズウェルト殿下の王位継承が、十八才の成人を前に急がれるかもしれない、ということが国政に関わる者たちで形成される元老院内の議題として何度も持ち上がっているということを聞いた直後だった。
その時、何故か急にティーナはラズリのことが思い出されたのだった。
…あれ? ちょっとラズリって…ずっと前にも会ったことがあったんじゃない? それに誰かに似てなくない?
そう思ったのも束の間、だからといってティーナはラズリにいつ会ったことがあるのか、また似ているというのは誰を引き合いにしてそう思ったのか、自分でも言い当てることはできなかった。
そしてどうして、父が王や皇太子殿下の名前を出してきた際に、彼のことがふっと思い出されたのも。
ティーナはそれ以後、学院内でラズリの姿を見かけるたびにいっしょうけんめいそのことを思い出そうとしているのだが、それらは全てことごとく徒労に終わっていたのだった。
だめね、やっぱり。あたしすぐ忘れっぽい方だからなあ。小さかった時のこともみんなぼんやりだもんね。こんなんだから、薬草学以外はからっきし、なのかも。特に魔法史みたいな学科の詰め込み暗記ができない性質だし…。
そう思い、あきらめを入り混じらせつつも、ティーナはなおも小首をかしげながら、懸命に記憶の糸をたどろうとするのだった。
** ** **
かちゃり。ラズリが寮の自室のドアを開けると、その視線の先に制服姿の少年の姿を目にとめた。彼はベッドの上で仰向けに寝転がって何することもなく、ただのんべんだらりと休んでいたのだった。
「よぉ、ラズリ。やっと帰ってきよったんか。まったく、何やらかしてくれるんや。ホンマ心配させやがっておまえは」
彼はラズリが部屋に入ってくるやいなや、表情をぱっと輝かせてがばりと跳ね起きた。
後ろでひとつにたばねられるほどの、ばさりとした長めの黒髪に褐色の肌。左耳にだけつけた色とりどりのイヤーカフス。
シャツのボタンは上から三番目くらいまで開け、ゆるやかに結んだタイがかろうじてひっかかっている、という具合にかなり着崩したラフなスタイル。
それはしゃっきりと折り目正しくしわをのばし、シャツのボタンを上から下まで全て留め、きっちりとタイを襟元に結んでいるラズリとはまるで好対照なほどだった。
彼がラズリの帰寮を喜び歓迎する一方、しかし当の本人はそれには応えず、ひそかに眉根を寄せてためいき混じりに彼を軽くたしなめる。
「…アガシ。そこ、僕のベッドなんだけど?」
「お、そうやったか。わりぃわりぃ。かんにんな。おまえがおらんと、なんかどっちかわからんよってつい、な」
「…ホントかよ」
ラズリは彼のいいかげんな言い訳にいささか疑いを持ったが、それもいつものこととあきらめてさっさと受け流し、そのまま後ろ手でぱたりとドアを閉め、すたすたと室内に進み入った。
「ん? 何か言ったか?」
「いーや、何にも。それよかアガシ、僕のベッド、ちゃんとシーツをのばして直しておいてくれよ。今日からまたこの部屋の住人だ。よろしくな」
「おう。…とと。それよかラズリ、聞いたでぇ」
アガシ――アガシ・アズラット・ハーディーンは何やら意味深なにやにや笑いを浮かべながら、ラズリのそばにつつっと寄っていった。
西の砂漠の民の部族出身であるアガシの口調は、主に都市部で使用される公用語とやや異なるお国訛りがあった。
「ったく、おまえも隅に置けないやっちゃな。普段、女の子になんか興味ありましぇーんって顔で取りすましているヤツに限って、すぅぐ色恋沙汰に巻き込まれて渦中の人になるんだからよ」
「何のことだ」
無愛想な口ぶりで自分の机の上に図書館から借りた本や教科書の類をばさりと置く。
するとアガシはラズリの机にひょいと腰掛けるとその中の一冊を無造作に取り上げながら、手持ち無沙汰よろしくぱらぱらとページをめくっていった。
「またまたぁ。とぼけやがってこぉの色男ぉ。さっき図書館でちょっとした見ものやった、ちゅうウワサで既に寮内がもちきりやでぇ。あーあ、当の現場で見たかったなそのシュラバ場面。さぞかしおもろかったやろ」
「…ああ、あれか。別に大したことじゃないよ。むしろこっちの方が被害者だな。迷惑極まりない」
「うわ、ひでぇー! なんやその淡白さ! あんまりにもかわいそうやん、彼女たち。おまえ、それじゃファン激減するでぇ」
「ああ、それこそ願ったり叶ったりだね。かえって周囲が静かになっていいよ。これ以上うるさくされたらかなわないからね。第一、僕が頼んで女の子たちにキャーキャー騒いでもらいたいわけじゃない。僕の勉強のジャマになるものはこれっぽっちも歓迎したくないな」
「あいかーらず堅物やなあ。そんなんやから女の子の友達なんてだーれもおらんのや。さみしーやっちゃなあ」
「ほっとけよ、人のことは。それを言うならおまえこそどうなんだ」
「あん…? わいか? わいにはいつでも誠実第一や。女の子にはめっちゃやさしー紳士やで。せやからうちのクラスはもとより、学院内にゃぎょーさん仲良しの子がおるやろ」
目線を宙にさまよわせながら、ひのふのみぃと指折り数えるアガシ。彼の頭の中には数ある女の子たちの顔が浮かんでいるのに違いない。
嬉々とした表情を浮かべているアガシに向かって、ラズリは冷たくぴしゃりとたきつけた。
「おまえのはただの八方美人なだけだろ」
「お、おま…! な、なんだよ…! わいがいつ何をしたって言うんじゃい」
「伝説の男だからな、おまえは。何せうちの学院の生徒の中では史上一の女タラシという評判の異名まで持つ」
「おいおい、ラズリ。聞き捨てならねーなそれ。わいはいつだって本気やったで」
「はんっ。忘れたとは言わせないぞ張本人のくせして。だいたい入学早々、ほとんど顔も知らない同級生はおろか学年を超えて女生徒に声かけて気を引きまくって、三股も四股も、五股どころか六股した挙句、独身の美人教師まで抱きこんで、果てはけっきょく面倒になって全部ご破算にしちまったら一人も残らなかったじゃないか。今のおまえに群がる取り巻き連中は、その過去をみんな知っているから必要以上に近づいたりしない。手ひどい火傷を負いたくないからな。だから、ただ大勢いる友達の一人としかお前を見やしない。おまえだってそのことをわかってるんだろう。そうじゃないのか?」
「…人の古傷に塩をぬりこみやがってコノヤロー」
アガシは件の事件についてこれ以上ラズリをつっつくと、かえっていらぬ反撃がラズリから自分によこされることに閉口し、即座に話題を変えることを思いついた。
「んで? いったい一週間も家で何してはったんやおまえ。確か王都だったな、おまえの家があるの。みんな大事なく変わりなかったか?」
そもそも話を振ってきたアガシ本人によって、今までの会話の流れが全てうやむやにさせられたことに気付いたラズリは、半ばあっけにとられたが、まあそれも彼のことだし、と妙に納得してそのまま黙っていることにした。
粘着質よろしく、ねちねちと話を後々まで長引かせず、きっぱりと一切を絶ち、手を引くさまは、女の子たちとのつきあいをいっぺんに断ったその一連の顛末にもそっくりだった。
それは多分に彼の基本的な性格にもよるのだろう。しかもその得な性分のおかげで、彼は別れた彼女たちの一人からも、恨まれたりあとくされを残されたりなどはいっぺんもなかったのである。
「別に。みんな変わりなく息災だったよ。父さんも母さんも姉さんも。上の姉さんは外国に嫁いでいるからどうなのか知らないけど」
「そうか。ならよかったな。ほら、おまえ学期が変わるごとの長期休みも全く帰らねーでいつも寮に居残り組だろ? ほなら袋さんや親父さん喜んだやろ、謹慎処分とはいえ、久しぶりに帰宅したんだもんな」
「…喜ぶどころか」
くっと咽の奥を鳴らすようにラズリは苦みばしった笑いをこみあげさせながら吐き捨てるように言い放つ。
「かえって大目玉をくらったよ。謹慎処分だなんて、まったく我が家の恥だってね。挙句の果てには親父の許可なく部屋から出てくるなって言われたし。食事もみんなと一緒に取らなくてもいいからって毎食運ばれてね。ほぼ軟禁状態もいいところだった」
「お…。おいおい、マジかよそれ」
淡々と告げるラズリの帰宅後の様子にアガシは驚きのあまり目を見張りながら、持っていた本をぱたりと閉じて机上に戻した。
「いや、ったく、ひでえ話やなあ。まあ、確かに帰宅理由は威張れたもんじゃねーけど、本来なら褒められてしかるべきだぜ?」
そう言いつつ、アガシはやけに同情をこめたまなざしを浮かべるとラズリの肩をぽんぽんと軽く叩いて少しだけ声をひそめた。
「…未だかつてどんな名だたる魔法使いでもついぞ成し得なかった二頭の飛竜の同時捕獲に成功したんやでおまえは。まだ学院の生徒の身分でありながら、や。せやから、処分の内容はともかくおまえもよくやったとねぎらわれこそすれ、いくらなんでもそりゃねーだろって気はするが…」
「仕方ないさ。何せ不肖の息子だからね、自分は」
ラズリは自分に寄りかかり気味になって肩に置かれたアガシの手を邪魔くさそうに軽くはらうと、やや自嘲めいた口ぶりで先を続ける。
「そもそも家族中の反対を押し切ってこの学院に来たこと自体が責められる要因なんだ。そんな人たちにことさら申し開きしたとて何になる? こっぴどいお叱りが通り過ぎるのをただ黙って耐えて、時間が過ぎ去るのをひたすら待つのが賢明ってもんだろ。争いを長引かせても無駄に体力を消耗するだけだからね。放っておかれるならそれはそれでいいさ。それならば一人で勉強でもしていた方が、よっぽど有意義な時間の使い方だ」
「…はー」
アガシは深くためいきをついた。ためこんでいた自身の思いを吐き捨てるかのようにずらずらと並べ立てるラズリにこれ以上自分は何をかいわんや、と思いながら。
「はん、つくづくおまえにゃ同情すらぁ」
「それはこっちの台詞だよ。アガシ、君だってそうじゃないか」
「んーん、わいか? まあ、んなこた気にせんどき」
アガシはそう言い、にっと唇をつりあげさせた。
しかしラズリは彼の言うことを受け流さず、まるで自分のことのように躍起になって言い募った。
「歴代の偉大なる魔法使いを世に輩出した経歴のある君の部族からは、長子の身分じゃないとこの学校の門をくぐれないんだろう? それを末弟である君が、家族の大反対を押し切って、授業旅免除の特待生扱いで入学したって言うじゃないか。本当によくがんばっているよな」
「あっはっは。そないなことでいちいちくそ悩んでおったら、一人前の魔法使いになんぞなれっこないで。それにどーせしゃかりきで勉強したって、試験じゃいつもおまえにゃ負けっぱなしや。万年二位のレガにもな。ほらな、特待生っちゅーても大したこたないやろ?」
「それだって常に五番以内はキープだ。大したもんだよ。絶対十番まで落ちたことがないなんてある意味すごすぎるくらいだ。他のやつらは先週よくても今週はだめ、次週はさらに落ちて来週はもっとだめかもしれない、そんな連中ばっかりだろう? レガだってああ見えて、時々、十番より下をいったりきたりすることもあるじゃないか」
「はは、浮き沈み激しいのが常に人の世、ちゅうわけか。まあ、わいの場合は五番から下に転げ落ちたら、そりゃえらいことになるさかいな。それこそ死活問題や。成績不良で特待生の資格剥奪、挙句の果てには放校処分で強制送還やで? 必死になるのも当たり前やな。…それでなくても素行不良だの、制服着用規定違反だのとオおエライ先生方からいちいちい目ぇつけられとるるのに、成績落ちたら即処分決定や」
「それでも…いいじゃないか。君はこの学校を卒業したら、大手を振って魔法使いとしての道を進むことができる。でも僕は…違う。ここでどんなに優秀な成績を修めたとて、いずれ十八になれば家督を継ぐしか、将来はないんだ。そういう約束を父や母と交わしたからこそ、なんとか入学を許してもらったんだけども…」
ラズリはアガシから故意に視線を外すと、やるせない重いためいきをつくとともに声のトーンを一段低くしてそうつぶやいた。
そして、ふいに思い出す。自宅謹慎を言い渡されて、いやいやながらも王都にある我が家であるところの――セルリアン宮殿に戻ったその日の午後のことを。
そう、ラズリ・マーヴィとは学院の生徒としての仮の姿。彼の本名はラズウェルト・セイルファーディム。この東大陸きっての長い歴史と繁栄を誇る大国であり、天上の天という意味合い持つセレスト・セレスティアン王国の日嗣の皇子、正真正銘の皇太子なのだった。
** ** **
「だから私は最初から反対だと言ったんだ」
苦々しい表情で王、ジェラルドは開口一番にそう吐き捨てた。
彼は自身の執務室の椅子に深く腰掛け、目の前にラズリを立たせたまま視線をそらして深いため息を搾り出す。
「陛下の仰る通りですよ、ラズウェルト。そもそも王族であるあなたが魔法に関わることなどに執心するその気持ちが、私たちにはちっとも理解できません」
王のすぐ隣りに並ぶようにして立つ王妃、グィネビアも「やれやれ」とでも言いたげに首を振ってこめかみをおさえる素振りを示す。
「これを機に我儘もたいがいになさい。果たしてその身に魔法学を修めていったい何になりましょう? 将来は魔法使いになどなれるべくもないのに。その上、今回はとんだ不祥事を犯して一週間もの自宅謹慎を命ぜられるとは…。いったいロータスの魔法学校で何を学んでいたのですかあなたは」
一呼吸を置き、重いためいきをしぼりだす王妃。
ラズリは彼女の言葉を耳にしたとたん、これまでの経過を自身の記憶からよみがえらせたのか、思わず唇をきゅっとかみしめた。
「まったく…この子は。いつまでたっても子供じみたことを繰り返してばかりで…。学院側に、私たちが息子かわいさにせいぜい甘やかして育てたせいにされてはたまりませんよ」
「そうともラズウェルト」
王妃の言うことはもっともだとばかりに、王はその後を続けた。
「おまえは将来この国を、太古の昔より有史以降、連綿と続く長き歴史の中に、東大陸にその名をとどろかせてきた栄えあるわが国、誇り高き天上の名を抱いたセレスト・セレスティアン王国の未来を背負って立つ身なのだぞ? 自らが先頭に立って民を導き、平らかに世を治めるべく国王第一位継承者であるおまえが魔法なぞにうつつを抜かしているようでは民は…」
「…お言葉ですが陛下」
突然ラズリが口を挟む。それまで王と王妃の度重なる叱責を黙ってじっと受けていたはずが、まだ話の途中で腰を折るとは何ごとか。当事者である王も、またそばに控えていた王妃もハッとしてラズリの顔を改めてまじまじと眺める。
ラズリの瞳には、鋭くとがった弓月のように剣呑とした雰囲気がまんまんとたたえられていた。それはまるで、彼の中に抱えている静かな怒りを露呈させているかのようで、表立って態度を荒げる様子はなかったが、それでも二人を威嚇するには十分な強さをはらんでいたのである。
「陛下が仰る通りに、男系男子の長子が王位を継承するのが常にわが国での世の倣い、法制下における世襲制を敷くというのであるならば、私にその資格はありません。この国の日嗣ぎの皇子は従兄弟のディルナス…いや、私の兄上だ。兄上が王位を継げばいい。いえ、そうすべきなのです。さすれば私は喜んで、兄上に家督を譲り、王位継承者第二位の立場に引き下がりましょうぞ」
「ラズウェルト…!」
怒声に近い一言が室内に響き渡った。その声はもちろん、王のものだった。王は椅子の肘掛に置いていた手で勢いよく反動をつけて立ち上がると、恐ろしいまでの形相で彼を凝視する。
「血迷うたかそなた…! 何を根拠にそんな世迷言を申すか」
「父上こそ…! 私が何も存じ上げないとお思いなのですか。いつまでもあのような大事、とうてい隠しおおせるものではございますまい」
彼の中にそれまでたまっていた全ての鬱屈が、今まさに噴煙を上げて爆発する火山の勢いで噴出していった。
「…私は全て知っているのです。王が禁忌を犯し、誰と契りを交わしたかを。王の血を受け継いだ生粋の王族のはずである私や姉姫たちよりも、叔母上の養い子とされたディルナスが何故、あんなにも深く澄んだ蒼の瞳を持つ、そのわけを」
「なんてこと…! 気でも狂ったのですかあなたは。口を慎みなさい、ラズウェルト」
王妃はラズリの話を遮るべく、ぴしゃりと彼を叱りつけた。
「暴言など言語道断ですよ、あなた。そんな下衆の勘ぐりめいたことをよくも恥ずかしくもなくいけしゃあしゃと…。いくら私たちが親としての立場で非公式のこの場にてあなたと向き合っているとはいえ、陛下は陛下、目の前におわすこのお方は一家の主であるとともに国王陛下ですよ。一国の王を前にしてそのような侮辱は到底許されません。即刻、取り消しなさい」
「いいえ。私はただ単に事実を述べたまでのこと。あなたがたはそうやって自身に都合の悪いことがひとたび起きれば全てから目をそらし、いっそなかったことにしてしまうおつもりか。真実は…必ずや白日の下にさらされるはず。それをお忘れか、王よ。公正明大にして、天上の天なる高貴さを抱いた我が国の偉大なる王よ…!」
「何を言うかラズリ…! ――っ…うっ」
勢いあまってラズリの元に進み出た王、鋼の力で急激に胸がしめつけられたような痛みを感じ、その場でうずくまる格好のまま、慌てて胸に手を当てた。
「陛下! いかがなされましたかっ」
王の様子の急変ぶりに驚いた王妃は、真っ青な顔で王の身体を支えるべく手を伸ばす。
「いや…そんな大事ない。大丈夫、いつもの軽い発作だ。そう血相変えて心配せんでもいい」
「ですが、陛下」
それならばなおのこと、薬師を即刻呼んで薬を調合してもらわねばと言い募る王妃だったが、王は「まあまあ」と軽くいさめ、「放っておいてもじき、おさまる類のものだ」と説き伏せ、やっとのことで彼女を落ち着かせるのだった。
「ラズリ…もういい。部屋に戻りなさい…」
疲労困憊といった表情で王はそう言うと、王妃の手を借りながら、どっと椅子に座り込んだ。
「そしてそのまま、自室にて蟄居せよ。私の許しなく部屋から出て宮殿内をうろつくことまかりならぬ。学院からの報せにて自宅謹慎が解かれ、再び帰校する日が訪れるまでそうしておるのだ。…よいな?」
「それは…もしや命令ですか? 国王陛下」
「そうだ」
「私が自由に城内を行き来して、勝手にあれこれ周囲の者に詮索し、物事の真相を究明させないようにするための、自衛策と?」
「おまえが私の言葉をそう受け取りたいなら好きにしろ。だが、おまえがわかるまで何度でも繰り返すぞ。わかっておろうな? おまえは十八になり、成人した暁には私の跡を継ぎ、王となるのだ。それはけして変わらんのだ、今後何があろうとも。あの学校を卒業したとて、魔法使いになどなることはけして許さん。故にせいぜいそれまでの務めと思い、以後も励め。以上だ」
王はそれだけ言うと、ラズリに向かって手を払うような仕草をし、下がれという自分の意を伝える。
ラズリはそれを受け、その場を去るために形だけの礼をし、王と王妃の顔をなるべく見ないようにしてそっと部屋を出て行った。
ラズリが静かにドアを閉めたとたん、それを待ってましたとばかりに、廊下の角からひょいと誰かが姿を現した。
ラズリと同じ金茶色の髪に空色の瞳。美しいローバネリーの絹で出来た裾の長いドレスに身を包み、頭上には輝く金の細工や宝石で飾られたティアラが載せられている。
彼女はラズリと目を合わせるやいなや、にっこりと満面な笑みをたたえ、桜桃色につややかに光る唇をせわしなく動かして口火を切った。
「お帰りなさい、ラズ。よっぽどこっぴどく叱られたみたいね? あなたがお父様の部屋に入ってから出てくるまで、ずいぶんかかったもの」
「なんだマイカ姉か」
「ま、ひどい言い草ね。そんな、なんだは、ないでしょ? いちお、これでもかわいい弟思いの姉としては、とーっても心配していたんだからね? 感謝されこそすれ、そんな一目でいやな顔されるいわれはないわよ」
…それは、どうだか。
ラズリはその言葉とは裏腹に、その好奇に満ちたまなざしを彼女の表情から見て取ると、やれやれとでも言いたげに小さな吐息をつき、姉姫に対する形ばかりの礼儀も示さずそのまますたすたと歩きだした。
「あん、ちょっと。待ってよラズったら」
「どうせ部屋にいても退屈だからと面白がって物見遊山で来ただけだろ。そっちこそひまっけだな。ずっと聞き耳立てて様子うかがいかい? ご苦労なこった」
足早に自分の前から去ろうとするラズリを追うためにマイカは足首まで丈のあるドレスの裾を持ち上げ、小走りにかけ寄り彼と並んで歩く。
だいぶ虫の居所が悪いのか、普段の彼よりもかなり口調が粗野なことにマイカは即座に気付いたが、それでも姉と弟という立場から、何ら躊躇することなくずけずけと彼の心情を逆なでするかのようにちょっかいを出し続ける。
「ああら、おかんむり? ホント、あんたもつくづく問題児ね。ご病気がちなお父様のご身体を気遣うならば、お母様の言う通りにして、おとなしく城の中で将来の帝王学でも適当に学んでさえいれば、こんな衝突なんて起きやしないのに。何もあんな辺境の、ロータスなんて田舎の魔法学院なんかに素性を隠してまで入学て行っちゃうだなんて、サ。よっぽどの変人としか思えないわ」
「ほざけ。どうせいつか城を出られる身分の姉上にはわからんだろうよ。…エステル姉もフレイ姉も、それぞれ嫁ぎ先でよろしくやってるだろうからな」
「んまっ。ひどいじゃないラズ。その言い草ったらちょっとなくってよ」
むっとした声音でマイカはラズに暴言をたしなめる。
「姉さま二人がそれ聞いたら、絶対に憤慨して落胆なさるわよ。かわいいかわいい、たった一人の日嗣ぎの皇子である弟だと思ってずっと大事に思ってきたのに、当の本人からそんな目で見られてるのかと知ったらねえ…」
マイカはふうとためいきをついて、二人の姉姫とともに過ごした日々のことをそっと思い出した。
「まあ、そりゃ。そりゃあたしだってね、いつかは、この城を出て行くだけじゃなくて、事と次第によったら国すらも出て行くかもしれない身の上だけど? でも、遠い異国に嫁いだって、誰かと別の家族になったって、あんたとあたしは姉と弟っていう間柄に変わりはないのよ。だもの、姉としては弟のあんたがいい王様になって国をよくしてくれることだけを、願っているわよ。姉さまたちだって、きっとそう思っているにきまってるわ」
「別に。この国の王は僕だって決まっているわけじゃないだろう」
「…え?」
「この国の王となるにふさわしい人間は僕一人じゃないってことだよ。…血の濃さだけなら、僕よりもっと王に近い人物が現にいるのに、どうして僕が王位を継がなくちゃならないんだろうね」
「ちょ…。ちょっと、待ってラズ。あなたそれってどういう」
マイカの言及をさりげなくかわそうとするのか、ラズリは折りよくたどりついた自室のドアを開けて中に入ると、前を向いたまま後ろ手でぱたりと閉めて施錠し、そのまま平然と部屋の中を進み続けていった。
「ラズ、ラズウェルトったら。ひどいじゃないのあなた」
まだ何か言い残したことでもあるのだろうか。ドアひとつ向こうで、マイカはさかんにドアの表面をどんどんと叩いたり、ラズリの名を呼ばわっていたが、その内あきらめて自分の部屋に戻るだろうとラズリは踏んで、それは一切無視することにしたようだ。
ラズリがすたすたと歩いて部屋の中央までやって来ると、大きなテーブルの上に見事なまでに美しく咲き誇った大輪の薔薇をはじめとする美しい花々が花瓶に飾られているのがつと、目に入った。
「これは…いったい」
ラズリは驚きのあまり思わずそう口に出してしまった。父王に書斎へと呼ばれるまで自室にこもっていた時はなかったはず。それが…なぜ。
「ああ、それはディルナスさまからですよ、ラズウェルト坊ちゃま」
気さくに声をかけられ、ラズリがハッとして後ろを振り返る。
するとそこには、かなり年をめした部屋付きの召使い女であるハンナが両手に花材の残りを抱えて今しも部屋を出て行こうとするところだった。
「ディル兄…いやディルナス、が…? いつここに?」
「ええ、つい今しがた。坊ちゃんが王様にお呼ばれなさったその少し後でしたか。いえ、もちろんこちらのお部屋にはいらっしゃいません。下の私らの控えの間にひょっこりいらっしゃいましてね。もう本当に、最初いらっしゃった時はどなたがいらしたのかお顔もよくわからないほど、両手いっぱいに抱えきれないくらいにお花をお持ちになられたんです」
「そうか…兄ぃが」
「はい。何でも。坊ちゃまがロータスの魔法学校から一時帰宅されたことをファナトゥの離宮の元にて早馬でお知りになりましたとのことで、早速お迎えのお品をお届けしたいと仰せでした。どうやら忍びで参ったようですよ。共の者に馬車を走らせてお一人でいらっしゃったご様子でしたから」
「それじゃ、もう…?」
「そうですねえ、そのお花を置いて割とすぐにでしたか。一応、坊ちゃまに一目お顔をお見せになってはと、私も他の者もお引き止めいたしたんですが。坊ちゃまにお気を遣わせては申し訳ないと、ディルナスさまの方が頑なにご辞退なされましてね。たとえ自分は王族の血に連なる一員といえども、普段、城内にいないはずの人間が前もって参内する通達もなしに、うろついていては周囲の騒ぎになると仰せになりまして…」
ディル兄らしい、な。
ラズリは一連の彼の言動を彼女から伝え聞きながら、ディルナスであればきっとそう主張するに違いないと咄嗟に思った。
そしてそう言った時の、彼のその表情までもが生き生きと目の前に浮かぶ気がしてふいに口元をゆるめるのだった。
「それはいいとして…」
ラズリはテーブルの上にわっと盛られた花の表面を軽くなでながら苦笑いを浮かべて彼女にちらりと視線を送る。
「さすがにばあやもそろそろ、その坊ちゃまって呼ぶのはやめにしてくれないか? もう僕も十六を過ぎたんだよ」
「あら、まあ。もうそんなにおなりですか。本当に月日が経つのはお早いですこと。私にとっちゃラズウェルトさまはいつまでたっても、こんなちーっこい頃の坊ちゃまのまんまですよ、いつだってね」
ハンナは少し身体を傾けて自分の膝の辺りを手で示しながら、今のラズリよりもっと年端のいかない頃の彼の姿を思い出し、眦を下げると一人でフフフと意味深な笑いをこみあげさせた。
「ええ、お小さい頃のラズヴェルトさまのことに関したら、たぶん王妃さまよりもよーくよっく存じ上げておりますでしょうよ。何せ、くちゃいくちゃいおしめをお取り換えしましたのも、あわあわのお風呂にちゃっぷちゃっぷとお入れして、体のすみからすみまでさしあげたのも、みーんなこのわたくしですからっ。もちろん、わたくしは今でもちゃーんと存じ上げておりますよ、ラズウェルトさまのお尻のほくろの数がいくつあるかまでもね」
思わぬ彼女の逆襲にかえってたじたじとなったのはラズリの方だった。だが、さりとて、ここでそのままひるんでもいられぬとばかりにさらに切り返しをはかる。
「でもなあ、再来年には学院も卒業して父王の後を継ぐためにまたここに戻ってくるだぜ。そうしたらもう僕がこの国の王だ。ばあやは王様に向かっても坊ちゃまと呼ぶのかい? いくら部屋付きの召使いとして、幼少の頃からおまえには何かと世話になっているとはいえ、それってまずいんじゃないか一応」
「…あら。そういえば、そうでしたわね。これはこれは、うっかりしておりましたわ。お人前で王様のことを坊ちゃまとお呼びしているのが皆様のお耳に届きましたら、わたくしの方があまりにもぶしつけで礼儀作法知らずになりましょう」
そらみろ、とばかりにラズリはこれでやっと自分がもちかけた案件に決着がついたことを満足したのか、うんうんと一人うなずく。
すると彼女もそれに呼応しようというのか、いかにもまじめくさった顔でラズリに向かうと「わかりました。それでしたら改めます」と言い切ったものの、ほんの一呼吸を置いてさらに衝撃的なことを提言するのだった。
「それじゃ、今後はわたくしとお二人きりの時にだけ、心をこめてお呼びいたしましょうね。坊・ちゃ・ま…!」
――はあ?
彼女の台詞を耳にしたとたん、思わずラズリはその場でずべっとこけそうになり、慌てて態勢を元に戻した。
「ちょっと待て、それは…!」
「では失礼いたしますラズウェルト坊ちゃま。後ほどハイティーをお夕食の前にお届けいたしますわね。今日からしばらく坊ちゃまにお食事を召し上がっていただけると、料理番がことさらはりきっておりましたようですよ。どうぞ今晩のお献立を楽しみになさっていてくださいませね」
にーっこり。満面の笑みを浮かべると彼女は軽くラズリに一礼して踵を返すと、ラズリが入ってきたドアとは別の、城内の使用人専用の出入り口から外へ出て行った。
後に残されたラズリは、彼女の強引な気色に押されたまま、その場であっけに取られてぽかーんと口を開け、惚けたように突っ立っていたが、ドアが閉まる音でようやく現実に戻された格好となった。
「…ったく。まいったな」
もはやラズリにすら止めようがないハンナの暴走ぶりにはひたすらあきれかえるばかりだったが、それでも王や王妃に抱く感情とは全く異なる、気心知れた者に対する親しみを久々に感じて少しだけ表情を崩すのだった。
「おれのために…迎えの花、か」
ラズリは自分の目の高さに飾られた花々の集まりに視線を投げかけた。けれど花は無言のままそこにあり続け、ただひたすらきれいに咲き誇るだけだった。
「たかが学校から謹慎処分をくらっての帰宅だっていうのに、な」
やや自嘲気味にそうぼやきながらラズリの指が花に触れた、そのとたん…!
黄色い薔薇の花弁は萼からはらりと離れ、音もなくテーブルの上にそれは落ちていくのだった。
ディルナス――。
彼の姿をまぶたの裏に思い描くと、ラズリは急に胸がしめつけられるほどのやるせなさを覚えて、ぐっと拳を握る。
ラズリの住まう王都の城より南へ半日ほど行ったファナトゥの地の離宮に住まう、父王の妹君の養子として育ったディルナスは、ラズリと四つの年の差があった。
表向き従兄弟という間柄の彼とは、ラズリにとっては兄のように慕っていた存在で、上三人が揃って姉姫ということもあり、姉と遊んだ記憶よりも、離宮を訪れるたびにディルナスが連れて行ってくれる森や川での思い出の方が、その心に強く刻まれていたのだった。
「…さあ、行こうラズ。この間、偶然に見つけたんだ。サルトリイバラの花が咲いているのをね。君にだけ教えてあげるよ、こっちにおいで」
「ほんとう? ディル兄。ぼく、みたいみたい。おねがいだよお。はやくみせてディル兄、ねえ、ねえってば。…あっ」
「大丈夫かい、ラズ」
自分の後を追って森の道を急いでいたあまりに転んでしまったラズリをやさしく抱き起こし、ディルナスはその膝についた土ほこりを静かにはらってやった。
「そんなに急がなくてもだいじょうぶだよ。花も実も足が生えて逃げやしないからね。転んでケガしたらそれこそ大変だよ。…ここ、痛くなかったかい?」
「うん、へいきだよディル兄ぃ。えへへ、ぼくえらいでしょ、なかなかったよ。ぼくねえ、ころんでもなかなかったの!」
「そうだね、男の子だもんなラズは。さあ、もう少しだよ。ほら、僕の背におぶさってごらん。こうすれば転ばないからね」
「やったー。ディル兄ぃ。だいすきー」
「あははは。こら、背中で暴れるなよラズ。おっとっと、しばらく会わない内にずいぶん重たくなったなあ、ラズは」
「そうだよ、ディル兄。ぼくねえ、いっぱいごはんたべられるようになったんだもの。まいにちけんのしゅぎょうや、ぶじゅつや、おべんきょうをたくさんしてると、おなかがとってもへるんだよ。だからね、ときどきおかわりもするんだよ」
「そうかそうか、そんなにいつもがんばっているんだラズは。それじゃ、きっと、いつかりっぱな王様になれるよ」
「うん! ぼく、とうさまみたいに、なんでもしってるとってもえらいおうさまになりたいんだあ。だからディル兄ぃもいっぱい、いろんなことおしえてね。もっともっとたくさんべんきょうしたり、からだをきたえたりしたいんだ、ぼく」
「…そうだね。いい心がけだ。ラズがいい王様になれるよう、僕もたくさん協力するよ」
「うわあい、ありがとうディル兄ぃ! きっとだよ。おねがいだからね、おとことおとこのやくそくだよっ」
「じゃあ、ちゃんとげんまんしなくちゃね。ウソついたら針千本だぞ、ラズ」
「ぼく、ウソつかないよーだっ」
「あはははは…」
遠い昔、何もしらない幼少のみぎりには、そんな会話を交わしたこともあっただろうか。けれどそんな懐かしい温かな思い出も、あの日を境に一変する。
「――それにしても不憫なのはディルナスさまだよ」
「…しっ。ちょっと声が大きいよ、アンタ。ラズウェルトさまがうちの離宮にいらしてんだからサ。どこで聞かれるかわかったもんじゃないよ」
「わかってるヨ。何しろラズウェルト様に限らず、あのコトが世間に知れたらあたしらの首がチョン、だもんね」
中年の召使い女の一人が自分の首を手で切り落とす真似をすると、もう一人の召使い女も「んだんだ」と深くうなずき、同意を示した。
「いくらうちのセシリア姫さまと王さまが禁忌を犯した上の証とはいえ、自分たちの血筋を受けついだ子だよ? むしろ国外からうちの王様のもとに嫁いでこられた王妃さまのの腹を借りて生まれたラズウェルトさまよりかは、生粋の王族、生まれながらにして王の器を持ってるはずに違いないのにサァ」
「ほんだらだ。なのに、ったく。王様もたいがいにして非情だねえ。姫さまを手篭めにした張本人だというのに、ひなびたこんなファナトゥの片田舎の離宮付きで適当な男をくっつけて追いやってヨ。自分の腹痛めて産んだ我が子のディルナスさまを養子扱いにさせられてさァ。あたしゃ姫さまが不憫で不憫でならないよ、つくづく」
「そんだからあたしらは、王都からこの離宮に進んでついてきたんじゃねーの。姫さまのお小さい頃からお世話してきた身としては、せめて慣れた召使いが傍にいた方が気心が知れてよいだろうからってねえ」
「まあ、そうなんだけどサ。…でも皮肉だねえ。何にも知らないラズウェルトさまがディルナスさまのことを、心から慕っているなんてねえ。ディルナスさまは姫さまから聞いていらっしゃって、年若い頃から真相をご存知でいらっしゃる分、本当におかわいそうだわ…」
ラズリはそこまで耳をそばだてて黙って聞いていたが、とうとうその場にいることがいたたまれなくなり、ふっと踵を返して、召使い部屋の前を横切ることなく、離宮城内を早歩きで進んでいった。
そんな…。ディル兄が本当に僕の兄だなんて。しかも父上と叔母上の間に生まれた、真性の王族の血を引く存在だなんて。
召使い女の話に混乱にきたしたラズリの足向きは、いつしか光が満ち溢れている中庭に通じる回廊に迷いこんでいた。
「やあ、ラズじゃないか。午後の剣の自主練習はもう終わったの?」
名前が呼ばれた方向にラズリが振り向くと、中庭に立つディルナスの姿があった。
太陽のように、光輝く金の髪。
青空のように、どこまでも美しく澄み渡る蒼い瞳。
年を経るごとに、ますます際立つ整った面立ちはまるで神話に出てくる神の姿を想起させて、ラズリは彼と会うたびに神々しいまでのまぶしさを感じずにはいられなかった。
「ディル兄こそ…。こんなところでいったい何を」
「ん? 僕はいつもの趣味の土いじりさ」
見るとディルナスは普段の身なりとは異なり、農夫が身に着けるような作業に適したこざっぱりした衣服に身を包み、手には道具の入ったティン製のバケツを下げていた。
「ごらん、ラズ。きれいだろう? この中庭で咲いているのはみんな僕が種から大事に育ててきた花ばかりだよ。ここはよく陽が当たるからね、とても発育がよくて、花も実も大きなものをたくさんつけてくれるんだ」
彼が手で示した方向にラズリは視線を向ける。するとそこには、ディルナスが言った通りに、鮮やかな色彩を持ち、イキイキと葉や茎を生い茂らせる植物たちの存在がれっきとしてあったのだった。
「おいで、ラズ。君にも花を切り分けてあげよう。誰か手の空いている者にでも頼んで部屋に飾ってもらうといい」
ディルナスはにこやかにそう言い放つと回廊の側に立つラズリの方に歩み出て、自分のそばに来るよう促した。
ラズリはその招きに応え、中庭に足を踏み入れる。固い石畳を敷いた回廊の廊下と異なり、やわらかな土の地面は革靴をはいていてもこの上なく足裏に心地よかった。
「…さ、見てくれ。この黄色い薔薇なんかどうだい? つぼみが開きかけたところだから、満開になるまで割合長く花が楽しめる」
ディルナスは弾んだ声を立てながら、バケツの中から切りバサミを取り出し、目ぼしい花を切り出していった。
「剣は…?」
「え、なんだって? ラズ。ごめん、ちょうどはさみの音で聞こえなかった」
「ディル兄はどうして剣を…剣を習わないの? 武術や体操もしないし、政(まつりごと)や商い事に関する講義はきかないの? どうして…?」
「…どうして、って? どうしてって…そう言われても」
ディルナスは花を切る手を休め、ラズリに向かって少し困ったような仕草で小首をかしげながら、目を細めるようにして微笑んだ。
それはいつもと変わらぬ彼の、ラズリに対する態度の表れに相違なかった。
けれど、それすらもどこか哀しみを帯びた痛々しげなものに感じ取れるのは、いったいなぜだろうか…?
ラズリはそう感じ取ると、突然きりきりとした胸苦しさを覚えて思わず自分の胸に手を当てるのだった。
「ずいぶんおかしなことを聞くんだね、ラズは。どうしたんだいいきなりやぶから棒に。そんなの、どれもこれも僕には必要がないことばかりだからに決まってるじゃないか」
「だけど…もしかしてこれから必要になるかもしれないじゃないか。ディル兄は、そういうことを考えたことはないの?」
「さあ、どうだろう。もちろん、体を動かすのはきらいじゃないよ。でも、僕はもともと体が弱い性質だからね。剣や武術で身体を鍛える前に、かえってやりすぎて身体を壊してしまいかねないよ」
ディルナスはおどけるように肩をすくめると、さらに花バサミを小刻みに動かしては花を切り続けていった。
「政や商いの講義だってそうさ。君がそれらをきちんと学ばなければならないのは、王の跡を継いで国を統べる身の上だからだろう。けれど、僕は違う。確かに君の従兄弟で王族の一員ではあるけれど、僕は養子でもあるからね。国政を扱う身分じゃないのはもとより、元老院の席に座る資格すら、ないんだ」
蒼い瞳――。
この国の名前を抱いた天上の蒼色(セレスト・ブルー)をその目に宿した彼はそう言った。
王族の血筋に連なる者であれば、大概が青い瞳を持って生まれてくる。ラズリも三人の姉姫も皆、空の色を帯びた美しい色の瞳を生まれながらにして抱いているのだった。
けれど隣国から嫁してきたグィネビア王妃の瞳の色は灰褐色だった。そのため、その血を受けたラズリと三人の姉姫たちの瞳の色は、ジェラルド王とまったく同じ蒼の色を持ち得なかったのだ。
どこまでどこまでも、深く澄み渡る蒼を抱きながらも、ディルナスは王都の宮殿ではなく、片田舎の離宮に住まう。一生をずっと、ここで静かに過ごすために。
「でも僕は、それを不満に思ったことなど一度たりとてないよ」
目を細めて笑みを浮かべると、ディルナスはそう強く言い切った。
「…もしかしたら、僕は生まれてすぐに、すぐそこの道端でばったりと息絶えていたかもしれない身の上だからね。それがこうして運よく何かの巡り合わせがあって、母上の手に引き取られ、こうして何不自由なく育ててもらい、そして今があるんだ。だのに、そんな自分の存在を呪ったり、周囲をうらんだりして、いったい何になろう。そんなことしたって誰も幸せになんか、なれやしないのに」
少しだけまぶたを伏せ、そして何かをふっきるかのようにディルナスはそっと空に向かって顔を上げた。
「だから僕はこうして、花や緑に好きなだけ触れられることができる今の生活を大切に思うし、大事にしたいと考えているよ。これまでだってそうだし、これからだってそうだ。僕を取り巻く周りの人たちによってこうしてつないでもらった生命を、僕は違う形で生み出し、育てていく人でい続けたい。そのための努力は、自分なりに惜しまないつもりさ。それは君だって…同じだろう?」
「僕…? 僕はそんな、ディル兄のように誇れるものなんて、何もない。生まれながらにして王の子供、ただそれだけだのに、人の上に立つ王になんかなって、いいのかな…?」
「なれるさ。君は小さいときからいっしょうけんめい王様になるための勉強をしてきたじゃないか。剣も武術も算術も、戦術も商いも、その全てが王様になるためには大切な基(もとい)なんだからね。君こそ約束を、忘れてしまったのかい?」
「や…くそく?」
「君がとても小さい時のことだけど、あの時のことを僕はずっと覚えているよ。君は自分の父君のようなりっぱな王様になるって、そのためにはいっぱい勉強をするから僕にも協力してほしいって、そう言っていたじゃないか。もしかしてあれは口から出ただけの単なるでまかせだったのかい? ウソをついたら針千本だぞ、ラズ」
「う、ううん。違う…違うよ。だけど…!」
「なら、それでいいじゃないかな。何も迷うことなんてないだろう? これからますます研鑽を積み重ね、正しき道を、陽の当たる表を歩めばいいのさ。君がすばらしい王様になること、それだけを僕らは願い、君の支えになりたいと心から望んでいるからね。みんなが、だよ? 王や王妃や君の姉姫さま、この僕や母上、城の者たちだけじゃない、国の全ての人たち、みんながね?」
ぽんぽんと、ディルナスはラズリの肩を軽く叩き、激励の意を伝えた。
「さあ、ラズ。これを持って部屋にお行き。そしてそんな、何の益にも立たない迷い事はもう断ち切るんだ、いいね?」
ディルナスはそう言ってラズリにひとかかえもあるほどの薔薇や緑をわんさかと分け与えると、これが最後とばかりに背中を後押しして先を歩くよう促すのだった。
ラズリはディルナスに持たされた花を抱えたまま歩み続け、けして彼の方を振り返りはしなかった。
…否。どうしてもできなかったのだ。
きっといつもの彼のことだ。自分の前から去りゆくラズリを、おだやかな微笑を浮かべて見送っていることだろう。
背中に感じる視線が気がかりで、ちらとでもディルナスの方を振り向いてしまったとしたら…?
十中八九、ラズリはこらえきれずにその場で声を上げてわんわん泣きだしてしまうに違いない。そう、ラズリは確信していた。だからこそそのまま歩き続けたのだ。
どうして…こんなにも。
ディル兄、ディル兄は…やさしすぎるのだ。全てにおいて。
もしも彼が、何事にも貪欲で、自己顕示欲が人一倍強く、ひたすら権力や地位、名誉といった俗っぽいものにからきし弱い人種であったらよかったのに。
ひそかに自分にとって代わろうという黒い企みを抱き、虎視眈々と王位を狙う野心に満ちた人柄であれば、迷うことなくラズリは自身の持つ全てを喜んで譲ったことだろう。
国を統べる王となるべき者は男系男子における長子が継ぐもの、という現行の法制に従うならば、それに相当する人物はディルナスただ一人だけだからだ。
だがディルナスは首を振って断言するのだ。自分にはまずその資格がないと、そしてまた、王となる器も持ってはいないと。そうして、一切合切を拒否したのだ彼は…。
ラズリは離宮に用意された自分の部屋にかけこむと、両手に持っていた花々を床に次々と取りこぼしながら、ベッドに身体ごとダイブしてそのまま顔をつっぷしてわっと泣き伏した。
そしてその後もえんえんと、ここにたどりつくまでずっと我慢していた涙をとめどなく流しては、枕やシーツをしっとりと濡れさせるのだった。
一夜明け、ティーナは本日の講義を受けるべく指定された教室をめざして走っていた。
毎度のことながら、寝坊して遅刻ぎりぎりである。同室の少女たちがティーナよりも先に目覚めたのなら、起こしてくれてもかまわないだろうにと思いきや、ここでは生徒の独立精神を養うために、相手を手助けする側もされる側も同様に罰を受ける決まりがあるので、自分が被害を蒙るのを省みずに相手を助けようとする輩もそうそういないのだった。
それはともかく、昨日、彼女の身に何が起きようとも、日常は相変わらず、いつもと同じように夜が来て朝になり太陽は昇って、一日の学校生活はこうしてはじまるのだった。
ティーナはやっとのことで教室にたどりついた。するとまるで彼女がここの来るのを見計らったかのように、教室の後ろのドアがちょうど開いた。しめた、あそこから中に滑り込める。そう踏んだティーナはばたばたと足音を立てて扉の前までやってきた。
すると、あやうく。教室の中から外に出るべく、ドアの前までやってきたラズリとティーナは正面衝突しそうになりかけたのだ。
ラ、ラ、ラ、ラ、ラズリ…! うそ、そんな! まさかまた…!
前につんのめりになりそうになる体勢をかろうじて支え、その場に立ち止まって事なきを得たティーナだったが、それでも急の出来事すぎて、心は終始動揺しっぱなし、驚きのあまりに「ごめんなさい」の一言すら口をついて出てこなかったのだ。
何も言わずに息を切らし、はあはあぜいぜいとひたすら呼吸を乱すばかりのティーナと相対したラズリは、彼女に自分の進路をまたもや妨害されたと思ったのだろうか。いやそうに軽く眉根を寄せ、ぺこんと頭を下げて自分が先に通るから、という意志を示す。
ここにきてやっと、ティーナは我に返ってラズリの意思表示に気付いたようだ。慌てふためきながら「ご、ごめんなさい。ど、どうぞ」と早口でまくしたててラズリに道をゆずる。
しかしラズリは終始無言、そしてまたティーナのことになど目もくれずさっさと教室を出ていったのだった。
そんなティーナとラズリのちょっとしたやりとりを、目ざとく見つけたのは同級生のイザベルやルーシア、ペシェだった。大抵、彼女たちはどこにいくにもつるんでいる仲間たちだったのだ。
「あらぁ? だーい好きなラズリにそっぽ向かれちゃったの?」 「かーわいそうねえ、ティーナったら」
「ウフフ。さあ、どーするどーするティーナ? ほらほら、愛しの君がもう行っちゃうわよ。早くハンカチでも落として気を引いたら? あなた得意でしょ、昨日の図書館の時みたいにね」
どっと笑い声がこだまする。とたん、何事かと通りすがりの生徒たちの多くがティーナの方に視線を集中させた。
「何? あの子がどうしたって…?」
「ほらきっと、あれじゃない。昨日の図書館の…」
「なあんだ。別にどってことない話でしょ、それくらい」
ティーナの耳に入ってくる、関係ない生徒たちからのひそやかな会話の数々。
彼女は自分が注目されていることに対し、恥ずかしいやらいたたまれないやら、一言では言い表すことのできない複雑な胸中にかられて、うつむきながらも思わず拳を握りしめた。
何か一言でも彼女たちに言い返すことができれば、どんなにか気が楽になるだろう。
いいじゃない、誰が誰を好きで、どう心の中で思っていようと。
それがあなたたちにとって、いったい何の関係があるっていうの?
…そうたきつけてやりたい。でも、だけど…どうしても。
声が出ないの、顔が上げられないの。耳のつけ根まで真っ赤になった頬が熱くて熱くて、ただ仕方がないの。
どうしよう…どうしよう。あたし、このままじゃ…。
「うっわ、ダッセ」
まぶたにたまった熱い雫が今にも廊下にぽとりと一滴、落ちそうになった時、彼女の背後でそんな声が聞こえた。
慌てて頭を上げ、ティーナはまぶたをごしごしこすりなが背後を振り返る。
すると、そこには――。黒い髪と褐色の肌、着崩した制服姿が特徴的な少年があきれ顔で立っていたのだった。
アガシ…? ティーナは驚いて彼の顔をまじまじと見つめてしまった。ラズリと同室の彼がどうして自分なんかを助けてくれるの?
「おーおー。なーにをそこでこそこそ陰険なことをやっとるかとおもたら…。おまえら、今時はやんないぜぇ? そういうの」
彼女たちはふいに現れたアガシ存在にどうも気がそがれたらしい。互いに顔を見合わせるとそれぞれの腕をこづいたり、持っていた教科書の類を持ち直したりと、妙に落ち着きない態度を取り始めたのだった。
「…ふんっ。あーあ、つぅまんない」
「いこいこ、みんな」
「アガシったらばっかみたい!」
「そーよそーよ。何もそんなつまんない子かばったってちっともアンタの得にはならないでしょ。口出しするだけ損じゃないのっ」
彼女たちの勝手な言い草にはさすがのアガシもかちんときたらしく、「はんっ」と鼻を鳴らして皮肉たっぷりに言い返す。
「ばーろー。あんなあ、お嬢さんがた。男はなあ、そんな損得勘定で動くせこい生き物じゃねーっつーの。そこんところよーく覚えときやがれ、このボケナスがっ」
アガシは女生徒たちをシッシと手で追い払う真似をすると、彼女たちはそれぞれ悪態をつきまくっていたが、それでも三々五々、波が引くようにその場から去っていった。
「えっと…。あ、ありがとアガシ」
彼女たちの姿が見えなくなってすぐのこと、ティーナは今度こそちゃんとお礼を言わなくては、とアガシに向かってペコリと頭を下げた。
だがアガシはそれを受けて「どういたしまして」と言うどころか、うざったそうに髪をかきあげると「…ったくティーナ、君も君だよ」と今度は彼女に攻撃の矛先を向け出した。
「なーにやってんだよ、あんなつまらない連中にちょっかい出されるなんてさ。だいたい隙がありすぎんだよ、君は。ちょっとつっつけばすぐ顔に出しちまうなんて、人間信号機かあ? たかがそれっぽっちで泣くヤツがあるかっ。だからみんな面白がって君をいじるのをやめないんだ。君は自分が原因作ってるっていう自覚はあんのか?」
立て板に水のごとくだーっと自分の言い分だけをまくしたてる彼に対し、さすがにそこまで自分が責められる理由はないだろうとばかりにティーナはむくれ顔を示して、彼に抗議を試みようと口を開きかける。
「そんなこと言ったって…。いい? アガシ」
切れ目ない彼の話を遮るかのようにティーナが語気を荒げると、それに反してアガシはその表情からふっと怒りを解いた。
そして、目じりを下げておだやかなまなざし彼女に向けると、普段よりもはるかにやさしい声音でそっとティーナの耳元に口を近づけてささやくのだった。
「ラズリなんかやめて僕にすればいいのに」
「え…?」
いったい自分は彼に何を言われているのかさっぱり見当がつかず、ティーナは思わず聞き返してしまう。するとアガシはそんな彼女にますます謎かけるようにささやき続けるのだった。
「君の目はいつでもラズリを追いかけてる。そんな君の姿を、どこにいたって僕は見分けられることができるんだよ。教室でも講堂でも食堂でもね。僕が君に熱いまなざしを送っていることに気がつかないなんて、ひどいのは君の方さ」
「そ、そんな。あの、あたし…。あの…」
「…なんて、ね」
突然ペロリと舌を出しておどけたように肩をすくめて笑いかけてくる彼に、ティーナはどう切り返してよいやらわからず、ただひたすらかーっと頬を紅潮させてはしどろもどろに言葉を濁すばかり。
「まいったな、冗談やっちゅうねん。そんな困った顔なんかするなよ。あー、おもろかった」
「ひど…っ! アガシ…!」
「悪ぃ悪ぃ。悪かった、そう怒るなよ。謝るよ、ごめんな。君があんまりにもいちずにまっすぐにラズリにばかり視線を注いどるもんでな、ちょっとからかってみたくなっただけやで。大して悪気はないさかいな、気にせんといてくれ」
そうは言うものの…。
アガシのことだから、もう信用おけないといった素振りでティーナは軽く彼をにらんだ。
「そんな顔すんなや。だいじょうぶだって、ウソなんかついとらへんで、ホンマに」
「そうかしら。あなたってけっこういいかげんなんだもの。信じられなくって」
「はっはー。こりゃ手厳しいなあ。でもこれだけは信じてくれへんか?」
「何を?」
「ラズリは君の事を意識して嫌ってなどいないってこと」
アガシの口から突然ラズリの名前が出てきて、思わずティーナは顔色を変えた。
「あっはっは。こりゃ、まいったなあ。ティーナ、めっちゃわかりやすいわあ。…あんなあ、ラズリはな、今のところ自分のことだけに精一杯で、ただ単に女の子のことには一切興味が持てない堅物なんよ。だからそこんとこヨロシクってことで、な?」
「あ、あのねアガシ。違うの、あたしは…」
ここでハッキリ、キッパリ否定しなければ後々まで大変だと直感でわかったティーナは言い訳を試みようとするが、アガシはそんなことはご無用とばかりに彼女の言い分を手で遮った。
「…そら、君のお友達も心配して様子を見に来てくれたぜ。…なあ、そこのかーのじょ」
語尾に音符記号がつきそうなほどリズミカルな口調でアガシが声をかけると、その招きにとうとう観念したのか、柱の陰からそっと姿が現れた。
思わずティーナはあっと息を呑む。学院の制服姿に身を包んだ肩にかかる程度のストレートヘアの持ち主は、言わずと知れたカレン、その人だったのだ。
「ったく、しょーもないねーちゃんや。わいが声かけなきゃ、そのまま黙ってこの場を去ろうとしておったやろ」
「別にそんな…。あ、あたしはただ、その、たまたま通りかかっただけで…」
「いやはや。あかんなあ、奥ゆかしいのもたいがいにせんとな。そんなこっちゃこの鈍いおぜうさんにゃ通じないで。あんさんも言いたいことが山ほどあるんやないか? ん?」
カレンはアガシに自身の気持ちをずばり言い当てられた気がして、ますます口をへの字に結んでむすっとする。
その微妙な表情は、今しも怒りたいのだか、ただ照れくさくて笑いたいのをこらえているだけなのか、いかんせんどちらともつかないままだった。何せティーナと向き合いながらも顔だけはそっぽを向いて、少し横目がちにちらちらと視線を送ってよこすだけだったもので。
そんな彼女の様子に業を煮やしたのは誰でもないアガシの方だった。ティーナの側から一歩踏み出し、「世話が焼ける」とばかりにカレンの肩をぐいとつかむと二人の少女を真正面から相対させる。
「ほら、ティーナも」
「あ…」
ティーナはアガシの突然の行動に半ば混乱をきたし、かなり動揺気味に声をうわずらせた。
しかし、それでもティーナは今ある勇気をふりしぼり「これだけは彼女に言っておかねば」と昨日から思っていたことを何とか口から紡ぎ出そうとするのだが、いったい全体どうしたことか、アガシにさんざ促されても途切れ途切れの断片しか言の葉に結べなかった。
そんなティーナに代わって先に口を開いたのはカレンの方だった。
「あんな子たちのことなんか、気にしなくたっていいわよ。どーせあっちだってラズリに相手にされてないじゃい。ねー?」
妙にハイテンションなしゃべり方でまくしたてるカレン。
ティーナはそれにどう答えたらいいのかわからず、そのまま彼女をじっと見つめた。
すると、なぜだろう。ティーナはまたしても目頭がうるみ、熱い雫が目の中いっぱいにたまって、ぼたぼたとこぼれそうになるのをこらえきれなかったのだ。
「ちょ、ちょっと…! 何また泣いてんのよアンタってば」
「だって、だって…。カレン」
「あー。もうっ。これじゃあたしが何かしていじめたみたいじゃないのっ。ほら、涙ふいて。とっとと泣き止みなさいよ。ハンカチは? 持ってないの?」
カレンに促され、ティーナは自分のポケットをあちこちまさぐったが、制服のジャケットにもスカートにもハンカチはしまわれていなかった。
するとそんな彼女の様子を黙って見ていられなかったのか、カレンは自分のポケットから四つに折られたハンカチを取り出してティーナに差し出した。
「はい、これ。どうぞ遠慮なく使っていいわよ。あたしはもう一枚持ってるから。もう、あいかーらずねティーナったら。また遅刻寸前で忘れたんでしょ」
「ひっく。うっうっ。ぐす…ぐすん。あ、ありがとカレン」
ティーナは嗚咽をこみあげさせながらも、カレンが差し出したハンカチを受け取ると、筋になって流れる涙をぬぐい、しまいには鼻もチーンとかみだした。
「…アンタって本当に」
ティーナの様子を眺めながらふうと吐息をひとつつき、カレンはにっと笑ってティーナの頬を指でつついた。
「あたしがいないと、てんでダメなんだから…」
「カレン…」
「ほい、これで一件落着…! よかったなティーナ、カレン」
ぽんっと合いの手を打ち、アガシが二人の顔を見やる。
「アガシ、あたしあの…。ありがとうっ本当に。あなたのおかげであたし…」
「おっと。礼には及ばんぜよ、ってなところか」
ティーナはカレンのハンカチを持って泣きじゃくりながら、なおも彼に感謝の意を伝えようとするが、アガシはそんなティーナに「わーってる。何も言うな」と言わんばかりにそのまま彼女のふわりと波打つ長い髪をくしゃりとかきまぜるのだった。
苦々しい表情で王、ジェラルドは開口一番にそう吐き捨てた。
彼は自身の執務室の椅子に深く腰掛け、目の前にラズリを立たせたまま視線をそらして深いため息を搾り出す。
「陛下の仰る通りですよ、ラズウェルト。そもそも王族であるあなたが魔法に関わることなどに執心するその気持ちが、私たちにはちっとも理解できません」
王のすぐ隣りに並ぶようにして立つ王妃、グィネビアも「やれやれ」とでも言いたげに首を振ってこめかみをおさえる素振りを示す。
「これを機に我儘もたいがいになさい。果たしてその身に魔法学を修めていったい何になりましょう? 将来は魔法使いになどなれるべくもないのに。その上、今回はとんだ不祥事を犯して一週間もの自宅謹慎を命ぜられるとは…。いったいロータスの魔法学校で何を学んでいたのですかあなたは」
一呼吸を置き、重いためいきをしぼりだす王妃。
ラズリは彼女の言葉を耳にしたとたん、これまでの経過を自身の記憶からよみがえらせたのか、思わず唇をきゅっとかみしめた。
「まったく…この子は。いつまでたっても子供じみたことを繰り返してばかりで…。学院側に、私たちが息子かわいさにせいぜい甘やかして育てたせいにされてはたまりませんよ」
「そうともラズウェルト」
王妃の言うことはもっともだとばかりに、王はその後を続けた。
「おまえは将来この国を、太古の昔より有史以降、連綿と続く長き歴史の中に、東大陸にその名をとどろかせてきた栄えあるわが国、誇り高き天上の名を抱いたセレスト・セレスティアン王国の未来を背負って立つ身なのだぞ? 自らが先頭に立って民を導き、平らかに世を治めるべく国王第一位継承者であるおまえが魔法なぞにうつつを抜かしているようでは民は…」
「…お言葉ですが陛下」
突然ラズリが口を挟む。それまで王と王妃の度重なる叱責を黙ってじっと受けていたはずが、まだ話の途中で腰を折るとは何ごとか。当事者である王も、またそばに控えていた王妃もハッとしてラズリの顔を改めてまじまじと眺める。
ラズリの瞳には、鋭くとがった弓月のように剣呑とした雰囲気がまんまんとたたえられていた。それはまるで、彼の中に抱えている静かな怒りを露呈させているかのようで、表立って態度を荒げる様子はなかったが、それでも二人を威嚇するには十分な強さをはらんでいたのである。
「陛下が仰る通りに、男系男子の長子が王位を継承するのが常にわが国での世の倣い、法制下における世襲制を敷くというのであるならば、私にその資格はありません。この国の日嗣ぎの皇子は従兄弟のディルナス…いや、私の兄上だ。兄上が王位を継げばいい。いえ、そうすべきなのです。さすれば私は喜んで、兄上に家督を譲り、王位継承者第二位の立場に引き下がりましょうぞ」
「ラズウェルト…!」
怒声に近い一言が室内に響き渡った。その声はもちろん、王のものだった。王は椅子の肘掛に置いていた手で勢いよく反動をつけて立ち上がると、恐ろしいまでの形相で彼を凝視する。
「血迷うたかそなた…! 何を根拠にそんな世迷言を申すか」
「父上こそ…! 私が何も存じ上げないとお思いなのですか。いつまでもあのような大事、とうてい隠しおおせるものではございますまい」
彼の中にそれまでたまっていた全ての鬱屈が、今まさに噴煙を上げて爆発する火山の勢いで噴出していった。
「…私は全て知っているのです。王が禁忌を犯し、誰と契りを交わしたかを。王の血を受け継いだ生粋の王族のはずである私や姉姫たちよりも、叔母上の養い子とされたディルナスが何故、あんなにも深く澄んだ蒼の瞳を持つ、そのわけを」
「なんてこと…! 気でも狂ったのですかあなたは。口を慎みなさい、ラズウェルト」
王妃はラズリの話を遮るべく、ぴしゃりと彼を叱りつけた。
「暴言など言語道断ですよ、あなた。そんな下衆の勘ぐりめいたことをよくも恥ずかしくもなくいけしゃあしゃと…。いくら私たちが親としての立場で非公式のこの場にてあなたと向き合っているとはいえ、陛下は陛下、目の前におわすこのお方は一家の主であるとともに国王陛下ですよ。一国の王を前にしてそのような侮辱は到底許されません。即刻、取り消しなさい」
「いいえ。私はただ単に事実を述べたまでのこと。あなたがたはそうやって自身に都合の悪いことがひとたび起きれば全てから目をそらし、いっそなかったことにしてしまうおつもりか。真実は…必ずや白日の下にさらされるはず。それをお忘れか、王よ。公正明大にして、天上の天なる高貴さを抱いた我が国の偉大なる王よ…!」
「何を言うかラズリ…! ――っ…うっ」
勢いあまってラズリの元に進み出た王、鋼の力で急激に胸がしめつけられたような痛みを感じ、その場でうずくまる格好のまま、慌てて胸に手を当てた。
「陛下! いかがなされましたかっ」
王の様子の急変ぶりに驚いた王妃は、真っ青な顔で王の身体を支えるべく手を伸ばす。
「いや…そんな大事ない。大丈夫、いつもの軽い発作だ。そう血相変えて心配せんでもいい」
「ですが、陛下」
それならばなおのこと、薬師を即刻呼んで薬を調合してもらわねばと言い募る王妃だったが、王は「まあまあ」と軽くいさめ、「放っておいてもじき、おさまる類のものだ」と説き伏せ、やっとのことで彼女を落ち着かせるのだった。
「ラズリ…もういい。部屋に戻りなさい…」
疲労困憊といった表情で王はそう言うと、王妃の手を借りながら、どっと椅子に座り込んだ。
「そしてそのまま、自室にて蟄居せよ。私の許しなく部屋から出て宮殿内をうろつくことまかりならぬ。学院からの報せにて自宅謹慎が解かれ、再び帰校する日が訪れるまでそうしておるのだ。…よいな?」
「それは…もしや命令ですか? 国王陛下」
「そうだ」
「私が自由に城内を行き来して、勝手にあれこれ周囲の者に詮索し、物事の真相を究明させないようにするための、自衛策と?」
「おまえが私の言葉をそう受け取りたいなら好きにしろ。だが、おまえがわかるまで何度でも繰り返すぞ。わかっておろうな? おまえは十八になり、成人した暁には私の跡を継ぎ、王となるのだ。それはけして変わらんのだ、今後何があろうとも。あの学校を卒業したとて、魔法使いになどなることはけして許さん。故にせいぜいそれまでの務めと思い、以後も励め。以上だ」
王はそれだけ言うと、ラズリに向かって手を払うような仕草をし、下がれという自分の意を伝える。
ラズリはそれを受け、その場を去るために形だけの礼をし、王と王妃の顔をなるべく見ないようにしてそっと部屋を出て行った。
ラズリが静かにドアを閉めたとたん、それを待ってましたとばかりに、廊下の角からひょいと誰かが姿を現した。
ラズリと同じ金茶色の髪に空色の瞳。美しいローバネリーの絹で出来た裾の長いドレスに身を包み、頭上には輝く金の細工や宝石で飾られたティアラが載せられている。
彼女はラズリと目を合わせるやいなや、にっこりと満面な笑みをたたえ、桜桃色につややかに光る唇をせわしなく動かして口火を切った。
「お帰りなさい、ラズ。よっぽどこっぴどく叱られたみたいね? あなたがお父様の部屋に入ってから出てくるまで、ずいぶんかかったもの」
「なんだマイカ姉か」
「ま、ひどい言い草ね。そんな、なんだは、ないでしょ? いちお、これでもかわいい弟思いの姉としては、とーっても心配していたんだからね? 感謝されこそすれ、そんな一目でいやな顔されるいわれはないわよ」
…それは、どうだか。
ラズリはその言葉とは裏腹に、その好奇に満ちたまなざしを彼女の表情から見て取ると、やれやれとでも言いたげに小さな吐息をつき、姉姫に対する形ばかりの礼儀も示さずそのまますたすたと歩きだした。
「あん、ちょっと。待ってよラズったら」
「どうせ部屋にいても退屈だからと面白がって物見遊山で来ただけだろ。そっちこそひまっけだな。ずっと聞き耳立てて様子うかがいかい? ご苦労なこった」
足早に自分の前から去ろうとするラズリを追うためにマイカは足首まで丈のあるドレスの裾を持ち上げ、小走りにかけ寄り彼と並んで歩く。
だいぶ虫の居所が悪いのか、普段の彼よりもかなり口調が粗野なことにマイカは即座に気付いたが、それでも姉と弟という立場から、何ら躊躇することなくずけずけと彼の心情を逆なでするかのようにちょっかいを出し続ける。
「ああら、おかんむり? ホント、あんたもつくづく問題児ね。ご病気がちなお父様のご身体を気遣うならば、お母様の言う通りにして、おとなしく城の中で将来の帝王学でも適当に学んでさえいれば、こんな衝突なんて起きやしないのに。何もあんな辺境の、ロータスなんて田舎の魔法学院なんかに素性を隠してまで入学て行っちゃうだなんて、サ。よっぽどの変人としか思えないわ」
「ほざけ。どうせいつか城を出られる身分の姉上にはわからんだろうよ。…エステル姉もフレイ姉も、それぞれ嫁ぎ先でよろしくやってるだろうからな」
「んまっ。ひどいじゃないラズ。その言い草ったらちょっとなくってよ」
むっとした声音でマイカはラズに暴言をたしなめる。
「姉さま二人がそれ聞いたら、絶対に憤慨して落胆なさるわよ。かわいいかわいい、たった一人の日嗣ぎの皇子である弟だと思ってずっと大事に思ってきたのに、当の本人からそんな目で見られてるのかと知ったらねえ…」
マイカはふうとためいきをついて、二人の姉姫とともに過ごした日々のことをそっと思い出した。
「まあ、そりゃ。そりゃあたしだってね、いつかは、この城を出て行くだけじゃなくて、事と次第によったら国すらも出て行くかもしれない身の上だけど? でも、遠い異国に嫁いだって、誰かと別の家族になったって、あんたとあたしは姉と弟っていう間柄に変わりはないのよ。だもの、姉としては弟のあんたがいい王様になって国をよくしてくれることだけを、願っているわよ。姉さまたちだって、きっとそう思っているにきまってるわ」
「別に。この国の王は僕だって決まっているわけじゃないだろう」
「…え?」
「この国の王となるにふさわしい人間は僕一人じゃないってことだよ。…血の濃さだけなら、僕よりもっと王に近い人物が現にいるのに、どうして僕が王位を継がなくちゃならないんだろうね」
「ちょ…。ちょっと、待ってラズ。あなたそれってどういう」
マイカの言及をさりげなくかわそうとするのか、ラズリは折りよくたどりついた自室のドアを開けて中に入ると、前を向いたまま後ろ手でぱたりと閉めて施錠し、そのまま平然と部屋の中を進み続けていった。
「ラズ、ラズウェルトったら。ひどいじゃないのあなた」
まだ何か言い残したことでもあるのだろうか。ドアひとつ向こうで、マイカはさかんにドアの表面をどんどんと叩いたり、ラズリの名を呼ばわっていたが、その内あきらめて自分の部屋に戻るだろうとラズリは踏んで、それは一切無視することにしたようだ。
ラズリがすたすたと歩いて部屋の中央までやって来ると、大きなテーブルの上に見事なまでに美しく咲き誇った大輪の薔薇をはじめとする美しい花々が花瓶に飾られているのがつと、目に入った。
「これは…いったい」
ラズリは驚きのあまり思わずそう口に出してしまった。父王に書斎へと呼ばれるまで自室にこもっていた時はなかったはず。それが…なぜ。
「ああ、それはディルナスさまからですよ、ラズウェルト坊ちゃま」
気さくに声をかけられ、ラズリがハッとして後ろを振り返る。
するとそこには、かなり年をめした部屋付きの召使い女であるハンナが両手に花材の残りを抱えて今しも部屋を出て行こうとするところだった。
「ディル兄…いやディルナス、が…? いつここに?」
「ええ、つい今しがた。坊ちゃんが王様にお呼ばれなさったその少し後でしたか。いえ、もちろんこちらのお部屋にはいらっしゃいません。下の私らの控えの間にひょっこりいらっしゃいましてね。もう本当に、最初いらっしゃった時はどなたがいらしたのかお顔もよくわからないほど、両手いっぱいに抱えきれないくらいにお花をお持ちになられたんです」
「そうか…兄ぃが」
「はい。何でも。坊ちゃまがロータスの魔法学校から一時帰宅されたことをファナトゥの離宮の元にて早馬でお知りになりましたとのことで、早速お迎えのお品をお届けしたいと仰せでした。どうやら忍びで参ったようですよ。共の者に馬車を走らせてお一人でいらっしゃったご様子でしたから」
「それじゃ、もう…?」
「そうですねえ、そのお花を置いて割とすぐにでしたか。一応、坊ちゃまに一目お顔をお見せになってはと、私も他の者もお引き止めいたしたんですが。坊ちゃまにお気を遣わせては申し訳ないと、ディルナスさまの方が頑なにご辞退なされましてね。たとえ自分は王族の血に連なる一員といえども、普段、城内にいないはずの人間が前もって参内する通達もなしに、うろついていては周囲の騒ぎになると仰せになりまして…」
ディル兄らしい、な。
ラズリは一連の彼の言動を彼女から伝え聞きながら、ディルナスであればきっとそう主張するに違いないと咄嗟に思った。
そしてそう言った時の、彼のその表情までもが生き生きと目の前に浮かぶ気がしてふいに口元をゆるめるのだった。
「それはいいとして…」
ラズリはテーブルの上にわっと盛られた花の表面を軽くなでながら苦笑いを浮かべて彼女にちらりと視線を送る。
「さすがにばあやもそろそろ、その坊ちゃまって呼ぶのはやめにしてくれないか? もう僕も十六を過ぎたんだよ」
「あら、まあ。もうそんなにおなりですか。本当に月日が経つのはお早いですこと。私にとっちゃラズウェルトさまはいつまでたっても、こんなちーっこい頃の坊ちゃまのまんまですよ、いつだってね」
ハンナは少し身体を傾けて自分の膝の辺りを手で示しながら、今のラズリよりもっと年端のいかない頃の彼の姿を思い出し、眦を下げると一人でフフフと意味深な笑いをこみあげさせた。
「ええ、お小さい頃のラズヴェルトさまのことに関したら、たぶん王妃さまよりもよーくよっく存じ上げておりますでしょうよ。何せ、くちゃいくちゃいおしめをお取り換えしましたのも、あわあわのお風呂にちゃっぷちゃっぷとお入れして、体のすみからすみまでさしあげたのも、みーんなこのわたくしですからっ。もちろん、わたくしは今でもちゃーんと存じ上げておりますよ、ラズウェルトさまのお尻のほくろの数がいくつあるかまでもね」
思わぬ彼女の逆襲にかえってたじたじとなったのはラズリの方だった。だが、さりとて、ここでそのままひるんでもいられぬとばかりにさらに切り返しをはかる。
「でもなあ、再来年には学院も卒業して父王の後を継ぐためにまたここに戻ってくるだぜ。そうしたらもう僕がこの国の王だ。ばあやは王様に向かっても坊ちゃまと呼ぶのかい? いくら部屋付きの召使いとして、幼少の頃からおまえには何かと世話になっているとはいえ、それってまずいんじゃないか一応」
「…あら。そういえば、そうでしたわね。これはこれは、うっかりしておりましたわ。お人前で王様のことを坊ちゃまとお呼びしているのが皆様のお耳に届きましたら、わたくしの方があまりにもぶしつけで礼儀作法知らずになりましょう」
そらみろ、とばかりにラズリはこれでやっと自分がもちかけた案件に決着がついたことを満足したのか、うんうんと一人うなずく。
すると彼女もそれに呼応しようというのか、いかにもまじめくさった顔でラズリに向かうと「わかりました。それでしたら改めます」と言い切ったものの、ほんの一呼吸を置いてさらに衝撃的なことを提言するのだった。
「それじゃ、今後はわたくしとお二人きりの時にだけ、心をこめてお呼びいたしましょうね。坊・ちゃ・ま…!」
――はあ?
彼女の台詞を耳にしたとたん、思わずラズリはその場でずべっとこけそうになり、慌てて態勢を元に戻した。
「ちょっと待て、それは…!」
「では失礼いたしますラズウェルト坊ちゃま。後ほどハイティーをお夕食の前にお届けいたしますわね。今日からしばらく坊ちゃまにお食事を召し上がっていただけると、料理番がことさらはりきっておりましたようですよ。どうぞ今晩のお献立を楽しみになさっていてくださいませね」
にーっこり。満面の笑みを浮かべると彼女は軽くラズリに一礼して踵を返すと、ラズリが入ってきたドアとは別の、城内の使用人専用の出入り口から外へ出て行った。
後に残されたラズリは、彼女の強引な気色に押されたまま、その場であっけに取られてぽかーんと口を開け、惚けたように突っ立っていたが、ドアが閉まる音でようやく現実に戻された格好となった。
「…ったく。まいったな」
もはやラズリにすら止めようがないハンナの暴走ぶりにはひたすらあきれかえるばかりだったが、それでも王や王妃に抱く感情とは全く異なる、気心知れた者に対する親しみを久々に感じて少しだけ表情を崩すのだった。
「おれのために…迎えの花、か」
ラズリは自分の目の高さに飾られた花々の集まりに視線を投げかけた。けれど花は無言のままそこにあり続け、ただひたすらきれいに咲き誇るだけだった。
「たかが学校から謹慎処分をくらっての帰宅だっていうのに、な」
やや自嘲気味にそうぼやきながらラズリの指が花に触れた、そのとたん…!
黄色い薔薇の花弁は萼からはらりと離れ、音もなくテーブルの上にそれは落ちていくのだった。
ディルナス――。
彼の姿をまぶたの裏に思い描くと、ラズリは急に胸がしめつけられるほどのやるせなさを覚えて、ぐっと拳を握る。
ラズリの住まう王都の城より南へ半日ほど行ったファナトゥの地の離宮に住まう、父王の妹君の養子として育ったディルナスは、ラズリと四つの年の差があった。
表向き従兄弟という間柄の彼とは、ラズリにとっては兄のように慕っていた存在で、上三人が揃って姉姫ということもあり、姉と遊んだ記憶よりも、離宮を訪れるたびにディルナスが連れて行ってくれる森や川での思い出の方が、その心に強く刻まれていたのだった。
「…さあ、行こうラズ。この間、偶然に見つけたんだ。サルトリイバラの花が咲いているのをね。君にだけ教えてあげるよ、こっちにおいで」
「ほんとう? ディル兄。ぼく、みたいみたい。おねがいだよお。はやくみせてディル兄、ねえ、ねえってば。…あっ」
「大丈夫かい、ラズ」
自分の後を追って森の道を急いでいたあまりに転んでしまったラズリをやさしく抱き起こし、ディルナスはその膝についた土ほこりを静かにはらってやった。
「そんなに急がなくてもだいじょうぶだよ。花も実も足が生えて逃げやしないからね。転んでケガしたらそれこそ大変だよ。…ここ、痛くなかったかい?」
「うん、へいきだよディル兄ぃ。えへへ、ぼくえらいでしょ、なかなかったよ。ぼくねえ、ころんでもなかなかったの!」
「そうだね、男の子だもんなラズは。さあ、もう少しだよ。ほら、僕の背におぶさってごらん。こうすれば転ばないからね」
「やったー。ディル兄ぃ。だいすきー」
「あははは。こら、背中で暴れるなよラズ。おっとっと、しばらく会わない内にずいぶん重たくなったなあ、ラズは」
「そうだよ、ディル兄。ぼくねえ、いっぱいごはんたべられるようになったんだもの。まいにちけんのしゅぎょうや、ぶじゅつや、おべんきょうをたくさんしてると、おなかがとってもへるんだよ。だからね、ときどきおかわりもするんだよ」
「そうかそうか、そんなにいつもがんばっているんだラズは。それじゃ、きっと、いつかりっぱな王様になれるよ」
「うん! ぼく、とうさまみたいに、なんでもしってるとってもえらいおうさまになりたいんだあ。だからディル兄ぃもいっぱい、いろんなことおしえてね。もっともっとたくさんべんきょうしたり、からだをきたえたりしたいんだ、ぼく」
「…そうだね。いい心がけだ。ラズがいい王様になれるよう、僕もたくさん協力するよ」
「うわあい、ありがとうディル兄ぃ! きっとだよ。おねがいだからね、おとことおとこのやくそくだよっ」
「じゃあ、ちゃんとげんまんしなくちゃね。ウソついたら針千本だぞ、ラズ」
「ぼく、ウソつかないよーだっ」
「あはははは…」
遠い昔、何もしらない幼少のみぎりには、そんな会話を交わしたこともあっただろうか。けれどそんな懐かしい温かな思い出も、あの日を境に一変する。
「――それにしても不憫なのはディルナスさまだよ」
「…しっ。ちょっと声が大きいよ、アンタ。ラズウェルトさまがうちの離宮にいらしてんだからサ。どこで聞かれるかわかったもんじゃないよ」
「わかってるヨ。何しろラズウェルト様に限らず、あのコトが世間に知れたらあたしらの首がチョン、だもんね」
中年の召使い女の一人が自分の首を手で切り落とす真似をすると、もう一人の召使い女も「んだんだ」と深くうなずき、同意を示した。
「いくらうちのセシリア姫さまと王さまが禁忌を犯した上の証とはいえ、自分たちの血筋を受けついだ子だよ? むしろ国外からうちの王様のもとに嫁いでこられた王妃さまのの腹を借りて生まれたラズウェルトさまよりかは、生粋の王族、生まれながらにして王の器を持ってるはずに違いないのにサァ」
「ほんだらだ。なのに、ったく。王様もたいがいにして非情だねえ。姫さまを手篭めにした張本人だというのに、ひなびたこんなファナトゥの片田舎の離宮付きで適当な男をくっつけて追いやってヨ。自分の腹痛めて産んだ我が子のディルナスさまを養子扱いにさせられてさァ。あたしゃ姫さまが不憫で不憫でならないよ、つくづく」
「そんだからあたしらは、王都からこの離宮に進んでついてきたんじゃねーの。姫さまのお小さい頃からお世話してきた身としては、せめて慣れた召使いが傍にいた方が気心が知れてよいだろうからってねえ」
「まあ、そうなんだけどサ。…でも皮肉だねえ。何にも知らないラズウェルトさまがディルナスさまのことを、心から慕っているなんてねえ。ディルナスさまは姫さまから聞いていらっしゃって、年若い頃から真相をご存知でいらっしゃる分、本当におかわいそうだわ…」
ラズリはそこまで耳をそばだてて黙って聞いていたが、とうとうその場にいることがいたたまれなくなり、ふっと踵を返して、召使い部屋の前を横切ることなく、離宮城内を早歩きで進んでいった。
そんな…。ディル兄が本当に僕の兄だなんて。しかも父上と叔母上の間に生まれた、真性の王族の血を引く存在だなんて。
召使い女の話に混乱にきたしたラズリの足向きは、いつしか光が満ち溢れている中庭に通じる回廊に迷いこんでいた。
「やあ、ラズじゃないか。午後の剣の自主練習はもう終わったの?」
名前が呼ばれた方向にラズリが振り向くと、中庭に立つディルナスの姿があった。
太陽のように、光輝く金の髪。
青空のように、どこまでも美しく澄み渡る蒼い瞳。
年を経るごとに、ますます際立つ整った面立ちはまるで神話に出てくる神の姿を想起させて、ラズリは彼と会うたびに神々しいまでのまぶしさを感じずにはいられなかった。
「ディル兄こそ…。こんなところでいったい何を」
「ん? 僕はいつもの趣味の土いじりさ」
見るとディルナスは普段の身なりとは異なり、農夫が身に着けるような作業に適したこざっぱりした衣服に身を包み、手には道具の入ったティン製のバケツを下げていた。
「ごらん、ラズ。きれいだろう? この中庭で咲いているのはみんな僕が種から大事に育ててきた花ばかりだよ。ここはよく陽が当たるからね、とても発育がよくて、花も実も大きなものをたくさんつけてくれるんだ」
彼が手で示した方向にラズリは視線を向ける。するとそこには、ディルナスが言った通りに、鮮やかな色彩を持ち、イキイキと葉や茎を生い茂らせる植物たちの存在がれっきとしてあったのだった。
「おいで、ラズ。君にも花を切り分けてあげよう。誰か手の空いている者にでも頼んで部屋に飾ってもらうといい」
ディルナスはにこやかにそう言い放つと回廊の側に立つラズリの方に歩み出て、自分のそばに来るよう促した。
ラズリはその招きに応え、中庭に足を踏み入れる。固い石畳を敷いた回廊の廊下と異なり、やわらかな土の地面は革靴をはいていてもこの上なく足裏に心地よかった。
「…さ、見てくれ。この黄色い薔薇なんかどうだい? つぼみが開きかけたところだから、満開になるまで割合長く花が楽しめる」
ディルナスは弾んだ声を立てながら、バケツの中から切りバサミを取り出し、目ぼしい花を切り出していった。
「剣は…?」
「え、なんだって? ラズ。ごめん、ちょうどはさみの音で聞こえなかった」
「ディル兄はどうして剣を…剣を習わないの? 武術や体操もしないし、政(まつりごと)や商い事に関する講義はきかないの? どうして…?」
「…どうして、って? どうしてって…そう言われても」
ディルナスは花を切る手を休め、ラズリに向かって少し困ったような仕草で小首をかしげながら、目を細めるようにして微笑んだ。
それはいつもと変わらぬ彼の、ラズリに対する態度の表れに相違なかった。
けれど、それすらもどこか哀しみを帯びた痛々しげなものに感じ取れるのは、いったいなぜだろうか…?
ラズリはそう感じ取ると、突然きりきりとした胸苦しさを覚えて思わず自分の胸に手を当てるのだった。
「ずいぶんおかしなことを聞くんだね、ラズは。どうしたんだいいきなりやぶから棒に。そんなの、どれもこれも僕には必要がないことばかりだからに決まってるじゃないか」
「だけど…もしかしてこれから必要になるかもしれないじゃないか。ディル兄は、そういうことを考えたことはないの?」
「さあ、どうだろう。もちろん、体を動かすのはきらいじゃないよ。でも、僕はもともと体が弱い性質だからね。剣や武術で身体を鍛える前に、かえってやりすぎて身体を壊してしまいかねないよ」
ディルナスはおどけるように肩をすくめると、さらに花バサミを小刻みに動かしては花を切り続けていった。
「政や商いの講義だってそうさ。君がそれらをきちんと学ばなければならないのは、王の跡を継いで国を統べる身の上だからだろう。けれど、僕は違う。確かに君の従兄弟で王族の一員ではあるけれど、僕は養子でもあるからね。国政を扱う身分じゃないのはもとより、元老院の席に座る資格すら、ないんだ」
蒼い瞳――。
この国の名前を抱いた天上の蒼色(セレスト・ブルー)をその目に宿した彼はそう言った。
王族の血筋に連なる者であれば、大概が青い瞳を持って生まれてくる。ラズリも三人の姉姫も皆、空の色を帯びた美しい色の瞳を生まれながらにして抱いているのだった。
けれど隣国から嫁してきたグィネビア王妃の瞳の色は灰褐色だった。そのため、その血を受けたラズリと三人の姉姫たちの瞳の色は、ジェラルド王とまったく同じ蒼の色を持ち得なかったのだ。
どこまでどこまでも、深く澄み渡る蒼を抱きながらも、ディルナスは王都の宮殿ではなく、片田舎の離宮に住まう。一生をずっと、ここで静かに過ごすために。
「でも僕は、それを不満に思ったことなど一度たりとてないよ」
目を細めて笑みを浮かべると、ディルナスはそう強く言い切った。
「…もしかしたら、僕は生まれてすぐに、すぐそこの道端でばったりと息絶えていたかもしれない身の上だからね。それがこうして運よく何かの巡り合わせがあって、母上の手に引き取られ、こうして何不自由なく育ててもらい、そして今があるんだ。だのに、そんな自分の存在を呪ったり、周囲をうらんだりして、いったい何になろう。そんなことしたって誰も幸せになんか、なれやしないのに」
少しだけまぶたを伏せ、そして何かをふっきるかのようにディルナスはそっと空に向かって顔を上げた。
「だから僕はこうして、花や緑に好きなだけ触れられることができる今の生活を大切に思うし、大事にしたいと考えているよ。これまでだってそうだし、これからだってそうだ。僕を取り巻く周りの人たちによってこうしてつないでもらった生命を、僕は違う形で生み出し、育てていく人でい続けたい。そのための努力は、自分なりに惜しまないつもりさ。それは君だって…同じだろう?」
「僕…? 僕はそんな、ディル兄のように誇れるものなんて、何もない。生まれながらにして王の子供、ただそれだけだのに、人の上に立つ王になんかなって、いいのかな…?」
「なれるさ。君は小さいときからいっしょうけんめい王様になるための勉強をしてきたじゃないか。剣も武術も算術も、戦術も商いも、その全てが王様になるためには大切な基(もとい)なんだからね。君こそ約束を、忘れてしまったのかい?」
「や…くそく?」
「君がとても小さい時のことだけど、あの時のことを僕はずっと覚えているよ。君は自分の父君のようなりっぱな王様になるって、そのためにはいっぱい勉強をするから僕にも協力してほしいって、そう言っていたじゃないか。もしかしてあれは口から出ただけの単なるでまかせだったのかい? ウソをついたら針千本だぞ、ラズ」
「う、ううん。違う…違うよ。だけど…!」
「なら、それでいいじゃないかな。何も迷うことなんてないだろう? これからますます研鑽を積み重ね、正しき道を、陽の当たる表を歩めばいいのさ。君がすばらしい王様になること、それだけを僕らは願い、君の支えになりたいと心から望んでいるからね。みんなが、だよ? 王や王妃や君の姉姫さま、この僕や母上、城の者たちだけじゃない、国の全ての人たち、みんながね?」
ぽんぽんと、ディルナスはラズリの肩を軽く叩き、激励の意を伝えた。
「さあ、ラズ。これを持って部屋にお行き。そしてそんな、何の益にも立たない迷い事はもう断ち切るんだ、いいね?」
ディルナスはそう言ってラズリにひとかかえもあるほどの薔薇や緑をわんさかと分け与えると、これが最後とばかりに背中を後押しして先を歩くよう促すのだった。
ラズリはディルナスに持たされた花を抱えたまま歩み続け、けして彼の方を振り返りはしなかった。
…否。どうしてもできなかったのだ。
きっといつもの彼のことだ。自分の前から去りゆくラズリを、おだやかな微笑を浮かべて見送っていることだろう。
背中に感じる視線が気がかりで、ちらとでもディルナスの方を振り向いてしまったとしたら…?
十中八九、ラズリはこらえきれずにその場で声を上げてわんわん泣きだしてしまうに違いない。そう、ラズリは確信していた。だからこそそのまま歩き続けたのだ。
どうして…こんなにも。
ディル兄、ディル兄は…やさしすぎるのだ。全てにおいて。
もしも彼が、何事にも貪欲で、自己顕示欲が人一倍強く、ひたすら権力や地位、名誉といった俗っぽいものにからきし弱い人種であったらよかったのに。
ひそかに自分にとって代わろうという黒い企みを抱き、虎視眈々と王位を狙う野心に満ちた人柄であれば、迷うことなくラズリは自身の持つ全てを喜んで譲ったことだろう。
国を統べる王となるべき者は男系男子における長子が継ぐもの、という現行の法制に従うならば、それに相当する人物はディルナスただ一人だけだからだ。
だがディルナスは首を振って断言するのだ。自分にはまずその資格がないと、そしてまた、王となる器も持ってはいないと。そうして、一切合切を拒否したのだ彼は…。
ラズリは離宮に用意された自分の部屋にかけこむと、両手に持っていた花々を床に次々と取りこぼしながら、ベッドに身体ごとダイブしてそのまま顔をつっぷしてわっと泣き伏した。
そしてその後もえんえんと、ここにたどりつくまでずっと我慢していた涙をとめどなく流しては、枕やシーツをしっとりと濡れさせるのだった。
** ** **
一夜明け、ティーナは本日の講義を受けるべく指定された教室をめざして走っていた。
毎度のことながら、寝坊して遅刻ぎりぎりである。同室の少女たちがティーナよりも先に目覚めたのなら、起こしてくれてもかまわないだろうにと思いきや、ここでは生徒の独立精神を養うために、相手を手助けする側もされる側も同様に罰を受ける決まりがあるので、自分が被害を蒙るのを省みずに相手を助けようとする輩もそうそういないのだった。
それはともかく、昨日、彼女の身に何が起きようとも、日常は相変わらず、いつもと同じように夜が来て朝になり太陽は昇って、一日の学校生活はこうしてはじまるのだった。
ティーナはやっとのことで教室にたどりついた。するとまるで彼女がここの来るのを見計らったかのように、教室の後ろのドアがちょうど開いた。しめた、あそこから中に滑り込める。そう踏んだティーナはばたばたと足音を立てて扉の前までやってきた。
すると、あやうく。教室の中から外に出るべく、ドアの前までやってきたラズリとティーナは正面衝突しそうになりかけたのだ。
ラ、ラ、ラ、ラ、ラズリ…! うそ、そんな! まさかまた…!
前につんのめりになりそうになる体勢をかろうじて支え、その場に立ち止まって事なきを得たティーナだったが、それでも急の出来事すぎて、心は終始動揺しっぱなし、驚きのあまりに「ごめんなさい」の一言すら口をついて出てこなかったのだ。
何も言わずに息を切らし、はあはあぜいぜいとひたすら呼吸を乱すばかりのティーナと相対したラズリは、彼女に自分の進路をまたもや妨害されたと思ったのだろうか。いやそうに軽く眉根を寄せ、ぺこんと頭を下げて自分が先に通るから、という意志を示す。
ここにきてやっと、ティーナは我に返ってラズリの意思表示に気付いたようだ。慌てふためきながら「ご、ごめんなさい。ど、どうぞ」と早口でまくしたててラズリに道をゆずる。
しかしラズリは終始無言、そしてまたティーナのことになど目もくれずさっさと教室を出ていったのだった。
そんなティーナとラズリのちょっとしたやりとりを、目ざとく見つけたのは同級生のイザベルやルーシア、ペシェだった。大抵、彼女たちはどこにいくにもつるんでいる仲間たちだったのだ。
「あらぁ? だーい好きなラズリにそっぽ向かれちゃったの?」 「かーわいそうねえ、ティーナったら」
「ウフフ。さあ、どーするどーするティーナ? ほらほら、愛しの君がもう行っちゃうわよ。早くハンカチでも落として気を引いたら? あなた得意でしょ、昨日の図書館の時みたいにね」
どっと笑い声がこだまする。とたん、何事かと通りすがりの生徒たちの多くがティーナの方に視線を集中させた。
「何? あの子がどうしたって…?」
「ほらきっと、あれじゃない。昨日の図書館の…」
「なあんだ。別にどってことない話でしょ、それくらい」
ティーナの耳に入ってくる、関係ない生徒たちからのひそやかな会話の数々。
彼女は自分が注目されていることに対し、恥ずかしいやらいたたまれないやら、一言では言い表すことのできない複雑な胸中にかられて、うつむきながらも思わず拳を握りしめた。
何か一言でも彼女たちに言い返すことができれば、どんなにか気が楽になるだろう。
いいじゃない、誰が誰を好きで、どう心の中で思っていようと。
それがあなたたちにとって、いったい何の関係があるっていうの?
…そうたきつけてやりたい。でも、だけど…どうしても。
声が出ないの、顔が上げられないの。耳のつけ根まで真っ赤になった頬が熱くて熱くて、ただ仕方がないの。
どうしよう…どうしよう。あたし、このままじゃ…。
「うっわ、ダッセ」
まぶたにたまった熱い雫が今にも廊下にぽとりと一滴、落ちそうになった時、彼女の背後でそんな声が聞こえた。
慌てて頭を上げ、ティーナはまぶたをごしごしこすりなが背後を振り返る。
すると、そこには――。黒い髪と褐色の肌、着崩した制服姿が特徴的な少年があきれ顔で立っていたのだった。
アガシ…? ティーナは驚いて彼の顔をまじまじと見つめてしまった。ラズリと同室の彼がどうして自分なんかを助けてくれるの?
「おーおー。なーにをそこでこそこそ陰険なことをやっとるかとおもたら…。おまえら、今時はやんないぜぇ? そういうの」
彼女たちはふいに現れたアガシ存在にどうも気がそがれたらしい。互いに顔を見合わせるとそれぞれの腕をこづいたり、持っていた教科書の類を持ち直したりと、妙に落ち着きない態度を取り始めたのだった。
「…ふんっ。あーあ、つぅまんない」
「いこいこ、みんな」
「アガシったらばっかみたい!」
「そーよそーよ。何もそんなつまんない子かばったってちっともアンタの得にはならないでしょ。口出しするだけ損じゃないのっ」
彼女たちの勝手な言い草にはさすがのアガシもかちんときたらしく、「はんっ」と鼻を鳴らして皮肉たっぷりに言い返す。
「ばーろー。あんなあ、お嬢さんがた。男はなあ、そんな損得勘定で動くせこい生き物じゃねーっつーの。そこんところよーく覚えときやがれ、このボケナスがっ」
アガシは女生徒たちをシッシと手で追い払う真似をすると、彼女たちはそれぞれ悪態をつきまくっていたが、それでも三々五々、波が引くようにその場から去っていった。
「えっと…。あ、ありがとアガシ」
彼女たちの姿が見えなくなってすぐのこと、ティーナは今度こそちゃんとお礼を言わなくては、とアガシに向かってペコリと頭を下げた。
だがアガシはそれを受けて「どういたしまして」と言うどころか、うざったそうに髪をかきあげると「…ったくティーナ、君も君だよ」と今度は彼女に攻撃の矛先を向け出した。
「なーにやってんだよ、あんなつまらない連中にちょっかい出されるなんてさ。だいたい隙がありすぎんだよ、君は。ちょっとつっつけばすぐ顔に出しちまうなんて、人間信号機かあ? たかがそれっぽっちで泣くヤツがあるかっ。だからみんな面白がって君をいじるのをやめないんだ。君は自分が原因作ってるっていう自覚はあんのか?」
立て板に水のごとくだーっと自分の言い分だけをまくしたてる彼に対し、さすがにそこまで自分が責められる理由はないだろうとばかりにティーナはむくれ顔を示して、彼に抗議を試みようと口を開きかける。
「そんなこと言ったって…。いい? アガシ」
切れ目ない彼の話を遮るかのようにティーナが語気を荒げると、それに反してアガシはその表情からふっと怒りを解いた。
そして、目じりを下げておだやかなまなざし彼女に向けると、普段よりもはるかにやさしい声音でそっとティーナの耳元に口を近づけてささやくのだった。
「ラズリなんかやめて僕にすればいいのに」
「え…?」
いったい自分は彼に何を言われているのかさっぱり見当がつかず、ティーナは思わず聞き返してしまう。するとアガシはそんな彼女にますます謎かけるようにささやき続けるのだった。
「君の目はいつでもラズリを追いかけてる。そんな君の姿を、どこにいたって僕は見分けられることができるんだよ。教室でも講堂でも食堂でもね。僕が君に熱いまなざしを送っていることに気がつかないなんて、ひどいのは君の方さ」
「そ、そんな。あの、あたし…。あの…」
「…なんて、ね」
突然ペロリと舌を出しておどけたように肩をすくめて笑いかけてくる彼に、ティーナはどう切り返してよいやらわからず、ただひたすらかーっと頬を紅潮させてはしどろもどろに言葉を濁すばかり。
「まいったな、冗談やっちゅうねん。そんな困った顔なんかするなよ。あー、おもろかった」
「ひど…っ! アガシ…!」
「悪ぃ悪ぃ。悪かった、そう怒るなよ。謝るよ、ごめんな。君があんまりにもいちずにまっすぐにラズリにばかり視線を注いどるもんでな、ちょっとからかってみたくなっただけやで。大して悪気はないさかいな、気にせんといてくれ」
そうは言うものの…。
アガシのことだから、もう信用おけないといった素振りでティーナは軽く彼をにらんだ。
「そんな顔すんなや。だいじょうぶだって、ウソなんかついとらへんで、ホンマに」
「そうかしら。あなたってけっこういいかげんなんだもの。信じられなくって」
「はっはー。こりゃ手厳しいなあ。でもこれだけは信じてくれへんか?」
「何を?」
「ラズリは君の事を意識して嫌ってなどいないってこと」
アガシの口から突然ラズリの名前が出てきて、思わずティーナは顔色を変えた。
「あっはっは。こりゃ、まいったなあ。ティーナ、めっちゃわかりやすいわあ。…あんなあ、ラズリはな、今のところ自分のことだけに精一杯で、ただ単に女の子のことには一切興味が持てない堅物なんよ。だからそこんとこヨロシクってことで、な?」
「あ、あのねアガシ。違うの、あたしは…」
ここでハッキリ、キッパリ否定しなければ後々まで大変だと直感でわかったティーナは言い訳を試みようとするが、アガシはそんなことはご無用とばかりに彼女の言い分を手で遮った。
「…そら、君のお友達も心配して様子を見に来てくれたぜ。…なあ、そこのかーのじょ」
語尾に音符記号がつきそうなほどリズミカルな口調でアガシが声をかけると、その招きにとうとう観念したのか、柱の陰からそっと姿が現れた。
思わずティーナはあっと息を呑む。学院の制服姿に身を包んだ肩にかかる程度のストレートヘアの持ち主は、言わずと知れたカレン、その人だったのだ。
「ったく、しょーもないねーちゃんや。わいが声かけなきゃ、そのまま黙ってこの場を去ろうとしておったやろ」
「別にそんな…。あ、あたしはただ、その、たまたま通りかかっただけで…」
「いやはや。あかんなあ、奥ゆかしいのもたいがいにせんとな。そんなこっちゃこの鈍いおぜうさんにゃ通じないで。あんさんも言いたいことが山ほどあるんやないか? ん?」
カレンはアガシに自身の気持ちをずばり言い当てられた気がして、ますます口をへの字に結んでむすっとする。
その微妙な表情は、今しも怒りたいのだか、ただ照れくさくて笑いたいのをこらえているだけなのか、いかんせんどちらともつかないままだった。何せティーナと向き合いながらも顔だけはそっぽを向いて、少し横目がちにちらちらと視線を送ってよこすだけだったもので。
そんな彼女の様子に業を煮やしたのは誰でもないアガシの方だった。ティーナの側から一歩踏み出し、「世話が焼ける」とばかりにカレンの肩をぐいとつかむと二人の少女を真正面から相対させる。
「ほら、ティーナも」
「あ…」
ティーナはアガシの突然の行動に半ば混乱をきたし、かなり動揺気味に声をうわずらせた。
しかし、それでもティーナは今ある勇気をふりしぼり「これだけは彼女に言っておかねば」と昨日から思っていたことを何とか口から紡ぎ出そうとするのだが、いったい全体どうしたことか、アガシにさんざ促されても途切れ途切れの断片しか言の葉に結べなかった。
そんなティーナに代わって先に口を開いたのはカレンの方だった。
「あんな子たちのことなんか、気にしなくたっていいわよ。どーせあっちだってラズリに相手にされてないじゃい。ねー?」
妙にハイテンションなしゃべり方でまくしたてるカレン。
ティーナはそれにどう答えたらいいのかわからず、そのまま彼女をじっと見つめた。
すると、なぜだろう。ティーナはまたしても目頭がうるみ、熱い雫が目の中いっぱいにたまって、ぼたぼたとこぼれそうになるのをこらえきれなかったのだ。
「ちょ、ちょっと…! 何また泣いてんのよアンタってば」
「だって、だって…。カレン」
「あー。もうっ。これじゃあたしが何かしていじめたみたいじゃないのっ。ほら、涙ふいて。とっとと泣き止みなさいよ。ハンカチは? 持ってないの?」
カレンに促され、ティーナは自分のポケットをあちこちまさぐったが、制服のジャケットにもスカートにもハンカチはしまわれていなかった。
するとそんな彼女の様子を黙って見ていられなかったのか、カレンは自分のポケットから四つに折られたハンカチを取り出してティーナに差し出した。
「はい、これ。どうぞ遠慮なく使っていいわよ。あたしはもう一枚持ってるから。もう、あいかーらずねティーナったら。また遅刻寸前で忘れたんでしょ」
「ひっく。うっうっ。ぐす…ぐすん。あ、ありがとカレン」
ティーナは嗚咽をこみあげさせながらも、カレンが差し出したハンカチを受け取ると、筋になって流れる涙をぬぐい、しまいには鼻もチーンとかみだした。
「…アンタって本当に」
ティーナの様子を眺めながらふうと吐息をひとつつき、カレンはにっと笑ってティーナの頬を指でつついた。
「あたしがいないと、てんでダメなんだから…」
「カレン…」
「ほい、これで一件落着…! よかったなティーナ、カレン」
ぽんっと合いの手を打ち、アガシが二人の顔を見やる。
「アガシ、あたしあの…。ありがとうっ本当に。あなたのおかげであたし…」
「おっと。礼には及ばんぜよ、ってなところか」
ティーナはカレンのハンカチを持って泣きじゃくりながら、なおも彼に感謝の意を伝えようとするが、アガシはそんなティーナに「わーってる。何も言うな」と言わんばかりにそのまま彼女のふわりと波打つ長い髪をくしゃりとかきまぜるのだった。
(続く…)
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